史上稀に見る名勝負になった世界フライ級頂上決戦。舞台裏で出会ったもうひとつの物語

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2025年03月19日 19:10  週プレNEWS

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WBA & WBCフライ級王座統一戦で激闘を繰り広げたユーリ阿久井政悟(左)と寺地拳四朗(右)


3月13日、両国国技館で開催されたボクシングのWBA & WBC世界フライ級王座統一戦はWBC世界王者の寺地拳四朗(BMB)がWBA世界王者のユーリ阿久井政悟(倉敷守安)を12回1分31秒TKOで下した。中継担当した元WBO世界スーパーフェザー級王者の伊藤雅雪氏は「This is boxing」と感嘆し、元WBC世界スーパーライト級王者で、長年試合解説に携わる帝拳プロモーション代表、浜田剛史氏も「今年の年間最高試合に選ばれるのではないか」と称賛した。そんな名勝負に向けて、昨年から取材を続けた著者が出会ったもうひとつの物語を紹介したい。

【写真】寺地拳四朗とユーリ阿久井政悟の激闘

*  *  *

午後10時半――。7500人の観客を熱狂させた宴の後、照明の消された両国国技館の正面玄関を出た所で偶然、阿久井の父、一彦と鉢合わせた。

倉敷守安ジム初のプロボクサーだった一彦は、政悟にとっては父親であると同時に、ボクシングに触れるきっかけになった存在。2001年3月20日、岡山武道館での一彦の引退試合、当時5歳だった政悟はリングに上がり、母と一緒に父の労を労った。阿久井はその後、運命に導かれるようにして父と同じ道、同じ師匠の元でボクサー人生を歩み始め、現在に至っている。

「政悟は今回、過去最高の状態で当日を迎えて、過去最高の戦いをした。拳四朗選手に対しては並々ならぬ思いがあったようです。試合前も、『拳四朗選手に引導を渡せるのは自分しかいない』と話していましたから......」

去年11月、守安ジムに取材に伺った際は会えなかった一彦とふたり、すぐ近くにあったやきとり屋で「遅い夕食をとりながら話でも」となった。

仕事の都合を付け、高速道路のサービスエリアで休憩をとりつつ岡山から車で駆けつけた一彦は、明日早朝に運転して戻る予定だった。アルコールはなし。ふたりで枯れた喉を炭酸水で潤した。


「あれだけの準備をして、あれだけの強い覚悟を持って挑んだ。それでも勝てなかった。これ以上、どうすれば拳四朗選手に勝てるのか。自分にはわかりません」

阿久井は折り返しの6回までは、「打たれても下がらずに打ち返す」という積極的な攻撃で、一進一退の攻防が続く中でも主導権を握り続けた。6回までのジャッジペーパーは59対55で阿久井支持が1人。58対56で阿久井支持が1人。57対57でイーブンが1人だった。

7回以降は戦略を修正してステップワークで距離に多様性を持たせ、パンチのタイミングをずらしてヒットさせる拳四朗に翻弄される場面が増えたが、「打たれても下がらずに打ち返す」という当初のプランは崩さず、拳四朗の顔面を跳ね上げて会場を沸かせた。

11回までの採点は105対104で2人が阿久井を支持。残る1人は106対103で拳四朗を支持。採点では2対1でリードを保ち、最終12回を迎えた。

「いったい、何が足らんかったんじゃろうか」

一彦はそう言って俯いた。


ボクシングファン、関係者の大方の予想は「拳四朗の勝利」。しかし一彦は、政悟の過去最高に仕上がった様子と試合にかける決死の覚悟を感じるにつれ、勝利に対して確信めいた気持ちさえ持てるようになった。

実際、その通りの展開になり、最終回まで辿り着いた。最後に一度でもダウンを奪うなど、ジャッジが明確に優勢と判断してくれるような戦いを見せれば必ず勝利出来る。最悪でも両者痛み分けのドロー防衛になるのではないか。リングサイドでそう思いながら見守っていたそうだ。

「政悟は、これまで何度も苦境に立たされながら乗り越えて来ました。倉敷守安ジムは地方の小さなジムなので、日本チャンピオンになるチャンスを掴むだけでも大変でした。日本チャンピオンになってからも、興行を打つだけでも大事なのに、コロナ禍も重なりました。初防衛戦が実現するまでに1年間、2度目の防衛戦が出来たのも、初防衛から9ヶ月後でした。

(アルテム・)ダラキアンとの世界戦も興行自体が一旦延期(メインの世界戦に出場予定だった井上拓真が怪我で出場不可になったため)になって、2ヶ月後に、どうにか実現しました。その時のメインイベンターは、拳四朗選手でした。(ダラキアン戦は)ウクライナ情勢で最後までどうなるかわからない状況でした。無敗の王者を相手に戦い切って、世界のベルトを手にしました。本当に、いろいろな意味で苦境を乗り越えながら、政悟はここまで辿り着きました。だから......」

