サッカー日本代表の史上多得点記録は15点 ダブルハットトリックを決めたFWとは?

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2024年09月10日 07:20  webスポルティーバ

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連載第14回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。日本代表の中国戦7ゴールが話題になっていますが、日本の史上最多得点記録は、1967年フィリピン戦の15点。あのレジェンドFWがダブルハットトリックを決めた試合でした。

【3年前から確実に強くなっている日本代表】

 W杯アジア最終予選の初戦で、日本代表がなんと7対0というスコアで中国に圧勝した。

 30年ほど前まで日本サッカー界にとって「目の上のたんこぶ」的存在だった中国を相手にこのスコア......。まさに、"隔世の感"である。

「アジアも強くなった」とか「差は縮まっている」などと言う人もいるが、客観的に見て日本とアジアとの差はますます広がっている。

 アジアカップこそ不完全燃焼に終わったが、昨年以降、大量得点試合が続いている。W杯2次予選のミャンマー戦、シリア戦はホーム、アウェーともすべて5対0。アジア以外を相手にしても、昨年はエルサルバドル、ペルー、ドイツ、トルコ、カナダ相手にすべて4ゴール以上を奪って勝利している。

 相手との力関係に関わらず、これだけ大量得点を続けられるチームは滅多にない。

 中国戦を前に、2021年9月2日のカタールW杯最終予選のオマーン戦がしきりに取り上げられた。9月は各国リーグが開幕直後でコンディションが上がっておらず、なかには移籍したクラブでポジション争いに直面していて代表活動に集中できない選手もいた。

 そんなこんなで選手の動きが悪く、オマーンには敗れるべくして敗れた。

 あれから3年。日本代表は当時よりも格段に強くなった。

 カタールW杯終了後も森保一監督の下で継続的な強化が行なわれ、チームの完成度は上がっていた。歴代代表監督が何度トライしてもうまくいかなかった3バックと4バックの使い分けもできるようになった。

 そして、選手たちが成長した。

 今では日本人選手の多くは、欧州5大リーグの強豪も含めて各クラブで主力として活躍しているから、代表活動でチームを離れてもポジションを奪われる心配はなくなってきている。

 つい1年ほど前までは「代表定着のためには結果を出さなければ」と焦って強引なプレーをする選手が何人もいたが、今ではそんなプレーに走る選手はいない。「今夜ゴールを決められなくても、それで地位が揺らぐわけではない」。そんな落ち着きが感じられる。

 中国戦では両ウイングバックに堂安律、三笘薫を配した超攻撃的3バックだったが、選手たちはけっして攻め急がず、慎重に戦った。

 パスが滞れば躊躇なくボールをいったん最終ラインに下げて、再びサイドに展開するという作業を丁寧に繰り返し、強引に仕掛ければ突破できるような場面でも自重。相手にカウンターを許す場面はほとんどなかった。

 そうした落ち着いた試合運びができるのは、焦らずに攻めていれば必ず得点(複数得点)できるという自信のおかげなのだろう。

【日本代表史上最多得点記録は?】

 さて、このところ大量得点での勝利が続く日本代表。2021年3月のモンゴル戦では14得点を記録したが、日本代表史上最多得点記録は今から57年前の1967年9月に行なわれたフィリピン戦の15得点。メキシコ五輪アジア最終予選の初戦だった。

 大会は東京・国立競技場で行なわれ、日本のほか、韓国、レバノン、南ベトナム(当時)、台湾(中華民国)、フィリピンが参加した。日本の初戦がフィリピン戦だった。

 フィリピンはバスケットボールは強かったが、サッカーではずっと弱小国だった。そのフィリピンを相手に開始4分で杉山隆一が先制ゴールを決めると、その後も攻撃の手を緩めることなく15ゴールを決めて日本が大勝した。

 予選は、事実上日本と韓国の一騎討ちだった。韓国は1960年代初頭に黄金時代を迎えたが、その後低迷期に入っており、日本が有利と思われていた。だが、直接対決は壮絶な点の取り合いとなり、3対3の引き分けに終わった。

