やなせたかしさん&暢さん 穴あき共同トイレにも大喜び!国民的漫画家を後押しした“はちきん妻”の素顔

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2025年04月20日 11:10  web女性自身

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現在放送中のNHK連続テレビ小説『あんぱん』。ドラマは、漫画家やなせたかしさんとその妻・暢(のぶ)さんの生涯がモデルだ。



激しい雷雨に「もっと鳴れ!」と叫び、屋根に穴が開いた共同トイレにも「星空がきれい」と大興奮。天真爛漫な暢さんは、穏やかなやなせさんの背中を常に押し続けてきた。



やなせさんの元秘書、編集者時代の愛弟子、親交のあった漫画家。複数の証言で浮かび上がる2人の愛の軌跡とは――。



■いきなり銀行通帳と実印が入った金庫番号を手渡し――



東京都新宿区にある「やなせスタジオ」の応接室の壁面には、額装されたアンパンマンの絵や掛け時計、棚には数々のキャラクターグッズが並べられ、作者のやなせたかしさんの息づかいを感じる。



「グッズは増えていく一方です。それだけ愛されているキャラクターですから」



部屋の一角の、香炉の前に置かれたやなせさんの遺影を見やるのは、やなせスタジオ代表の越尾正子さん(77)だ。やなせさんと妻の暢さんをモデルに描かれる今田美桜主演のNHK連続テレビ小説『あんぱん』に、越尾さんも期待を寄せているという。



「先生はこれまでもいろんなメディアでとりあげられていますが、奥さんは“社長夫人がいたらみんなが遠慮するから”と、自宅マンションの階下にある仕事場にも、滅多に顔を出さないほどでした。



でも大正、昭和、平成を生きてきた柳瀬暢という一人の女性の人生はとても興味深いものだと、以前からずっと思っていたんです。まさか朝ドラになるとは……」



越尾さんがやなせさんの秘書を勤めることになるきっかけには、暢さん特有の決断力があった。



「私が40代半ばで仕事を辞めたとき、ちょうどやなせスタジオでスタッフを探していて、奥さんに『だったら、うちに来ない?』って誘われたのです」



すると、いきなり銀行通帳や実印が保管されている金庫の番号と鍵の置き場所などを伝えられた。



「もともと奥さんは私のお茶の先生で、たしかに長い知り合いではありました。しかし戸惑いを隠せず、『私が悪人だったら、どうするんですか?』と聞くと、奥さんは『自分に見る目がなかったとあきらめるしかないわね』って笑っていました」



暢さんのきっぱりとした人物像を象徴するエピソードだ。



「体は小柄で華奢ですが、内面は先生の故郷・高知県で、男まさりの女性を表す“はちきん”そのものです」



一方、やなせさんは常に穏やかで誰にでも優しかった。やなせさんが編集長を務めた『詩とメルヘン』(サンリオ)の元スタッフで、評伝『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)を上梓したばかりのノンフィクション作家・梯久美子さんが語る。



「私がサンリオを退社してフリーランスになったとき、独身女性という理由で賃貸物件の契約更新ができず、住むところを探していたんです。



すると、先生は住まいとスタジオのあるマンションに、書庫として借りていた10坪ほどのワンルームを空けてくださったんです。先生自らトイレ掃除までしてくださって……」



やなせさんの生涯には、高知から上京するとき、会社を辞めて漫画家として独立するときなど、多くの人生の転機があった。そのたびに彼の背中を押してくれたのは、暢さんの潔さだったという。



“やなせたかし”の誕生の陰には、彼を生涯にわたって牽引し続けたひとりの女性がいた――。





■「勝ち負けで逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」



やなせたかしさんこと柳瀬嵩さんは、’19年2月6日に生まれ、高知県の在所村で育った。



「幼少時代は、家族との別れが続きました。5歳のとき、朝日新聞の広東特派員として中国に単身赴任していた父が厦門で死亡。弟の千尋さんは医師だった父方の伯父夫婦に養子として引き取られたのです」(梯さん、以下同)



