NBA伝説の名選手:ティム・ダンカン 堅実なプレーで「スパーズ王朝」の柱であり続けた史上最高のパワーフォワード

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2024年09月10日 07:20  webスポルティーバ

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NBAレジェンズ連載15:ティム・ダンカン

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第15回は、5回の優勝、数々の個人賞の実績が物語るように、NBA史上最高のパワーフォワードと評されるティム・ダンカンを紹介する。

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 世界最高のプロバスケットボールリーグNBAには、フットボールや野球、サッカーなどの他競技を経てバスケットボールへのめり込んだ選手たちがいる。

 今回紹介するティム・ダンカンは、14歳で水泳からバスケットボールへ転向した異色のキャリアを持つ異端児とも言える。 "シルバー&ブラック"が特徴のサンアントニオ・スパーズを代表する選手となった男がどんなキャリアを送ってきたのか。

【瞬く間にバスケットのトップ選手に】

 1976年4月25日、父ウィリアムと母アイオンのもと、ダンカンはアメリカ領ヴァージン諸島で誕生した。「スイマーとして育った私は、水泳のことを自分で自分を追い込まなければいけない個人スポーツ(競技)として捉えていた」と幼少期を振り返ったダンカンは、毎日5000mから8000mも泳ぎ、13歳の頃には自由形の50m、100mでヴァージン諸島の記録を保持し、400mでもトップレベルに入る実力の持ち主だった。

 サメに襲われる危険性があることを恐れていたダンカンだったが、思わぬ形で人生のターニングポイントを迎える。1989年にカリブ海を襲ったハリケーン"ヒューゴ"によって、島のスイミング施設が倒壊してしまったのだ。さらには14歳の時に乳がんで母が他界するなど不運が続いたダンカンは、心機一転、バスケットボールキャリアをスタートさせる。

 ヴァージン諸島にあるセントダンスタン・エピスコパル高へ入学すると、4年次には平均25得点、12リバウンド、5ブロックを残し、ウェイクフォレスト大学へ進学。大学1年次終了後の1994年夏にFIBA世界選手権(現ワールドカップ)を控えていたドリームチーム2との練習試合でシャキール・オニール(元ロサンゼルス・レイカーズほか)を相手に奮戦。翌1995年夏にはアメリカ代表としてユニバーシアード福岡大会へ出場し、金メダルを獲得した。

 大学4年次の1996-97シーズンには、平均20.8得点、14.7リバウンド、3.3ブロックを残して全米最優秀選手賞に選出。通算128試合の出場でチームを97勝31敗(勝率75.7%)へ導き、87試合でダブルダブルをマーク。211cm・113kgという堂々たる体格を持ち、即戦力としてNBAチームから熱視線を浴び、1997年のドラフト全体1位でスパーズから指名された。

 1994-95シーズンのMVPセンターで、216cmのデイビッド・ロビンソンと"ツインタワー"を形成したダンカンは、1997-98シーズンに平均21.1得点、11.9リバウンド、2.5ブロックで新人王に輝いただけでなく、オールディフェンシブセカンドチーム、さらにはリーグベスト5に相当するオールNBAファーストチームにも選出される。

 するとスパーズはロックアウトで82試合から50試合へ短縮となった1998-99シーズンに球団史上初のNBA制覇を達成し、ダンカンは2年目ながらファイナルMVPに選ばれた。

 その後もスパーズはロビンソンの現役最後となった2002-03シーズンに2度目の優勝。2003年のファイナル最終戦で、ダンカンは21得点、20リバウンド、10アシストのトリプルダブルに8ブロックと、あわや"クァドラプルダブル"という獅子奮迅の活躍だった。

 スパーズは2005、2007、2014年にもチャンピオンシップを獲得。その間にトニー・パーカーやマヌ・ジノビリが輝いたことも優勝できた要因のひとつではあるものの、このチームの根幹がダンカンだったことは間違いない。

「ダンカンなしに、複数回のチャンピオンシップ獲得はなかった」と語ったグレッグ・ポポビッチHC(ヘッドコーチ)は、大黒柱として絶大な働きを見せた男のリーダーシップも絶賛していた。

