森友哉は天性の打撃を発揮し、4度の甲子園で打率.473、5本塁打 自身が印象に残る一打として挙げたのは?

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2024年08月22日 06:21  webスポルティーバ

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プロ野球選手の甲子園奮戦記(17)〜森友哉(オリックス)

 仕事として高校野球を見てきて25年。これまで目にしてきた高校生のなかで、「最もすばらしい打者は?」と聞かれたら、迷わず大阪桐蔭の森友哉を挙げる。

 高校野球ファンとして見ていたその前の25年あまりを加えても、PL学園の清原和博(元西武ほか)、星稜の松井秀喜(元巨人ほか)など、名だたる強打者はいたが、ボールを捉える精度に長打力を含めた総合力は、PL学園の福留孝介(元中日ほか)と双璧。そのランクの高校球児だったと確信している。

【甲子園通算55打数26安打、5本塁打】

 高校3年夏の時点で、公表されていたサイズは身長170センチ、体重80キロ。上背はなかったが、身のつまった体を無駄なく使い、ヘッドの効いたフルスイング。とにかく、いつ見ても打っている印象しかない。

 1年秋から捕手として、1学年上の藤浪晋太郎(メッツ)、澤田圭佑(ロッテ)らとバッテリーを組み、打っては1番打者として2012年の春夏連覇に貢献した。主将となった3年時も春夏連続して甲子園出場。4季連続の甲子園となったが、どの大会でも打っていた。

 各大会での打撃成績を見るだけでも、桁違いのすごさが伝わってくる。

2年春/センバツ大会/18打数8安打(打率.444)、2打点、1本塁打、3四死球
2年夏/選手権大会/20打数8安打(打率.400)、2打点、2本塁打、5四球
3年春/センバツ大会/5打数4安打(打率.800)、3打点、0本塁打、0四死球
3年夏/選手権大会/12打数6安打(打率.500)、4打点、2本塁打、2四死球

 甲子園通算15試合で55打数26安打(打率.473)、11打点、5本塁打、10四死球。印象的な一打も多くあったが、3年夏を終えたあと、森自身が「甲子園のこの1本」として挙げたのが、2年春のセンバツ準決勝の健大高崎(群馬)戦での一発だった

 スコアは1対1、同点に追いつかれた直後の8回裏。先頭で打席に入った森は、好左腕・三木敬太の初球、外角ストレートを左中間スタンドへ突き刺した決勝アーチだ。理由を尋ねると、「いいところで打てたのはもちろんですけど、あの打席は違う意味でよく覚えているんです」と明かした。

「あの時はピッチャーが投げてくる前に球筋がパッと頭に浮かんで、そのイメージどおりにバットを出したら左中間へあの打球が飛んでいったんです。調子がいい時に近いことはあっても、あそこまではっきり頭にライン(ボールの軌道)が浮かんできて打てたのは、あの打席だけです」

 この話題から、普段なら「何も考えずに強い打球を打つことだけを考えています」といった感じで流されることの多かった打撃論について、珍しく話が広がった。

「極意っていうほどじゃないですけど、打席のなかで一番大事にしているのは"無"になることです。頭にいろいろと浮かんできたらいいことがない。やっぱり集中できないですから。だから、僕は配球もほとんど考えず、来た球に反応する感じで打っています。そのためにも"無"になって、ボールを待つことを大事にしています」

 さらに、森はこう続けた。

「右足を上げたところで、打てるかどうか大体わかります。足を上げて、下ろしていくなかでタイミングの微調整はしますが、右足を上げた時にピッチャーのタイミングとピタッと合っていれば、まず打てる感じがあります。やっぱりタイミングですね」

【最後の夏に見せた異変】

 何度も森の打席を見るなかで、いつも感心させられたのが、結果はもちろんだが、その内容だった。当時、50試合以上は見たが、完全にタイミングを外されたり、形が崩れたスイングは数えるほどしかない。結果は凡打であっても、常に自分のスイングができていた。どんな投手と対戦してもタイミングを合わせ、フルスイングする。これこそ森の非凡さである。

