恩師・門田博光に背き、「好きにせい」と突き放された元DeNA倉本寿彦が大切にする宝物

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2024年09月17日 07:10  週プレNEWS

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NPB1軍への復帰を目指し、くふうハヤテで戦う倉本寿彦。9月12日終了時点で58試合に出場し、規定打席未到達ながら打率.346をマーク(写真/くふうハヤテ提供)

今シーズン、日本野球機構(NPB)にファーム(2軍)リーグ限定で新規参戦した「くふうハヤテベンチャーズ静岡」(以下、くふうハヤテ)。同時に参戦した「オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」は独立リーグの老舗球団だったが、くふうハヤテは母体も何もない、まさしくゼロから立ち上げられたチームだ。

開幕から約3ヵ月が過ぎた6月末、くふうハヤテに密着取材し、野球人生をかけて新球団に入団した男たちの挑戦を追った。

前回に続き、かつて不動のショートとして活躍した横浜戦士、倉本寿彦に、NPB12球団復帰にかける思いを聞いた。(全15回の最終回)

【写真】南海時代の門田博光

■「好きにせい」の真意

このままではプロ野球選手として生き残れない――。

1年目の2015年シーズン、球団史上44年ぶりに新人ショートの開幕スタメンの座をつかみ102試合に出場したものの、打撃成績は思うように残せなかった倉本寿彦。恩師・門田博光から学んだ、長くて重いバットを使い一本足打法でフルスイングする打ち方から、短いバットで確実に安打を狙う打ち方に方向転換すると決めた。門田に報告すると、短くこう言われて電話を切られた。

「好きにせい」

「『生き残っていくためにやらなければ』という気持ちと『門田さんの教えは捨てられない』という気持ちの狭間で葛藤しました。でも当時はとにかく生き残りたい気持ちで必死でした。レギュラーとして試合に出るためには、今は長打を捨てて確実に安打を狙える、粘り強い打者にならなければ生き残れないと思い、最終的には自分の気持ちに従い、門田さんにも報告しました」

迎えた2年目の2016年シーズン。倉本は規定打席に到達して打率.294という成績を残した。守備でもショートのポジションに定着するなど大きく飛躍し、球団史上初となるクライマックスシリーズ進出にも貢献した。翌2017年シーズンは打率.262と成績を落としたものの、レギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズの156試合全てにフルイニング出場を果たすなど、ベイスターズの看板選手のひとりとして数えられるまでになった。

当時の決断について倉本はなんら後悔していない。もしあのとき打撃スタイルを変えていなければ、プロで生き残ることはできなかったと思っているからだ。ただ「今も間違いなく、僕の心のど真ん中にいます」と話す恩師の打法を継承し、「自分と似たような、フルスイングを常とするホームランバッターに成長してほしい」という期待に応えられなかったことは心の中に残ったままだった。

門田とはその後も話す機会はあったものの、打ち方を変えたことについて聞いたりはしなかった。門田もまた倉本に聞いてくることもなかった。

昨年1月に門田がこの世を去ってしまった今となっては、モデルチェンジすると聞いたときの心境、そして「好きにせい」と返した言葉の真意は、二度と確かめることはできない。倉本もそれは長年気にし続けていた。しかし奇しくも今回の取材直前、恩師の思いを伝える番組が放送されていた。

ハヤテ取材で清水市に行ったおよそ1週間前の6月15日、NHKのドキュメンタリー番組『ある野球人の死 "不惑"の大砲 門田博光』が放送された。番組は、門田の野球人生と、彼が生きた昭和という時代を重ねて構成されていた。門田の晩年については、主に番組の後半部分で色濃く紹介されていた。

門田は引退後、離婚して家族と離れて山深い別荘地でひとり暮らしを始めた。次第に野球界の表舞台からは遠ざかり、長年患い続ける持病の糖尿病等の影響で人工透析が欠かせない身体になった。そんな晩年のインタビューで門田は、NPBで監督をしたい気持ちは持っていたが、頑固者と言われた自分が希望をかなえることは難しいと自覚していたと答えていた。

一方で、門田の現役最後まで打撃投手を務めた松浦正に、野球をやめたら何をするのかと聞かれた際、「4番バッターを育てたい」と答え、「だけど俺の教え方じゃ、わからんやろな」と答えたエピソードも紹介されていた。

また、表舞台から姿を消した門田を野球界に戻そうと社会人チーム、大阪ホークスドリームの総監督就任を依頼したオーナーの川戸康嗣は、門田が「野球はええわ」と言いつつ、野球に携わりたいと強く願っていたと証言した。

2009年に社会人クラブチームとして設立された大坂ホークスドリームで、門田は当初、名誉職の総監督だったが、関西独立リーグに参戦した2011年は、実際に現場で指揮を執る正式な監督として活動した。番組では当時撮影された指導の様子も紹介されていた。

当時指導を受けた選手のひとり、河野良平によれば、選手たちが使うバットは門田の現役時代そのまま、練習でも試合でも関係なく1kgの重いタイプ。門田は「俺ができたんだからお前らもできる」「この体格で俺が頑張ってやれたんやからお前らもいくぞ」と檄を飛ばし、自らバットを振って手本を見せ、「全部ホームラン狙え」「ホームランの打ち損ないがヒットなんや」と教えたそうだ。