「彼は穏やかながら、日々の練習やシュートアラウンドでも競い合う手本を示した。マヌとトニーがいるなかでもね。非常に謙虚かつ静かなやり方で、自身を作り上げたんだ」

 NBAキャリア19シーズンで、ダンカンは5度の優勝に加えてファイナルMVPを3度、シーズンMVPを2度受賞し、オールNBAチームには歴代2位タイの15度、オールディフェンシブチームに至っては歴代最多15度も選出されている。

【派手ではないが「勝者」としての絶対的な存在】

 バスケットボールの基本が完璧に備わっていた男は、"ビッグ・ファンダメンタル"と評され、ポストプレーをフックショットやフィンガーロール、時にはダンクで締めくくり、ディフェンスではマッチアップ相手を封じるだけでなく、一切無駄のない動きで絶妙なカバーへ入るなど攻守両面でスパーズ王朝を支えてきた。

 ダンカンのシグネチャームーブと言えば、やはりバンクショット。ゴールに正対したシーンやポストプレーで高い打点からバックボードに当てて加点するショットは地味ながら効果抜群で、相手へ確実にダメージを与えた。

「どの角度からでも決めきれる使い手は、そう多くない。だからこそ、彼のサイズと高い位置から繰り出すあのバンクショットが極めて特別なものになったんだ」と指揮官は言う。

 ダンカンという選手の魅力を端的に表現するなら、所属チームを何度も勝利へと導いてきた"勝者"という言葉だろうか。レギュラーシーズン通算1392試合で1001勝391敗(勝率71.9%)、プレーオフでも251試合で157勝94敗(勝率62.5%)という見事な実績を残してきた。

「すべてがうまく組み合わさったからなんだ。自分の持つ競争心とゲームへの愛、負けず嫌いな面、それにスパーズという組織が毎年勝利する機会を選手やチーム、街へもたらしてくれた」

 申し分ないNBAキャリアについてそう謙虚に語ったダンカンは2016年に引退後、背番号21がスパーズの永久欠番となり、2020年(式典は2021年)にバスケットボール殿堂入り、2021年にはNBA75周年記念チーム入りを果たし、NBA史上最高のパワーフォワードのひとりという評価を確立している。

 メディアとのやり取りで大胆な発言をすることもほぼなく、かといってファッションでオールスターや会場入り時に一際目立つような装いをするわけではない。それゆえ、華やかな選手たちが揃うNBAでは地味なイメージがつきまとっていた。

 それでも、スパーズ時代の同僚パーカーが「彼は周りの選手たち全員を高めている。それこそスーパースターの定義なんじゃないかな」という言葉どおり、ダンカンはこれから先もリーグ史上有数の"スーパースター"としてNBA史に残り続けていくことだろう。

 引退後は2019-20シーズンのみスパーズでアシスタントコーチを務め、ポポビッチHCが欠場した試合では指揮を執るも、殿堂入り式典を除くとあまりメディアの前には姿を現していない。

 ただ、今夏クリス・ポールがスパーズ加入と報じられると、ダンカンはウェイクフォレスト大の後輩へ歓迎のテキストを送っていた。昨季の新人王ビクター・ウェンバンヤマを中心に飛躍を目指す今季のスパーズで、ダンカンがサポート役として練習などに顔を出して選手たちを鼓舞する場面があるかもしれない。

【Profile】ティム・ダンカン(Tim Duncan)/1976年4月25日生まれ、アメリカ領ヴァージン諸島出身。1997年NBAドラフト1巡目1位指名
●NBA所属歴:サンアントニオ・スパーズ(1997-98〜2015-16)
●NBA王座5回(1999、2003、05、07、14)/シーズンMVP2回(2002、03)/ファイナルMVP3回(1999、2003、05)/オールNBAファーストチーム10回(1998〜2005、07、13)/新人王(1998)/オールスターゲームMVP1回(2000)
●五輪代表歴:2004年アテネ五輪(3位)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

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