「乳房を全摘していれば」肺に転移したがん患者に聞いた“選択の後悔”と2年たっても生えない“足の爪”

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2025年03月16日 16:10  週刊女性PRIME

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頑張りすぎた後は、ひどい吐き気や頭痛に襲われるが、ステージの上では苦痛を忘れる

「つらくても、ステージで歌うことが私のパワーの源。明日も頑張ろうって思える歌を届けたいです」

 そう話すのは、4年前にステージ4の肺がんと診断されながらも、バンド活動を続けているがんサバイバーの小島弘美さん。ステージではハツラツとした姿を見せる彼女だが、その陰にはがんと闘う壮絶な日々があった。転移、治療による過酷な副作用に加え、父、そして同じくがんを患ったバンド仲間との別れ。それでも前向きにがんと闘い、生き抜いてきた彼女のモチベーションを聞いた。

見落とされたがんが父の死を機に判明

 小島さんが最初にがんに気づいたのは、'17年。皮肉にもがんの闘病をしていた父の死がきっかけだった。

「半年の余命宣告を受けた直後に父は急逝しました。葬儀の日、シャンとした姿で見送りたいと、ふだんの下着はブラトップなのですが、ちゃんとしたブラジャーを着けたんです。そのとき、胸を触ったら、あれ?って」(小島さん、以下同)

 その違和感は的中。乳腺外科で診察を受けると、乳がんだと診断された。実は、その半年前と数か月前の2度、別の病院の乳がん検診で“異常なし”という結果を得ていた。そのためショックは大きかった。

「今でも“父が教えてくれた”と思っています」

 幸いにもがんは小豆程度の大きさということで、父の四十九日を終えてから乳房温存手術でがんを切除することに決めた。

 ところが、この治療法の選択が後悔を呼ぶことに。乳がんの手術から3年ほどたったころ、バンド活動中に息苦しく、思うように声が出せないことが増えたのだ。

 CT検査の結果、肺がんが見つかる。完治したと思っていた乳がんが転移し、胸水がたまって呼吸を困難にしていることがわかった。

「主治医からは抗がん剤治療をしなければ命の保証はできないと伝えられましたが、声が出しづらかった理由がわかり、妙に冷静にステージ4という現実を受け止めた自分がいました。でも、『乳房の全摘を選択していたら転移する可能性が低かったのでは』と思うと気持ちが沈んで。同時期に乳がんを患ったバンド仲間の奥さんは全摘手術をして寛解に向かっていたので、自分の選択を悔いました」

 このころ、夫とも離婚。乳がんの手術後の通院のため、実家に戻っていたが、そのまま夫と別居生活を続けることになり、妊活もあきらめ、3年ほどたって別れを決意した。

「悪いことが重なったように見えるかもしれませんが、自分のための選択でした」

副作用で手足の皮がむけ、爪も失う

 治療方法の選択が大きな分かれ道になることを経験した小島さん。転移後の治療でもまた岐路に立たされる。

「一緒にバンドを組んでいたドラマーが私と同じように乳がんから肺に転移し、先に治療を進めていました。彼女は、免疫療法の比較的新しい薬を使っていて、抗がん剤のような副作用もなく肺の転移がなくなったと言っていたのです。『私も同じ薬を使うのがいいのかな』と頭をよぎりました」

 しかし、主治医が示したのは、化学療法の抗がん剤の使用。彼女が別の薬で回復に向かっていることを耳にしていただけに、この選択に不安がないとはいえなかった。

「本当に大丈夫なのかなとも思いましたが、素人だから何がよいかわからない。でも、見落とされていたがんを見つけてくれた先生だから信頼しようと。転移の怖さも知りましたし、信じて徹底的にがんと闘おうと決めました」

 そこから約1年4か月にわたる抗がん剤治療がスタート。つらいとは聞いていたが、それは想像以上だった。

「手足症候群といって、手や足の皮膚と爪がすべてなくなる副作用が起こりました。手足が火傷したような状態になるので、指でボタンも留められないし、トイレで紙を使うのも痛い。もちろん、靴も靴下も痛みではけません。靴下のちょっとした柄が刺激になるんです。口内炎ができることも増え、歯磨き粉も痛みで使えなくなりました。激痛と闘う毎日をそばで見ていた母もすごくつらかったそうです」

 当時はがん保険を販売する会社に勤めており、上司の理解を得やすかったのが救いだったと振り返る。できるだけ在宅勤務ができるように支えてもらえたからこそ、なんとか痛みと闘う気力を保てた。

「激痛に服用を断念する人も多い薬でしたが、私は飲み始めて数か月でがんの進行度を判断する腫瘍マーカーの数値が下がって。飲み続ければ大丈夫、つらいけど頑張ろうと思えるようになりました」

 その後、順調に数値が下がり、その抗がん剤から卒業。一方、免疫療法の薬を選択したバンドメンバーは喉と脳への転移がわかり、帰らぬ人となった。

ステージで歌い闘病する人に勇気を

 抗がん剤の投与期間を終えたころ、コロナ禍が落ち着き始めたこともあり、バンド活動を再開した小島さん。久しぶりにステージに立ち“歌えることは当たり前じゃない”と実感した。ただ、病気を患う前に自身で作詞した楽曲『ひまわり』の「死ぬこと以外はかすり傷」という一節が心に引っかかった。

「正直に言うと、私自身、闘病を“かすり傷”といえるのかなって。すごく痛かったですし、不安もたくさんありましたし。それに、抗がん剤の副作用でなくなった足の爪は、いまだに生えてきていません。でも、一緒にがんの治療をしていた友人を失うという経験もしましたから、やっぱり生きているだけでありがたいなと。“かすり傷”だと歌えていることに感謝したいと思う自分もいるのです」

 現在、小島さんは8つのバンドに所属して活動し、ほぼ毎週末ステージでイキイキとしたパフォーマンスを見せている。歌う姿からは、がんサバイバーだとは信じられない。しかし、今も1日分で約2万円する再発防止薬を飲み続け、頭痛や吐き気、息苦しさといった薬の副作用と闘い続けている。アメリカに血液を送って検査をし、適応しなければ使えない薬だが、『ひまわり』を一緒に歌っていたバンドメンバーの男性は、この薬を使う希望がかなわず膵臓がんで亡くなってしまった。

「体調的につらい日もあります。でも、歌うことをやめたいとは思いません。バンドを応援してくれる人の中には、私と同じようにがんを患った“がん友”もいます。彼らとは“(生き続けるから)ずっと死ぬ死ぬ詐欺だよ!”と励まし合っています」

 そんななか、ふと思い出すのは、病院内の乳がん患者が集うサロンで出会った“がん友”の先輩たち。術後の傷口を見せてくれ、触らせてもらったことで、「大丈夫。生きていける」と勇気づけられた。

「今度は私の番。がんだけでなく、今病気と闘っている人に元気な姿を見せて勇気を届けたい。なにより、ライブで一緒に盛り上がって、ひとときでも病気を忘れる時間を持ってもらいたいと思っています。私もライブ中は、がんのことを忘れていますから!」

<取材・文/河端直子>

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  • 患者と医師がきちんと話し合ってで選んだ治療について「不治の病を拷問治療で治すのは異常」と発言するのは個人の自由の侵害でしかない
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