「踊れても、あと5年」身長128cmのダンサーDAIKIが大河ドラマ出演に至った道

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2024年09月08日 11:10  web女性自身

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【前編】大河・須麻流役DAIKI「うちの子に何か?」心ない言葉と戦った母・ひろ江さんと身長128cmの息子の挑戦から続く



死期を悟った安倍晴明に寄り添い、ともに美しく神秘的な最期を迎えた須麻流。大河ドラマの大役を演じ切ったDAIKIは128cmの身長を「ブランド」と語る。低身長で四肢が短いという特徴がある軟骨無形成症という病気。その病とともに30年。ときには好奇の目を向けられ、ときには心ない言葉を投げられ、ときには努力ではどうすることもできない壁にぶち当たり……。それでも前に踏み出すDAIKIの人生とは?



DAIKIが軟骨無形成症であることを知ったのは、小学4年生のとき。学校に導入されたばかりのパソコンに「足が短い」など特徴を打ち込んで検索し、自らの病気を知った。



「家に帰ってオカンに『なんで今まで言わなかったの、オレの病気、これでしょ』と聞いたら『そうだよ』と。なんで教えてくれなかったんだと怒ったら、『自分で気づかないと受け入れられないし、病気を理由にできることを事前に決めちゃうと可能性を狭めてしまうから……』と言われましたけど、まあ、納得できなかったですね。なんでこの体で生まれてきたんだろうと思って、教室に行っても机を蹴っ飛ばしたり、先生に物を投げたりとかしていました」



このころのDAIKIは荒れていた。



「僕が通った中学校にはヤンチャ坊主が多かったんですが、その不良仲間の一人が『お前、堂々としておもしれえじゃん』と言ったんです。それぞれ家庭に事情があるヤツらと一緒にいると、自分が病気だということも忘れられる。何か言われたり、嫌なことがあってもケンカしちゃえばいいから楽でした」



だが、そんなDAIKIとも向き合ってくれる先生がいた。



「中学1〜2年の担任が授業をサボり続けている僕をずっと追いかけてくる先生で、なんで僕のような生徒に対して真っすぐ向き合えるのかと聞いたときに『見捨てられない』とひとこと言われて。教師になりたいというよりも、この人になりたいと思うようになったんです。それが中学3年に上がるとき。そこから小学生レベルの勉強から始めました」



進学した高校でも勉強を続け、和光大学に進学。いよいよ教員免許取得に挑み、日本で初めて保健体育科の教員免許を取得した軟骨無形成症の人となった。大学卒業後には、東北地方のある公立中学校で教員の道を進むはずだった。ところが卒業式の10日前に連絡があり、突然白紙に。



「先方の都合です。頭が真っ白になりました。ほかの学校で教師になるためには実技もある採用試験を受けるしかありません。筆記はできても、僕の身体上できない実技がある。ある学校では、障害のために実技試験ができなくても、病気などで見学していた人と同様に0点になると言われました。そもそも試験さえ受けさせてくれない学校もありました」



教員免許を取得しても、教師になるのには大きな壁があった。それでも諦めずに、家賃2万円の部屋で奨学金を返済しながら、ときに白飯と魚肉ソーセージだけの食事で過ごしたこともあった。



「バイトもことごとく断られますからね。書類で落とされたり、面接で、この体を見て『帰ってくれ』と言われたことも。社会人1年目はそんな状況で、『仕事にできるのはダンスしかない』という事実を受け止めました」



悔しい思いはしたが、中学時代に芽生えたもう一つの夢、ダンスに目標を切り替えた。





■授業をサボって、ワル仲間と学校の廊下をステージに夢中で踊り続けた



「ワル仲間がヒップホップダンスを廊下で踊ってくれたのを見て『おもしろそう』と思ったんです」



14歳のDAIKIは米LAのサウスセントラル(現・サウスロサンゼルス)で生まれたクランプというダンスにのめり込んだ。



「もともとクランプは、ギャングばかりの街で、今日の友達が明日には死んでいるような環境に対する怒りを表現するダンス。地面を踏みならすという激しい動きが特徴で、僕自身の生きづらさややりたいこともできない感情を伝えられるかもしれないと感じたんです」



