『極悪女王』で話題の全日本女子プロレスはすべてが「規格外」だった 元東スポの柴田惣一が明かす人気とその裏側

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2024年09月19日 17:10  webスポルティーバ

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プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(5)

(連載4:長州力から「お前にトップ記事をやるよ」レスラーの結婚スクープ裏話>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。

 そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第5回は、9月19日からNetflixで『極悪女王』も配信されて話題の全日本女子プロレス。昭和の"規格外"だった世界について聞いた。

【クラッシュ・ギャルズなどの登場で人気がうなぎ上り】

――柴田さんは東京スポーツに勤務されていた頃、女子プロレスの記事も扱っていたんですか?

柴田:1984年8月にクラッシュ・ギャルズ(長与千種・ライオネス飛鳥)が『炎の聖書』でレコードデビューしてから、女子プロレスの人気がうなぎ上りになって。読者からの要望もあって、その頃から取材するようになりました。 全日本女子プロレスは「日本女子プロレス協会」を退社した松永高司が兄弟とともに1968年に設立。全盛期には年間300試合以上が行なわれていました。

 当時、事務所は東京の目黒にあったんですが、その事務所の奥に大きな金庫があり、そのなかに現金が無造作に押し込んでありました。あの頃は今と違って、現金での取引がほとんど。試合後、チケットやグッズの売り上げを、そっくりそのまま金庫に入れておく。だから、金庫を開けるとこぼれるようにお金が落ちてくるんですよ。

――すごいですね。見てみたかったです(笑)。

柴田:金庫の中にいくらあるか、誰も把握していなかったそうですよ。よく松永4兄弟は、「飲みに行こう!」と金庫を開けて、クシャクシャのお札を鷲掴みにしてポケットに入れて繁華街に向かっていました。

――バブリーな時代ですね。

柴田:1970年代後半、ビューティ・ペア(ジャッキー佐藤・マキ上田)が出てきた時も、会場での選手の入り待ち、出待ちをするファンの数はものすごかったです。あと、いちばん人気があった頃は入団オーディションに申し込みが殺到して、人が溢れていましたね。

事務所に送られてきてうず高く積まれた書類選考の書類が、机から落ちたらその書類が見られることはない。「そのなかに"ダイヤの原石"がいたんじゃないか」と思ったこともありますが、「その人には運がなかった」と言って応募書類に目も通さずに落としていました。

【若手女子レスラーたちの受難の日々】

――昔は、女子プロレスラーは「アイドル」でしたね。

柴田:ファンは若い女の子ばかり。今みたいに年齢層の高い男性はあまりいませんでした。女性たちの"憧れの存在"でしたね。初期の女子プロレスは、プロレスというよりは女性同士の取っ組み合いのケンカ、つまり"キャットファイト"と呼ばれるものでした。でも1974年にマッハ文朱が出てきて「技を魅せる闘い」になったんです。

――マッハさんが、それまでの「女子プロレス」を変えたんですね。

柴田:その姿に憧れた女子学生がオーディションに殺到したんですが、中学を卒業したばかりで何も知らない子が多かった。彼女たちは会社の方針に素直に従うしかありませんでした。中卒の女の子が高い給料をもらうわけですが、寮費だとか何だかんだとか、いろんな名目で天引きされてしまうわけです。

 結局、実際にもらえる金額はかなり目減りしたそうですね。道場に併設された寮での生活で、衣食住の「食」と「住」は確保されていました。とはいえ、お米は十分に支給されていたけど、おかずは自腹。実家からの仕送りなどがあった時はいいけど、基本は缶詰がご馳走だったとか。

 雑用なども多くて自由時間が少なく、服装も普段はジャージ。若い選手たちにとってはかなり厳しかったようですが、「お金を稼ぎたいならスターになれ」とハッパもかけられていたから、ハングリー精神もすごかったです。会社としては儲かっていたわけですから、"どんぶり勘定"だった松永兄弟がキチンとお金を管理していれば、いくつも自社ビルが建ったでしょうね。

――そんな管理がひどかったんですか?