小学2年生のころには、母が再婚するため、やなせさんもまた伯父夫婦の元へ。



「母との別れ際、白いパラソルをさして去っていく後ろ姿を、いつまでも見つめていたそうです」



やなせさんは、経済的には不自由のない生活を送ることができたが、母のぬくもりを感じることができなかった。



「大きな欠落、孤独を抱えていました。その幼少期の寂しさを埋めてくれたのが物語や絵。布団の中にも本を持ち込むほどでした」



画力を生かすため、一浪の末、高知から上京して東京高等工芸学校工芸図案科へ進み、卒業後は製薬会社の宣伝部で活躍。しかし1年後の’41年に召集令状が届いた。



戦況が悪化した’44年、やなせさんは中国の前線へ送り出されることに。輸送船に乗せられて福州(現在の福建省福州市)へ行き、米軍を迎え撃つはずだった。かつて梯さんは、やなせさんとの対談企画で、初めて本人の口から戦争の話を聞いたという。



「先生の部隊がいた福州に、結局、米軍はやって来ませんでした。上海への移動命令が出て、先生たちは1千キロを行軍することになったといいます。



待ち伏せする中国兵と交戦して、戦友の死にも直面。また上海に到着後にはマラリアに感染し死線をさまよったことも……」



だが、何よりもやなせさんを苦しめたのは、強烈な飢えだった。



「食事は、飯粒がお湯に浮かんだうすいおかゆだけ。野草やたんぽぽ、茶を飲んだ後に出る茶がらなど、口に入るものは何でも食べて、飢えをしのいだそうです」



やなせさんたちの部隊が上海決戦に臨む前に日本は敗戦。ようやく’46年1月に帰国した彼を待ち受けていたのは、最愛の弟が戦死したという知らせだった。



「戦争で生き残った人たち同様、先生もまた、死者に報いるため、どのように生きていくべきか、自分に問い続けたはずです」



終戦によって価値観が一変したことに、戸惑いを隠せなかった。日本は正義のために戦ったわけではなく、中国人を虐げる存在だったと、教師も政治家もメディアも論調をがらりと変えたのだ。



「戦争の勝ち負けで逆転してしまう正義は、本当の正義ではないと思い知ったといいます。そんなとき、空襲で焼かれた町で廃品回収していると、ある光景を目にしました。



それは自分は食べずに子供に食べ物を与える親の姿、そして子供同士が一つの握り飯を分け合う姿でした」



その体験は数十年後、自らの顔を飢えた人に分け与えるアンパンマンというキャラクターを生む要因のひとつになる。





■上京後に暮らし始めた6畳一間のボロアパートに大興奮



’46年、やなせさんは27歳のときに高知新聞社に就職。焼け残った古い建物の、部屋の一角をベニヤ板で囲った小さなスペースが配属された『月刊高知』編集部だった。



「向かいの席に座っていた女性が暢さんでした。’18年生まれで先生より1歳上ですが、先生は早生まれなので学年は同じでした」



暢さんの性格は、その当時から豪胆で活発だったという。



「仕事中に激しい雷雨になったとき、稲光に向かって『もっと鳴れ!』とうれしそうに叫ぶ姿が、先生の印象に残ったといいます。



雑誌広告の掲載料の集金も部員の仕事でしたが、暢さんが行くと、女だからとばかにされてなかなかお金を払ってくれない。そんなときはハンドバッグを投げつけて『払いなさい!』とたんかを切って、相手に払わせたそうです」



暢さんが、やなせさんを含めた編集部の男性3人にまじって、東京へ取材旅行したときのことだ。



取材を終えて高知に帰るとき、一行は東京の闇市で入手したおでんを楽しんだ。



「ところが男性3人は、ちくわや卵などのおでんダネにあたって食中毒になったのです。暢さんだけ無事だったのは、当時は入手困難だったタネを男性陣に食べさせたいと思い、自分は大根しか食べなかったからだったといいます」