身体能力に自信があったDAIKIにはやりたいスポーツがたくさんあった。ほかの子どもたちなら当たり前にチャレンジできることだが、施設側から断られることも少なくなかった。それ以前に、医師からは頭部に負荷がかかる競技を止められていた。



「僕みたいな特性のある子どもを受け入れたことがないからといつも断られました。オカンは『うちの子はできます』と食い下がるのですが、僕は切り替えが早かったので『こんな人のもとでやりたくないし』とハッキリ言っていました。すると母親は『じゃあ、帰るか』と。その繰り返しでした」



つねに窮屈さを感じていたが、ダンスだけは違った。授業をサボって、廊下というステージで夢中に踊り続けていた。



高校でも独学でダンスを続けながら、文化祭で400人の観衆の前で踊ったこともあった。



「向けられている視線の質が変わったと思いました。ダンスをすることで、呼吸する以上に自由になれている気がしました」



大学進学後、ある先生との出会いが彼の人生を大きく変えた。ダンスや身体表現の授業を教養課程で担当していた大橋さつき教授だ。経験者・未経験者問わず授業に参加した学生を集めて、全国から強豪が集まる「全日本高校・大学ダンスフェスティバル(神戸)」を目指す群舞創作を行ってきた。大橋教授が語る。



「ダンスフィスティバルに誘ったとき、彼が迷惑をかけるからと断ったことに『迷惑になるって考えていることが、迷惑だ』と私が言ったようですが、あまり覚えていないんです。彼は迷惑をかける前に“迷惑をかけるけどいいですよね”と免罪符を得ようとしたのかもしれません。それを私が『一緒に踊る仲間に迷惑をかけなさいよ』とはね返したものだから、背中を押してくれたと思ったのかもしれませんね」



仲間に“迷惑”をかけ、ぶつかり合う過程で変化が生まれた。



「みんながワーッと渦を巻きながら走り回るシーンがあるのですが、みんなが夢中になるとぶつかることも。それは彼にとっては命に関わることだから、練習中から大ちゃんも懸命に、どうしたらできるかを訴えていたし、みんなとも話し合っていた。本番に向かって自分の思いを表現していくうちに大ちゃんには、ほかの学生への信頼感や安心感も芽生えた。“私”ではできない“私たち”という感覚も」



全国大会でDAIKIらのチームは大賞を受賞した。だが、その舞台裏では事件が起きていた。



「大ちゃんは、コンクールの本番直前に、またひとりぼっちになったんです。怖くなったのだと思う。チームで一生懸命やってきて、自分一人に注目が集まって、自分が失敗したらすごく目立つんだというようなこととか、みんなの作品がダメになるんじゃないかとか、いろいろなものが押し寄せてきたんだと思う。あのときは本当に、もう、子どもみたいに、私のそばでしがみついていました」



この作品名は『訣別』。DAIKIが「ひとり」から、そして「弱さ」から決別した瞬間だった。DAIKIは当時をこう振り返る。



「孤独な意味の『ひとり』から決別したと思います。それまではバリアというか、何と闘っているかわからないけど、闘うこと以外、自分らしさがわかりませんでした。それまで自分が抱いていた孤独感も人にシェアするものではないと考えていました。人に話しても意味がないとさえ思っていました。でも仲間と出会って、そんな話もシェアしていいことに気づいたんです」





■誰もが横並びに見える社会。それは教師になって伝えたかったことと同じ



2017年秋、現在代表を務めるダンスユニット「ソーシャルワーカーズ」と出合う。〈ダンス・フォー・ソーシャルインクルージョン(誰一人取り残さない)〉をモットーに障害のある人もない人もダンスで活躍できる場をつくろうと立ち上げられた団体だ。DAIKI自身が参加した理由をこう語る。