柴田:うーん......先ほども触れましたけど、毎晩のように社長たちは豪遊していたらしいですからね。周りの人から、「このビルを買って、不動産収入でお金を儲けたら?」とか、自社ビル建設や投資も勧められたらしいですけど、あまり興味を示さなかった。もっとも、資金はたっぷりあったから、徐々に投資話にも耳を傾けるようになったみたいですけどね。

――うまい話に騙されてしまうリスクもありそうですね......。

柴田:実際に土地と株とか、いろいろと損をしてしまったみたいですね。だから、お金に詳しい人が管理をしていたら、まだ全日本女子プロレスは続いていたかもしれません。

――1980年代の全日本女子は2リーグに分かれていた記憶があります。ジャガー横田さんとライオネス飛鳥さんらのAチーム、デビル雅美さんや長与千種さん、ダンプ松本さんらのBチームといったように。

柴田:試合数もすごかったけど、それ以上に「興行をやってくれ」という話がどんどんくるわけですから、2リーグなら単純に儲けも2倍になりますからね。ただ、チーム編成には苦労したんじゃないかな。

【規格外の世界から広がった日本の女子プロレス】

――全女には、「酒、タバコ、男」という"3禁"がありましたね。

柴田:お酒はそれなりに飲んでいたレスラーもいたようですけど、タバコは「肺によくない」と、けっこう守られていたそうです。男性関係に関しても問題が起こらないように、ということだったようですが、今ではパワハラ、モラハラなどと言われるでしょう。そんな言葉はなかった時代ですが、当時はリング内外ですごかったですよ。

――どんなことがあったんですか?

柴田:「リング上の所作がよくない!」「練習中の態度がよくない!」といったように厳しく指導されていたらしいです。言葉に加えて、多少の体罰も......。言いようによっては「精神力を鍛える」ということでしょうか。

 そういえば、目黒駅近くに全女を応援してくれる喫茶店があって。若い選手には安くしてくれたり、いろいろサービスしてくれたんですけど、そこにお客さんが自由に書くノートが置いてありました。私も実際に見たことがありますけど、ほとんどが「ケーキが美味しかった」といった内容のなかに、若いレスラーたちの愚痴や先輩の悪口も書いてあったようです(笑)。その犯人捜しもあったようですね。

――練習も厳しかったでしょうね。

柴田:練習は受け身やブリッジなど、基礎体力作りばかりだったようで、「技は試合で(先輩レスラーを見て)覚えろ」と。受け身に関しては、前、後ろ、横、回転とさまざまありますが、それができないと後頭部を痛めて大ケガにつながりますからね。そこは男子も女子も一緒で準備はしていたんですが、技はなかなか教えてもらえなかったようです。

――そうなると殴り合い、蹴り合いのみの試合も多くなりそうですね。

柴田:全女はリング上で、殺伐とした激しい闘いを見せていました。普段から仲が悪くてケンカをしたりすると、あえて試合を組むこともあった。会社がお互いの悪口を吹き込んだり......。でも、それがいい試合になるんですよ。

 試合中にケガをしても「試合しながら治せ」という指示があったり、今考えれば"破天荒"をとおり越して滅茶苦茶だったと思います。気合いや根性論が優先。それがいい・悪い、ということではなく、「そういう時代だった」ということでしょう。

――今は、全女に所属していた選手たちが、トークイベントやYouTubeなどで当時のことをよく話していますね。

柴田:ただ、総じて「つらく苦しかったけど、いい経験になった」と懐かしんでいる部分もあるように感じます。もちろん本当に大変だったでしょうが、それをただの悲しい思い出としないで「あの時代があったから今の自分がある」と前向きに捉えているのはすごい。やはり、心も体も相当に鍛えられたんでしょう。

 いずれにしろ全女は、すべてにおいて規格外だった。そして、日本の女子プロレスの源流です。全女の選手たちの弟子も数多く活躍していて、女子プロレス団体もたくさんできたし、世界に羽ばたく選手もいます。賛否両論はあるでしょうが、全女がなければ今の女子プロレスはなかった。全女を設立した松永兄弟の功績は大きいと思いますよ。

【プロフィール】
柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として『夕刊フジ』などで連載中。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

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