ジョン・ディクスン・カー、またの名をカーター・ディクスン。アメリカに生まれ、祖国とイギリスの両国で執筆活動を繰り広げた彼は、密室殺人や人間消失などの謎を好んで扱い、「不可能犯罪の巨匠」と呼ばれている。横溝正史にも影響を与えたオカルト趣味、ユーモア(というかベタなドタバタギャグ)、ラブコメなど、作風を特徴づける個性的要素は多い。
カーター・ディクスン名義の作品には、ヘンリ・メリヴェール卿(通称H・M)という名探偵が登場する。体重100キロの巨漢で、由緒正しき家系に連なる准男爵でありながらまことに下品、口を開けば辛辣な毒舌が飛び出すが、実は心優しく独自の正義感を持つ愛すべき人物だ。そんな彼が活躍する作品のうち、代表作にして異色作なのが『ユダの窓』である。原書刊行は1938年で、数種の邦訳があり、現在は高沢治訳の創元推理文庫版が手に入る。
代表作はいいとして異色作とはどういうことかといえば、『ユダの窓』は作中の大部分を法廷シーンが占めるという、カーの作品としては極めて珍しい構成なのだ。
ジェームズ・アンズウェルは、婚約者メアリの父親エイヴォリー・ヒュームの家に呼び出され、酒を振る舞われてそのまま意識を失い、気がつくとエイヴォリーは胸に矢が刺さった状態で死んでいた。現場は密室状態で、出入り可能だった者はいない。このアンズウェルを被告とする裁判で、弁護人として法廷に立ったのがH・Mである。
H・Mは法廷弁護士の資格を持っているが、「この十五年、一度も依頼を受けていない」「最後に法廷に現れた時には、ひと騒動あったらしい」などと紹介されるし、法廷での初登場シーンでは自分の法服を踏んで破いてしまう。語り手のケン・ブレーク(H・Mの友人)ならずとも、本当に大丈夫かと不安になるだろう。ところが、H・Mには勝算があるらしい。彼は言う、「わしに言わせると、犯人はユダの窓から出入りしたんじゃ」と。
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果たしてユダの窓とは何か、他に犯行可能な者がいない状態でアンズウェルをいかにして救えるのか、そして真犯人は誰か。普段のオカルト趣味を排し、法廷における丁々発止のやりとりと、ここぞというタイミングで飛び出す意外な証言・証人でサスペンスを演出し、一見単純な事件を多角的に検証して真相をロジカルに浮かび上がらせるあたり、ミステリ作家としてのカーの非凡な腕前を味わえる傑作である。
さて、『ユダの窓』に影響を受けたと思しき国産ミステリは幾つか存在する。柄刀一の『fの魔弾』(光文社文庫)は密室の中で容疑者が死体とともに発見されるという状況がそっくりだし、中山七里の『贖罪の奏鳴曲』(講談社文庫)は法廷に大きな証拠物件を持ち込む着想が共通する。芦辺拓の『明治殺人法廷』(東京創元社)も、不可能犯罪の嫌疑をかけられた人物を法廷戦術で救う点が『ユダの窓』を想起させる。榊林銘の『毒入り火刑法廷』(光文社)も、カーの影響を受けた特殊設定法廷ミステリとして挙げておくべきだ。しかし、ここにもう1冊、岡本好貴の『電報予告殺人事件』(東京創元社)を追加してみたい。
岡本は2023年、英仏両海軍が衝突する18世紀末の戦場を舞台にした『帆船軍艦の殺人』(東京創元社)で第33回鮎川哲也賞を受賞してデビューしており、『電報予告殺人事件』は第2長篇である。
舞台はヴィクトリア朝のイギリス。当時、電信事業なしに大英帝国の情報網は成立しなかった。主人公のローラ・テンパートンは、チャーゲート電信局で働く電信士。女性が活躍できるこの職場を誇りに思っており、娘が働くことを喜ばない父とは対立しているが、家庭を持つ夢も捨てていない。局長のアクトンから栄転の誘いを持ちかけられたが、その返事に迷っているうちに事件に巻き込まれてしまう。
ある夜、電信局に30歳くらいの男がやってきた。アクトンの甥、ネイト・ホーキンスである。ローラは彼を局長室に案内したが、扉に鍵がかかっている。局に残っていた職員が集まり、男たちが体当たりして扉を破ったところ、アクトンは室内で死んでいた。死因は毒殺。やってきたハモンド警部は、ネイトを犯人だと決めつける。警部の理不尽なやり方に義憤を覚えたローラは、真犯人を見つけ出そうと決意する。だがそれは、同じ職場の仲間たちを疑うことでもあった。
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法廷ミステリではないものの、完全な密室での殺人、絶体絶命の立場に陥る容疑者……といった要素は『ユダの窓』によく似ている。ローラとネイトのあいだにいつしか恋が芽生えてゆくあたりも、『連続自殺事件』(創元推理文庫)などカーの幾つかの作品におけるロマンスの要素を連想させる。ローラとネイトの関係に『ユダの窓』のメアリとアンズウェルのイメージを重ねることも可能だろうし、ハモンドの部下のワイルド刑事がローラに惚れてしまい、捜査情報をペラペラ漏らすあたりは、事件関係者に惚れた警察官の視点で進行するカーの『緑のカプセルの謎』(創元推理文庫)を反転させたような趣だ。
正義感に駆られたローラの行動はなかなか無鉄砲で、読者としてはハラハラさせられる。しかし、彼女の視点に同化して読み進めることで、読者は知らず知らずミスリードされてしまうことになるのだ。現代人なら共感を覚えるであろう彼女の立場、ACジャパンのCMで嶋田久作が演じる「決めつけ刑事(デカ)」みたいなハモンド警部の横暴さとワイルド刑事のお人好しぶり、それらすべてが読者の目を真相から逸らす役割を担っており、終盤では著者の狙いにまんまと嵌められたことに気づくだろう。
カー作品のような謎や設定を提示しつつ、そのこと自体がミスリードを成立させているような作品であり、考え抜かれた犯罪の構図は本格ミステリの醍醐味を満喫させる。歴史ミステリをも得意としたカー同様、岡本好貴も海外を舞台にした歴史本格の書き手という独自の地位を築いたようだ。
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