沖縄、苦難の戦後80年=地上戦、米軍統治、基地強化―遠のく「平和の島」

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2025年06月19日 07:31  時事通信社

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時事通信社

沖縄南部海岸で米軍戦車による洞穴への火炎放射=1945年、沖縄県
 太平洋戦争末期の沖縄戦が事実上終結して23日で80年。悲惨な地上戦、米軍統治、本土復帰と激動の歴史をくぐり抜けた沖縄には、いまだ在日米軍基地の7割が集中し、日米安全保障体制の負担が重くのしかかる。覇権主義的な動きを強める中国をにらんだ自衛隊の体制強化も進み、「基地のない平和な島」の理想は遠のいている。

 ◇ありったけの地獄

 太平洋戦争中、サイパン、フィリピンと飛び石作戦で迫る米軍に対し、日本軍が選んだのは本土防衛の時間稼ぎのための沖縄での持久戦だった。

 米軍は1945年3月に慶良間諸島、4月に沖縄本島に上陸。「鉄の暴風」と称された攻撃は苛烈を極め、那覇市の首里城に司令部を置いていた守備隊は5月、本島南部に撤退。6月23日の牛島満司令官の自決で日本軍の組織的戦闘は終結した。

 死者は日米合わせて約20万人に上り、「ありったけの地獄を集めた」と言われた。少年少女も「ひめゆり学徒隊」などとして戦場に動員され、県民の4人に1人が犠牲になった。日本兵は地下壕から住民を追い出し、スパイ容疑で処刑したとされる。集団自決、餓死、伝染病など数多くの悲劇を生み、県民には軍隊への強い不信感が残った。

 ◇銃剣とブルドーザー

 終戦とともに「アメリカ世(ゆー)」と呼ばれた米軍統治が始まった。52年4月発効のサンフランシスコ講和条約で日本本土は主権を回復したが、沖縄は日本から切り離された。

 米軍は沖縄を「太平洋の要石」と位置付け、日本本土からの基地移転を進めた。「銃剣とブルドーザー」による強引な手法で土地が接収され、「島ぐるみ闘争」で住民と米軍の溝は深まった。

 米軍絡みの事件・事故も絶えなかった。55年9月には6歳の少女が暴行、殺害され、59年6月にはうるま市(旧石川市)の宮森小学校にジェット戦闘機が墜落して児童12人を含む計18人が死亡。「平和憲法の下へ」と本土復帰を求める声が強まった。

 ◇核抜き本土並み

 65年8月、佐藤栄作首相が現職首相で初めて沖縄を訪問。69年11月の日米首脳会談で、沖縄返還が決まった。沖縄は72年5月、本土に復帰した。

 日米両政府は「核抜き・本土並み」と沖縄の基地負担軽減をうたったが、有事の核兵器持ち込みを認める密約が後に判明した。本土の米軍基地は整理・縮小が進み、全国の在日米軍専用施設・区域に沖縄の基地が占める比率は、復帰時の58.8%から70.3%に上昇している。

 95年9月の米兵少女暴行事件で県民の反基地感情が高まる中、日米両政府は米軍普天間飛行場(宜野湾市)の全面返還で合意。しかし、名護市辺野古への移設が条件とされ、県内移設に反対する県との対立が続く。

 台湾周辺や南西地域での中国軍の活動常態化を踏まえ、政府は沖縄の自衛隊を増強する「南西シフト」を加速。うるま市の訓練場新設が県側の反対で頓挫するなど、新たな波紋を広げている。沖縄と本土の距離は、依然埋まっていない。

 早稲田大学の小松寛准教授(国際関係論)は「復帰運動が求めたのは平和と民主主義だった。しかし、基地の整理・縮小は本土ほど進まず、民意にかかわらず辺野古移設が強行されている。復帰時に望んだ状態はほとんど実現していない」と指摘。「沖縄への基地集中が本土と沖縄の間の溝を作っていることをいま一度考え直す必要がある。基地負担を全国で分担するか、抑止力に依拠しない形での安全保障を模索するしかない」と語った。 
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