ラグビー日本代表が誇るワールドクラスのNo.8 伊藤剛臣のスピードは間違いなく世界に通用していた

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2025年05月14日 07:20  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第10回】伊藤剛臣
(法政二高→法政大→神戸製鋼→釜石シーウェイブス)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載・第10回に取り上げる選手は、No.8やFLのポジションで輝きを放ち、切れ味鋭いランが「カミソリ」「日本刀」と喩えられた伊藤剛臣(たけおみ)だ。日本代表キャップは62を誇り、ワールドカップにも2度出場。1990年代後半に復活した神戸製鋼を支えたレジェンドFWである。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

   ※   ※   ※   ※   ※

 トレードマークは丸刈り頭。

 ラグビー好きのオールドファンであれば、スクラムから直接ボールを持ち出すサインプレー「8単」を得意とした彼の容姿を、すぐに思い出すことができるだろう。

 身長185cm、体重95kgと、FWとしては決して大きい体躯ではない。しかしそれを言い訳にすることなく、身体能力の高さと不撓不屈の精神で日本代表まで駆け上がった選手だ。

「日本ラグビーのプライドを取り戻したい。その気持ちが強かった」

 オーストラリアで開催された2003年ワールドカップ。伊藤はそう意気込んで臨んだ。

 1995年ワールドカップでオールブラックスに17-145の歴史的大敗を屈した翌年から、伊藤は日本代表に選ばれるようになった。3年後のワールドカップでプライドを取り戻すために、伊藤はジャパンで研鑽を積んだ。しかし、1999年ワールドカップ前に元ニュージーランド代表No.8ジェイミー・ジョセフが日本代表に入ることになり、伊藤は控えに甘んじてしまう。

 1999年ワールドカップに挑んだ平尾ジャパンは1勝もできずに帰国。伊藤も先発出場できずに悔しい思いを味わった。

 そんな過去があったからこそ、前出の言葉を発したとおり、伊藤は燃えていた。

【胸に響いた平尾誠二の言葉】

 そして迎えた2003年ワールドカップ。FLの箕内拓郎と大久保直弥、そしてNo.8伊藤の3人によって形成されたバックローは、日本代表において欠かせないダイナモとなった。

 伊藤のプレーは、攻守にわたってチームを勢いづかせた。特にスコットランド戦で激しいタックルを繰り返した奮闘ぶりは、海外メディアが「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」と称賛するほど輝きを放っていた。

 ワールドクラスの屈強な男たちのなかでも、スピードを武器にアタックを試みる伊藤のボールキャリーは、間違いなく世界に通用していた。

「ラグビー日本代表のプライドを、少しは取り戻すことができたかな」

 屈強な男は優しい笑みを浮かべて、当時をそう振り返った。

 伊藤は東京都荒川区出身。小学校時代は野球、中学校時代はバスケットボールに興じていた。高校は法政二高に進学すると、硬式野球部の門を叩いた。しかし、本人いわく「落ちこぼれてしまい」、父親やラグビー部の顧問に「ラグビーをやれよ!」と勧められ、その助言を素直に受け入れて楕円球の世界に足を踏み入れることになる。

「ちょうどテレビで『スクール☆ウォーズ』を見たあとだったので、すぐに目標を『甲子園から花園へ』に変えました!」

 高校1年生ですでに180cmほど上背があり、監督が「お前はLOだ!」と即決したため、高校時代はLOとしてプレーした。高校日本代表にはFLで選出されるが、それをきっかけに「日本代表に選ばれてワールドカップに出たい......という夢を抱くようになった」と話す。

 進学した法政大ではNo.8のポジションで主軸となり、24年ぶりの日本一に大きく貢献。日本選手権で神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に敗れたことで、今度は「日本選手権で優勝して日本一になりたい」という新たな夢も抱くようになった。

 社会人としてプレーするにあたり、伊藤は10チーム以上から誘われていたという。ただ、神戸製鋼で当時キャプテンを務めていた平尾誠二に会った時、こう言われる。

「東京出身だから東京のチームにこだわっているかもしれないが、男だったら一度、外でメシを食ってみろ!」

 その言葉が胸に響き、伊藤は神戸製鋼のジャージーを選んだ。

【一度は引退を決断するも...】

 神戸製鋼で伊藤は、入団1年目から存在感を放った。いきなり日本選手権で優勝を成し遂げ、V7達成に貢献。掲げていた目標のひとつを早くも達成した。

 1995年1月には阪神大震災を経験し、グラウンドも大きな被害にあった。しかしそれらの逆境を跳ねのけ、1999年度、2000年度には全国社会人大会と日本選手権を連覇。トップリーグが開幕した2003年度もFWの中心選手として優勝し、No.8で「ベスト15」に選出された。

 ただ、高い身体能力を誇っていた伊藤も、歳を重ねるごとに少しずつパフォーマンスが低下。2012年に戦力外通告を受けたことで、18年間在籍したチームを離れて引退を決断する。

 ところが、伊藤と楕円球の物語は、この先まだ続くことになる。

「釜石は『鐵(てつ)』と『魚』と『ラグビー』の街です。ラグビーで釜石を一緒に盛り上げませんか?」

 2003年ワールドカップのチームメイトで、サントリー(現・東京サントリーサンゴリアス)や三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)を経て釜石シーウェイブスでプレーしていたFB吉田尚史に誘われた。

「初めてラグビーを知ったのが(V7時代の)新日鐵釜石だった。それで共感しちゃった」

 伊藤はその誘いを受けて、釜石でラグビー続行を決断する。「体がどれだけ持つかわからないけど、一つひとつのプレーにこだわりたい」と言いつつ、釜石で合計6シーズン、46歳まで現役を続けた。

 2018年、プレーで引っ張って若手の手本となり続けた伊藤は、惜しまれつつもラグビーキャリアに幕を下ろす。

 かつて伊藤に「No.8やFLはどういうポジションですか?」と尋ねたことがある。

「どのポジションも、みんなそれぞれ楽しさがある。だけどNo.8やFLは、アタックでもディフェンスでもチームに勢いを与えることができる。そして最後は、気合いが大事かな(笑)」

 豪快に笑って答えてくれた。

 まさに伊藤の「8単」は、いつもチームに勢いを与えてくれた。

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