「障害があるメンバーとそうじゃないメンバーも含めて自由に横並びでいられるというのがよかったんです。障害がある僕がいるから特別ではなく、誰もが横並びの見え方ができることが社会全体に伝わってほしいなと。それは僕が教師になって子どもたちに伝えたいことと同じだったんですよね。そのころからですね、自分の体をブランドだと思うようになったのは」



副代表を務めるYU-Ri(本名・野尻有理)さんはDAIKIの印象をこう語る。



「初対面のときは『自分は反骨でしか生きていないんで』とか『人と一緒に踊るなんて無理っす』と、とげとげしさがありました。でも、DAIKIは子どもに平気で声をかけたり、エレベーターを待っている間に隣の人と『今日は暑いね』と話したりする“コミュニケーションおばけ”なんです。



DAIKI自身には、自分を貫きたいという思いと、みんなとやりたいことをしたいという葛藤があり、その場でうなずいても本心では、うんと思っていないことが表情にすぐに表れます。そんなときは別の機会をつくって『もっと言っていいんだよ』と話しかけたことも。丸みを帯びたというとDAIKIに怒られそうですが、活動を通してしなやかになったことは確かです」



ソーシャルワーカーズの活動を通して、低身長で頑張っているDAIKIではない、ありのままの彼自身と団体をサポートする企業や団体が増えていった。



「昔よりは、不器用なりに迷惑をかけるのも愛のうちだと思っています」。瞳を輝かせてこう語った。



8月24日、ソーシャルワーカーズが主催するダンスイベント「チョイワルナイト2024」が横浜ラポールで行われ、ホールには障害のある、なしにかかわらず多くの人が詰めかけた。音楽が流れる会場で、丸山遥大くん(3)がリズムに合わせて小さい体をゆらしていた。彼も軟骨無形成症の子どもだ。



母親の翔子さん(35)が語る。



「これから息子が幼稚園や保育園に行ったときに、DAIKIさんと同じ病気なんだ、と言えば伝わりやすくなるし、わかってもらいやすくなる。これからもどんどん活躍してほしいです」





■野球、ダンスで酷使し続けた体は医師から「踊れても、あと5年」



昨年からは芸能事務所アクセシビューティーマネジメントに所属して、活躍の場を広げるDAIKIだが、近い将来、踊れなくなる可能性があるという。



19歳のときには腰部脊柱管狭窄症、3年前には頸部脊柱管狭窄症を発症した。どちらも脊髄が通る管が狭くなる病気で、しびれや痛みが出る。骨を広げる手術を受けたが、19歳のときには、続けていた野球を諦めた。3年前の手術後には、箸を持ちにくいなどの後遺症が残っている。



「人は誰でも老いていきますが、僕の場合は野球をしたあとにダンスをするなど常人以上に体を痛めつけてきましたからね。医師から『踊れても、あと5年』と。悔しいけど、どっかでわかっていたことだし。でも、ダンスは個性が大事で、その違いを生かせる可能性に満ちています。たとえば踊れなくても見せられるダンスだってあるだろうし。また、踊る以外にも俳優という引き出しもしっかりつくっておきたい。そして表現する以外にも、新しい夢も見えてきたので全力で残せるものを残していきたいです」



今のDAIKIの夢は、障害のある、なしにかかわらず「誰もが自分らしく生きる」ことだという。



「まずはバリアフリーなダンススタジオをつくって、その周辺に車いすのまま遊べる公園や、障害がある人が行き来できるカフェやアパレルショップなどの複合施設をつくりたいんですよね」



回り道をするほど器用ではないし、立ちはだかる壁は努力では越えられない。それでも真っすぐ前に進んでいく、壁にぶつかれば方向を変えて、ただ前に。宿命の星を背に、今日も力強く踊り続ける。

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  • 五体満足に産まれたのにクソな生き方してる奴は見習うべきだね
    • イイネ!1
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