屋鋪要は関根潤三との出会いでプロ野球人生が一変「あのままだったら守備固めや代走要員のまま現役を終えていた」

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2025年06月13日 10:20  webスポルティーバ

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微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:屋鋪要(前編)

 1980年代、近藤貞雄監督時代の大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)において、高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」の一角を占めた屋鋪要。俊足、強打を武器に一時代を築いた屋鋪だが、「僕がプロ野球の世界で生きていくきっかけをもらったのは関根潤三監督」と振り返る。

【関根潤三のアドバイスで打撃開眼】

「関根さんが自由にやらせてくれなかったら、僕は守備固めや代走要員のまま現役を終えていたと思います。関根さんが、僕を世に出してくれた。関根さんが僕をレギュラーにしてくれたことで、のちの人生、そして今の生活につながっています。野球界において、それなりの地位をつくらせてくれた方、それが関根さんです」

 ホエールズ、ベイスターズ、そしてジャイアンツで18年間の現役生活を送った。引退後はジャイアンツのコーチも務め、現在でも少年野球の指導に汗を流している。その礎となったのは関根潤三監督時代にある。屋鋪はそう考えている。

 関根が大洋ホエールズの監督を務めたのは1982年から84年の3シーズンだった。関根監督が誕生した82年、屋鋪はプロ5年目、23歳を迎える頃だった。この年、屋鋪は95試合に出場している。それ以前の80年、81年は105試合に出場し、一軍での出番を与えられてはいたものの、本人の言葉にあるように「守備固めや代走要員」での出場が多く、「レギュラー」と呼べる状況にはなかった。

「でも、関根さんは就任早々、僕にレベルスイングを指導してくれました。それまではとにかく、『足を生かすために上から叩きつけろ』という指導ばかりだったのに、『無理に叩きつける必要はない、レベルスイングでいいんだ』と言ってくれたおかげで、バッティングも向上してレギュラーになることができた。それはやっぱり、関根さんが監督だったから可能になったんだと思います」

 球界屈指の俊足を生かすためには「とにかく叩きつけてゴロを打て」というのは、ある意味では至極当然の考え方である。前任の別当薫監督は、屋鋪の足を生かすためにスイッチヒッター転向を指示し、叩きつける "ダウンスイング"を命じた。

「でも、僕はバッティングの基本はレベルスイングにあると思っていましたから、"上から叩きつける"ということに懐疑的でした。そんな思いがあるから、どうしても心から納得して練習ができない。当然、それではなかなか結果が出ない。そんな悪循環に陥っていたところを関根さんの言葉で救われたんです」

【飛躍のきっかけは地獄の伊東キャンプ】

 屋鋪の口からは、関根に対する感謝の思いが次から次へとあふれ出てくる。あらためて両者の出会いとなった82年、年明けの出来事から振り返りたい。

「あの頃、つきっきりで指導してくれたのがコーチになったばかりの松原誠さんでした。年が明けたばかりの1月3日に集合がかけられました。松原さんか関根さんの知人の家だったのかはわからないけど、誰かのお宅の庭にネットを張って、高木豊さんたちとひたすらバッティング練習をしました。夜も、食事後にボールを打つ。それが1月15日ぐらいまで続いて、そこから静岡草薙キャンプに臨みました」

 つきっきりで指導してくれたのは、現役を引退し、指導者の道を歩み始めたばかりの松原だった。決して関根ではない。横浜・保土ヶ谷の室内練習場はもちろん、松原の知人宅を利用して、徹底的にバットを振り込んだ。そして、「その指示をしたのは関根さんだった」と屋鋪は語る。

「実際の指導は松原さんだったけど、その指示を出していたのは関根さんだったと思います。関根監督時代、春は草薙、秋は伊東でキャンプをしました。特に印象深いのは伊東キャンプです。ランニングやうさぎ跳び、サーキットトレーニングなどの基礎練習から始まり、徹底的に特打、特守です。ひたすらバットを振って、ひたすらノックの嵐を浴びる。その繰り返しでした。それは関根さんの指導方針でした」