一人無事だった暢さんが、献身的に看病にあたることに。



やなせさんは、暢さんのふだんの気の強さとのギャップに、いっそうひかれるようになり、ある取材の帰り道に思わずキスしてしまったという。そこから2人の交際が始まった。



『月刊高知』の編集部で働き始めて1年後の’47年、やなせさんは漫画家になる夢を捨てきれず、新聞社をやめて上京するかどうか、逡巡していた。



「その様子を見た暢さんは『先に東京に行って待ってるわ』と、さっさと転職先を決めて上京してしまいます。半年後に先生が彼女を追いかけることになるのですが、先生の人生の大きな決断は、こんなふうに暢さんがしていることが多いんです」



暢さんの下宿先に転がり込み、やなせさんは東京で貧乏暮らしを始めた。そんな2人の心の支えは高さ30センチほどの大きなジャム缶。



戦後、暢さんが配給を受けたもので、それさえあれば1週間は食いつなげると考えたのだ。



「“ジャム缶大明神”と名付け、いざというときのお守り代わりにしていたといいます」



貧窮のなかでも、光を見つけ、幸運に感じられる暢さんの楽天性にやなせさんは幾度も助けられたという。



やなせさんは三越の宣伝部に就職して’49年に結婚。暢さんの下宿先を出ようとアパートを探したときのことだった。



「ようやく6畳一間のアパートが見つかったものの、共同トイレの屋根は穴が開いて空が丸見えだったのです。それでも暢さんは『雨の日は傘をさせばいいし、晴れた日は星空がきれい。こんな暮らしがしてみたかったの』と面白がっていたそうです」



やなせさんは三越の宣伝部で現在でも使用される包装紙のデザインに関わるなど活躍。新聞や雑誌に掲載する漫画の原稿料は三越の給料の3倍を超えるようになり、34歳のときに独立を決意した。



「42坪の借地に、夫婦でためた資金で小さな家を建てたのもこのころ。安定した収入を捨てることに不安はあったはずですが、『もし仕事がなければ、私が食べさせてあげるわ』と、ここでも暢さんが背中を押します。先生の才能を誰よりも信じていたのでしょう」



2人の関係は、当時の夫婦としては珍しかったのではないかと語るのは、やなせスタジオ代表の越尾さんだ。



「奥さんがお仕事で、先生が家でお留守番のときもありました。一般的な大正生まれの男性なら自分で買い物をして食事の用意をすることなんて考えもしないはずです。



でも晩年の奥さんが、うれしそうにこう話していたんです。『主人が近くのお肉屋さんへトンカツを買いに行って、ごはんを用意して待ってくれていたことがあったの。お肉屋さんの店主も“ほかの男と違い、見どころがある。一流の人になる”と感心していたのよ』と」



やなせさんは暢さんのことを“オブちゃん”と呼んでいた。



やなせさんは自分の漫画だけではなく、イラストや大物漫画家の原稿が間に合わなかったときの穴埋め原稿など幅広く仕事を受け、やがて“困ったときのやなせさん”とまで言われるように。



しかしその器用さが災いして、ヒット作や漫画家として代表するキャラクターに恵まれないことで悩んでいた。



そんな時期、フレーベル館から絵本を依頼されて描き上げたのが絵本『あんぱんまん』(’73年)だった。



「’67年から’70年にかけて、ナイジェリアで内戦が続き、飢餓に苦しむ子供の映像がニュースで報道されたことも、『あんぱんまん』誕生に無関係ではなかったと思います」(梯さん)



飢えに苦しむ人がいれば、身を犠牲にしてでも食糧を分け与えることが、本当の正義だという信念があった。



「でも、当時のアンパンマンはマントがボロボロで、手足も長くてあまりかわいらしくもなく、かっこいいヒーローでもありませんでした。ましてや顔を人に食べさせることから、残酷、グロテスクと大人から非難されたのです」(梯さん)



ところが子供たちの受け止め方はまったく違った。



【後編】「妻がいないと生きていけない」やなせたかしさん『アンパンマン』大ヒットの陰にあった愛妻の余命3カ月がん宣告へ続く



(取材・文:小野建史)


参考文献:梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)

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  • 「やなさたかし」に驚いた。アントキの猪木みたいなモノマネタレントかと思ったわ。
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