「だから......」と話した所で、一彦は言葉を止めた。

テーブルの上には手をつけていない焼き鳥が何本も残っていた。一彦は2杯目の炭酸水で口の中を湿らし、深く息を吸い込んでゆっくり吐き出した。

「だから、今回も同じように苦境を乗り越えるはず」

一彦は、そう言おうとしたのではないか。そんな気がした。


■51秒間に浴びた51発のパンチ

最終12回――。大歓声の渦中で開始を告げる鐘の音が鳴った。

阿久井は変わらず前に出て、左リードジャブから右ストレートを打ち込んだ。開始24秒にはいきなりの右ストレートで拳四朗の動きを止め、ワンツーで押し込む。

息子の体はまだ動く、戦える、倒せるだけの力は残っている。

一彦にはそう思えた。しかし36秒、拳四朗の右アッパーから切り返した右ストレートが阿久井の顎を打ち抜いた。

「政悟は頑丈そうに思われていますが、本来は打たれ強いボクサーではないんです。むしろ顎は打たれ弱い部類かもしれない。だからこそ、基本に忠実なスタイルで、ガードをしっかり固めるスタイルにもなりました。ボディ攻撃は練習で鍛えて強くしたり、気持ちで耐える事は出来ます。でも顎は鍛えられない。こればかりは仕方ありません」

拳四朗の右ストレートで顎を打ち抜かれ、動きの止まった阿久井は、この日初めてのクリンチで逃れるまでの20秒間、ひたすらパンチを浴び続けた。

拳四朗が20秒間で放ったパンチは25発。阿久井はその間、一度も反撃出来なかった。

60秒、中村勝彦レフェリーが一旦分けて試合再開――。

拳四朗の連打がふたたび襲いかかって来た。それでも倒れない。見かねた中村レフェリーが、阿久井に抱きついた。戦える意志を示そうとする阿久井。しかし、これ以上戦わせる事は危険だった。

試合再開からストップされるまでの31秒間、阿久井が浴びたパンチは26発。その前の20秒間と合わせれば、51秒間で51発のパンチを浴びた事になる。気力を振り絞って腕を伸ばしても拳は届かず、足も動かない。もはや拳四朗を倒せるだけの力は残っていなかった。

勝利に対する執念――。

ただそれだけが、初回から全力で戦い続けた阿久井を、キャンバスに立たせていた。

試合後、舞台裏にあるドクターチェックの部屋の前にいると、胸の辺り一帯を阿久井の鮮血で染めたシャツを着た中村レフェリーが姿を見せた。激闘を捌いた直後、息を切らせて肩を揺らす中村レフェリーの汗だらけの顔には、まだ返り血がこびり付いたままだった。


午前零時――。店を出た所で別れることに。一彦はどこかカプセルホテルを探して仮眠を取り、朝一番で岡山に戻ると話した。

「拳四朗、すごかったわ」

別れ際、最後に一言、一彦はそう呟いた。

■「拳四朗選手は......。結果で返されましたけど、最強の存在ですね」

14日、午前11時――。都内ホテルで行われた試合翌日会見の場に現れた政悟は、サングラスをかけていてもまぶた付近を中心に相当腫れていることがわかった。昨晩は試合後の会見はキャンセルして病院に直行、カットした上唇を縫合処置し、ホテルに戻り就寝したのは午前4時過ぎだったそうだ。

「調子は良かったし、昨日だけ、拳四朗選手を上回ってやろう、という気持ちで初回から全力でいったんですけど、最後に良いのをくらっちゃいましたね。試合前から(自分自身の)調子が良いのは感じていたので『これだったらいける』と自信満々で挑めたし、実際、リングに立ったら拳四朗選手も小さく見えたので『これはいけるな』と感じていました」

試合終了直後はキャンバスでうつ伏せになったまま、しばらく動けなかった。人目も憚らず、我を失ったように大粒の涙を流し続けたが、この日の会見では時折笑顔を見せるなど、晴れ晴れとした表情だった。

もちろん、勝利をあと少しで逃した本当の悔しさは、簡単に忘れられるものでもない。ただ、多少なりとも時間を置いた事で、少なくとも公の場では心を落ち着かせて会見に臨めたのではないか。

「(セコンド陣から)『競り合っているぞ』と言われて、『ここ(12回)を取ったほうが勝ちだな』と思ったので、倒すつもりでいきました。前回(WBA2度目の防衛戦)の試合から(今回の)統一戦に向けてずっと走ってきて、『これで負けたらしようがないな』と気持ちを作ってきたんですけど及ばす、というのが悔しくて。

(拳四朗選手は)相手(の攻撃)を外すリズムがうまかったですね。それでも気持ちで負けないように『打たれたら打ち返す』という思いで挑みました。試合の勝ち負けよりも『自分の出来る事をやってやろう』という事が目標だったんですけど、そのあたりに関しては出来たかな、と。自分をしっかり出す事ができた。うん......。全力で出来たかなと」