 関根にゆかりのある選手たちに話を聞いていると、必ず「地獄の伊東キャンプ」のエピソードが披露される。79年、ジャイアンツ監督時代の長嶋茂雄が江川卓、西本聖、中畑清、篠塚利夫(現・和典)ら期待の若手を徹底的に鍛え上げた、あの伝説の特訓が有名だ。関根もまた、ジャイアンツヘッドコーチ時代に伊東キャンプを経験していた。

「今から考えると非科学的なトレーニングも多かった。うさぎ跳びなどは1、2、3と跳んでいくんだけど、最後に深くしゃがんでジャンプをする。それをレフトからライトまで何往復も繰り返す。あの練習のせいで、山下(大輔)さんの膝がおかしくなりました。僕はまだ若かったから耐えられたのかもしれないけど......」

 現在の視点から見れば、それは確かに「非科学的」と言えるだろう。82年秋、山下はすでに30歳で、ベテランの域にさしかかろうとしていた。それでも関根は「おまえが参加することに意味があるんだ」と告げたという。のちに山下は伊東キャンプを振り返って、「30歳でよく耐えられたと思います」と笑っている。そして、屋鋪もまた「あの練習にはそれなりの意味があった」と振り返る。

「今、根性論を否定する人はたくさんいます。でも、ある程度の根性がなければプロの世界で活躍することはできないですよ。あれだけキツい伊東キャンプは耐えられないですよ。あそこは宿舎からグラウンドまで長い階段を降りるんですけど、もうヘトヘトで満足に上り下りできない。泥だらけ、汗だらけだから、湯船も相当汚かったでしょうね(笑)」

【レギュラーとしての地位を確立】

 関根監督初年度となる82年シーズンは、屋鋪にとって波乱万丈の1年となった。開幕直後から打棒は冴えわたり、一時は4割近いハイアベレージを記録したものの、7月のスワローズ戦でダイビングキャッチを試みた際に左肩を強打。後半戦でのジャイアンツ戦でも同じ箇所を痛め、左肩脱臼の重傷を負ってしまったのだ。そしてこの年のオフ、屋鋪は「地獄の伊東キャンプ」を経て、さらなる成長を遂げるのである。

「82年は、かなり出番は増えましたけど、まだまだ『オレはレギュラーだ』という思いはありませんでした。でも、この年の秋に伊東キャンプを経験して手応えをつかんだ。ようやくレギュラーとしての自覚が出てきたのが、関根さんの2年目、83年シーズンのことでしたね」

 この年、屋鋪は初めて規定打席に到達、打率・287を記録する。前述した「レベルスイングを意識した」ことが奏功したのである。この年、屋鋪は「期待の若手選手」から、ついに「レギュラー選手」の座をつかんだのである。

「たとえ4タコを喫しても、『明日2本打てばいい』と思えるようになったのが、関根監督2年目のことでした。たとえミスをしても、スタメンから外される心配がないから、前向きに次の試合に臨むことができる。そう考えられるようになったことで、落ち着いてプレーできるようになりました」

 常々、「私は《勝たせる監督》ではなく、《育てる監督》だ」と口にしていた関根は、その言葉どおりにどんなに結果が出なくても、辛抱強く使い続けた。そして、その期待に屋鋪は見事に応えたのだ。

 関根監督時代のホエールズは82年・5位、83年・3位、84年・6位に終わっている。83年のAクラス入りは、前年秋の伊東キャンプの成果だったと言えるだろう。この間、関根は屋鋪だけでなく、ベテランの基満男に代わって高木豊も抜擢している。その結果、この連載の「基満男編」で言及したように、基との間に軋轢が生じることになったものの、それでも関根は、高木に、そして屋鋪にチャンスを与え続けたのである──。

つづく

関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82〜84年に大洋(現DeNA)、87〜89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。03年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。

屋鋪要(やしき・かなめ)/1959年6月11日、大阪府生まれ。三田学園高(兵庫)から77年のドラフトで大洋(現・DeNA)から6位指名を受けて入団。高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」として活躍。84年から5年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、86年から88年まで3年連続盗塁王に輝く。94年から2年間巨人でプレーし、95年に現役引退。引退後は巨人のコーチ、解説者、野球教室など精力的に活動し、2020年から社会人軟式野球の監督を務めている。鉄道写真家としても活躍している

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