 勝点で並んだ場合には得失点差で順位が決まる。そして、韓国の最終戦の相手はフィリピンであり、韓国側は「フィリピンから18点」と豪語したが、これに反発したフィリピンがFWひとりを前に残して全員がゴール前で体を張って守った結果、韓国は5点しか決められず、日本が得失点差でメキシコ五輪出場を決めた。

 フィリピン戦の15ゴールがメキシコ五輪銅メダルにつながったのだ。

 1967年というと、僕が中学校3年生の時だった。

 1964年の東京五輪で初めてサッカーを観戦し、中学のサッカー部に入り、代表戦や日本サッカーリーグを見に行くようになったばかりだったが、あのフィリピン戦の記憶は今でも鮮やかによみがえる。

 立役者は「ダブルハットトリック」(ひとり6点)を達成した釜本邦茂だった。国際Aマッチ76試合に出場して75得点。つまり、1試合1得点のペースでゴールを量産し続けた伝説のストライカーだ。

 前線でボールを収めてタメを作ったり、反転してシュートを狙ったり、あるいはドリブルで突破してそのままゴールを決めたりとセンターフォワード(CF)に求められる仕事を完璧にこなす理想の「9番」だった。そして、左右両足とヘディングから数々のゴールを決めた。

 公称179センチだったが、実際には180センチを超えており、当時としては大型で、体幹の強さのおかげで世界的なDFと対峙しても互角に渡り合うことができた。

 釜本引退後、日本のサッカー界はずっと「第二の釜本」を追い求めてきたが、「釜本二世」はいまだに現われていない。

【日本に再び9番タイプは出てくるのか】

 7得点した中国戦でCFを務めたのは上田綺世だった。

 悪いパフォーマンスではなかった。

 前線でターゲットとなって、33分には町田浩樹からのパスを受けてそのまま突破して決定的チャンスを作った(守田英正のハンドがあってノーゴール)。そして、58分にはやはり町田のパスを受けて絶妙のタイミングで南野拓実に落とし、チームの4点目を生み出した。

 ただ、残念なことに上田は、無得点のまま79分で交代を命じられた。

 上田がああいった試合で1点でも2点でも決められる選手に成長してくれれば、あるいはパリ五輪で活躍した細谷真大が成長してくれれば、いよいよ日本は待望の「9番」タイプを手に入れることができるのだが......。

 それとも、「9番」タイプを待つことなく、浅野拓磨や前田大然のような前線で動き回る選手を使ったほうがいいのか......。

 ところで、日本代表の最多得点試合はフィリピン戦の15得点だったが、最多失点記録も同じフィリピン相手の15失点だった。

 1917年に東京で行なわれた第3回極東選手権大会。日本、中国、フィリピンが参加する総合競技大会だった。当時、サッカーでは選抜チームは組まれず、日本最強の東京高等師範学校(筑波大学の前身)が日本代表として出場したが、フィリピン代表の「ボヘミアンズSC」に2対15で敗れた(協会創設前の試合なので、JFAはAマッチとして認定していない)。

 そして、ボヘミアンズSCにはパウリーノ・アルカンタラというFWがいた。

 スペイン人軍人とフィリピン人女性の間に生まれたアルカンタラはバルセロナで数々の得点記録を作っていたが(その多くは、リオネル・メッシによって塗り替えられた)、この時はマニラ大学入学のためにバルセロナを退団してフィリピンに戻っていたのだ。

 アルカンタラは、のちに再びバルセロナで活躍。スペイン代表となり、さらにスペイン代表監督も務めることになった。今から107年前に、東京高師の学生たちはそんなワールドクラスのFWと対戦していたのである。

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このニュースに関するつぶやき

  • てか、日本代表では上田綺世ばかり使い続けてるけど、★セルティックの古橋亨梧★を試して欲しい!!。上田の控えも必要!!。
    • イイネ!8
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