ポイントでは11回までリードをしながら勝利は掴めなかった。勝負の分かれ目は何だったのか。そしてあらためて、拳四朗の存在についてどう捉えているのかを質問した。

「まずは経験と引き出し。作戦を変える事が出来ること。最後、やり切れる気持ちとスタミナ、根性がすごかったのかな、と思いました。自分も試合前、100パーセント気持ちをぶつけることができれば勝算はあるかなと思っていたんですけど、さすがに最後まで持たせるのは難しくて、そこで上回られてしまった、というのが勝負を分けたのかな、と思います。拳四朗選手は......。そうですね、結果で返されましたけど、最強の存在ですね」


倉敷守安ジムで初めて取材した時、阿久井は「拳四朗さんは自分のボクサー人生にとって、ラスボスのような存在」と答え、試合前の会見では「ようやく追い越せるチャンスが来た」とも話した。

2019年4月、当時WBC世界ライトフライ級王座を5度防衛中だった拳四朗に、当時日本フライ級4位だった阿久井は、初めてスパーリングで拳を交えた。完膚なきまでにやられ「どうにもならねえな」と絶望したものの、以来、拳四朗の存在は「自分が目指すべき強さの基準」に。そして長い年月を経て同じ舞台に立てるまで成長し、あと一歩まで追い詰めた。しかし、最後の最後で、ラスボスの強さを改めて思い知らされた。

ある記者から「もう1回、寺地選手とやる機会があればやりたいな、という気持ちは?」と質問をされた。

6月末には第3子、男の子が生まれる。阿久井は今回、妻の夢さんと相談した上で、世界チャンピオンになってからも続けていた職場を離れ、母校の環太平洋大学の施設で肉体改造等に時間を費やすなど、生活面も含めて試合のために全てを注いだ。しかし、拳四朗に敗れると同時に、10年かけてようやく手にした世界王座も失った。

「(世界)チャンピオンのまま、生まれてくるのを迎えたいです」と必勝を誓っていただけに、正直、いまはそんな質問に答えられる心境ではないかもしれない。それでも少し間を置くと

「まあ機会があれば......ですね。まあでも、楽しい試合になったので、もう一度やりたい気持ちもあります」

と答えた。

2対1とリードし、引き分けで両者防衛の可能性も残される中で試合ストップになった事については、「最後まで狙っていた事は狙っていたんですけど、打たれていたからまあしようがないかな、って感じですね。ストップに異論は別にないです」と潔く受け入れた。

「無事に自分の足でリングを下りてくれてよかった」

試合後、連絡を取った夢さんからそう言われた事が、奈落の底に突き落とされた気持ちでいた阿久井の心を、どんな励ましや慰めの言葉よりも力強く、支えてくれたに違いない。

■妻からの伝言と笑顔に囲まれて

会見を終えてロビーに出た所で阿久井は偶然、拳四朗と顔を合わせた。

笑顔で握手を交わし、互いの健闘を讃え合うふたり。あれだけ激しく打ち合ったはずなのに、拳四朗は阿久井とは対照的、顔はほぼ無傷で綺麗なまま。代わりに、右手中指の拳部分が真っ赤に腫れ上がっていた。

「あの、拳四朗さんに、妻から伝言があるんですけど...」

阿久井は少し遠慮がちに話し始めた。目を見開き、きょとんとした表情を見せた拳四朗に、阿久井は続けた。

「妻から拳四朗さんに、『唐揚げにみりんはダメですよ』って伝えてください、と言われました」

試合前日の計量後の囲み取材、拳四朗は勝負飯の唐揚げ用に準備した国産鶏モモ肉500gをタレに漬け込んでいると話し、「(タレは)しょうゆ、みりん、しょうが、ニンニクは多めで。やっぱ濃い味がうまいやろな」と話していた。 その動画をSNSで見た妻からの伝言を阿久井は伝えたのだ。

「えっ、そうなん!?」と拳四朗。

「みたいですよ」と阿久井。

「そうかあ......」と拳四朗は軽く腕を組んで首を傾けた。

三迫ジムの三迫貴志会長、参謀の加藤健太トレーナー、拳四朗の父でありBMBボクシングジムの寺地永会長、そして、阿久井にとって家族のような存在でもある倉敷守安ジムの守安竜也会長。

まわりにいたみながふたりを笑顔で見守っていた。

「尊敬する相手だからこそ思い切り殴れる。でも試合が終われば恨みっこなし。自分はそう考えています」

去年11月、倉敷守安ジムで初めてインタビューした時の、阿久井の言葉が頭に浮かんだ。

取材・文/会津泰成 撮影/北川直樹

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  • オレは阿久井好きだぞ。最終回は、いいタイミングで止めたと思う。正直、止めた瞬間は早いと思ったが、レフェリーは、選手を無事にリングから下ろすのが仕事だもんね。
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