■恩師から届いた驚きの贈り物

倉本に、1週間前に放送された番組について尋ねると「録画してあります。横浜の自宅に戻って見ようと楽しみにしています」と答えた。そこで、著者が同番組の、主に上記で紹介した晩年部分をスマートフォンで見せた。

「『門田さんだな』と思いました」

倉本は軽い笑みを浮かべ懐かしそうに感想を述べた。日本新薬で1週間指導を受けた当時の門田とまったく同じ。「上手に褒めてやる気にさせる」といった考え方は微塵もなし。相手がどう受け止めるか、自分はどう思われるかなど一切関係なく、信じる理論や考えを真っ直ぐ伝えていた。

番組が伝えた、晩年の門田の孤独な暮らしぶりに衝撃を受けた往年の野球ファンも少なくなかったかもしれない。そんな中でも門田は、プロ野球中継の観戦を日課にしていて、ある選手の活躍を気にしていたという。今の日本球界を牽引する若きスラッガー、村上宗隆(ヤクルト)だ。

門田は村上について、「長距離打者なのに体重移動しないまま打っている。自分たちの時代の常識で考えれば、村上の打ち方では、ボールは遠くに飛ばせない。野球の哲学は人それぞれ。自分の理論に賛同しなくても、打てる選手はたくさん生まれてきている」と話した。

2022年シーズン、門田は村上が王貞治の年間本塁打記録を塗り替えて史上最年少で三冠王に輝いた姿を見て、ひたむきに上へ、自分を追うようなバッターを見届けたと喜んだそうだ。

自他ともに認める頑固で偏屈な変わり者。それが仇となり、門田は選手時代に日本プロ野球史に残るあれだけの実績を残しながら、NPBでは一度も指導者として活躍の場を得られないまま74歳で生涯を終えた。しかし人知れずひとり山奥で暮らした晩年は、「野球の哲学は人それぞれ」と新しい価値観を認め、野球の未来を築こうとしている若者たちの活躍を心から喜んでいたのだ。

倉本が、長いバットを握り一本足打法でフルスイングするスタイルから、短いバットで確実に出塁を狙うスタイルに方向転換すると報告した際、「好きにせい」と一言だけ伝えた真意。それは決して投げやりな言葉ではなく、愛弟子の成長を喜び、NPBという新たなステージでもひたむきに努力する姿勢を応援したい気持ちが込められていたのではないか。

番組を見て、門田が倉本に何よりも言いたかったことは、技術や理論ではなく「自分で決めたことは貫け」という本気の気持ち。自分で決めて貫く覚悟があるならば、「好きにせい」。門田は生涯唯一、指導者としてNPBに導いた倉本に、そう伝えたかったように思えた。

* * *

横浜からドラフト指名されたと報告したとき、倉本は門田から自分が教えたことをレポートにまとめて送るようにと言われたそうだ。レポートを送ると、後日、驚くようなお返しが届いた。

「門田さんが現役時代、引退試合で着たユニフォームの上下とスパイクが届きました。門田さんからは何も連絡ないまま、送られてきました。それも門田さんらしいな、と思いました。本当嬉しかったですね。僕の宝物です」

ちなみに門田の引退試合は1992年10月1日。門田は福岡ダイエーホークスの3番指名打者で出場。マウンドに立つのは近鉄の野茂英雄。その2年前の1990年4月18日、門田はのちにメジャーでも活躍する当時新人だった野茂が投げた渾身のストレートをフルスイングして初ホームランを浴びせていた。運命の巡り合わせか、引退試合でも対戦することになった野茂相手にフルスイングを貫き、3球三振で23年間の現役生活に幕を閉じた。

倉本は、10年前に門田から学んだ「毎日真剣に、全力で100回バットを振りなさい」という教えを、33歳になった今も忘れず守り続けている。

「夢は諦めずに追い続けたい。今はまだ夢の途中ですけど、ハヤテでNPB復帰を目指すことも自分で決めた道なので、最後までやり切ります。野球を通じて、人としても成長していきたい。門田さんはじめお世話になった方々にも、良い報告ができるように頑張りたいなと思います」

倉本は、今季途中のNPB12球団復帰はかなわなかったものの、9月12日時点で規定打席未到達ながら打率.346の好成績を残すなど、NPB1軍の主軸で活躍した頃を想起させるような活躍を続けている。門田イズム唯一無二の継承者は、恩師の思いを胸にまだまだ戦いの日々を続ける。

(おわり)

●倉本寿彦(くらもと・としひこ) 
1991年生まれ、神奈川県出身。横浜高では後輩の筒香嘉智らと共に夏の甲子園でベスト4。創価大から社会人の日本新薬を経て2014年ドラフト3位でDeNA入団。1年目は65試合にスタメン出場。2年目にショートのレギュラーに定着し、3年目の2017年シーズンは全試合出場した。22年に戦力外通告を受けて日本新薬に戻った後、くふうハヤテに移籍しNPB12球団復帰を目指している

取材・文・撮影/会津泰成

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