 2年夏の甲子園で済々黌(熊本)・大竹耕太郎(阪神)の内角低めのストレートを、浜風をものともせずライトスタンドへ突き刺した一発も見事な打球だった。

 つづく準々決勝の天理(奈良)戦では先頭打者本塁打。右腕・山本竜也の外角高め、見逃せばボールゾーンの143キロのストレートを、左手を被せながらセンター右へ運んだ。この森の技術と対応力が詰まった一打も印象深い。

 ほかにも、2年春のセンバツ初戦の花巻東(岩手)戦で、大谷翔平(ドジャース)の外角高めのストレートに力負けせず、レフトへ返した一打や、3年の甲子園の日本文理(新潟)戦での1試合2本塁打も、鮮明に覚えている。

 また映像でしか見られなかったが、2年秋の国体で桐光学園の松井裕樹(パドレス)のスライダー、ストレートをきっちり捉えて放った2安打も、超高校級のバッティングだった。

 入学当初は左投手をやや苦手としていたが、1年のある時、西谷浩一監督から「上のレベルになっていけば、左打者にはワンポイントで左投手や左の変則投手がくる。そこをクリアしていかないと本物にはなれないぞ」と言われた。すると翌日から、打撃練習で左投手ばかりを打ち始め、早々に課題をクリアした。

 ところが、どんな相手に対しても、常に自分の形で打てていた森に、"異変"が見えたのが3年の夏。3年春のセンバツ大会中に右足のふくらはぎを痛め、それまでにない打撃不振に陥った。

 ただこの時点では、コンディションが戻れば問題ないはずと見ており、実際、夏が近づくにつれ調子を上げてきた。だが、今度は夏の大阪大会直前に右手首を痛め、さらに右ヒジにも違和感が出て、まさに満身創痍で迎えた最後の夏だった。

 そのなかで、大阪大会は7試合で25打数10安打(打率.400)、9打点、1本塁打。結果は残したが、森にとって大阪大会での4割は物足りない数字で、なにより7試合のなかで完全に崩されたスイングを3度も目撃した。いつもの森ではないことは明らかだった。

 甲子園でも苦労するのでは? と見ていた甲子園初戦で、先述した日本文理戦での2発。あらためてモノの違い、最後の夏にかける思いの強さを見せつけたが、2回戦の日川(山梨)戦では公式戦初となる1試合2三振。やはり、いつもの森ではなかった。

 そして迎えた明徳義塾(高知)戦。森は2本のヒットを放ったが、先制した初回、自らの判断で試みた三盗に失敗。攻撃の流れを止めてしまうと、2回の守りでは捕手である自身からの三塁牽制が悪送球となり同点。さらに追加点を奪われ3回終了時点で1対5。その後も流れを呼び戻せず、3回戦で姿を消した。

 その試合後の囲み取材で、生粋の野球小僧がかすかな笑みともに口にしたひと言が、今も耳に残っている。

「しばらく野球はいいかなって感じです」

 春夏連覇のあとのチームを、主将として、主軸として、女房役として牽引。前チームと比較されることもあっただろう。そうした重圧から解放され、出てきた言葉だった。悔しさと充実感をにじませ、森の高校野球生活は終わった。

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森友哉(もり・ともや)/1995年8月8日、大阪府出身。大阪桐蔭では1年秋から正捕手を務め、2年時はエース・藤浪晋太郎らとともに甲子園春夏連覇を達成。3年時も主将として春夏続けて甲子園に出場。13年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。1年目の7月に一軍昇格を果たすと、3試合連続本塁打を放つなど、41試合に出場し打率.275、6本塁打と結果を残した。19年は126試合でマスクを被り、首位打者、MVPを獲得。22年シーズン終了後にFA宣言をして、オリックスに移籍。23年は勝負強さを発揮し、リーグ3連覇に貢献した

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