Text by 渡邉隼
Text by 今川彩香
今年デビュー20周年を迎え、日本橋三井ホールでの20周年記念のスペシャル公演を控えるトクマルシューゴ。さまざまな楽器や非楽器を用いて、作曲・演奏・録音を一人で行なうポップマエストロだ。
その親しみやすく、それでいて高度な複雑性を兼ね備えた楽曲の数々は、2004年にNYのインディレーベルからデビューして以来、国内外の音楽ファンから支持を集めてきた。今年7月にリリースされた8年ぶりの新作『Song Symbiosis』も素晴らしかったし、近年ではアニメ『ちいかわ』で彼の音楽に触れている人も多いだろう。
そんなトクマルが近年保育の研究に関わっていることは、もしかしたら多くの人には知られていないかもしれない。小さいころから音楽の授業に違和感を持ち、小学生時代に自ら音楽クラブをつくったというエピソードや、おもちゃの楽器を演奏するトイミュージックへの傾倒からもわかるように、トクマルの独自性は既存の音楽教育のあり方から外れることによって形成されてきた側面がある。その彼は、現在の音楽教育・芸術教育に対してどんな視点を持っているのだろう? 近年は実際に保育士や学生相手に講義をする機会も多いというトクマルに、日常と乖離しない音楽のあり方について語ってもらった。
ー保育の研究に携わるようになったきっかけから教えてください。
トクマルシューゴ(以下、トクマル):齋藤紘良という人がいまして、町田の簗田寺というお寺の副住職であり、ミュージシャンでもあるんですけど、そのお寺の敷地を使って音楽イベントをやっているんですよね。僕がライブを始めた当初、2004年ぐらいから僕を出演者として呼んでくれて、それ以来ずっと仲が良かったんです。で、その彼はお寺の傍ら保育園の運営もしていて。
|
|
トクマル:そうなんです。他にもいろんな園を持っていて、いまはそのいっぱいある園の理事長をやってる人なんですけど、その彼が保育の研究機関から依頼を受けて、「せっかくだからトクマルくんも一緒にやってみない?」と誘われて。それでやり始めた感じですね。
トクマルシューゴ
東京出身。ギターと玩具を主軸に無数の楽器を演奏する音楽家。楽曲の全てを作詞・作曲、演奏、アレンジ、レコーディング、ミキシングまでひとりで手掛ける。2004年、米NYのインディ・レーベルより、1stアルバム『Night Piece』をリリース。3rdアルバム『EXIT』はSony-BMG傘下のレーベルよりリリース。フジロック、NANO MUGEN FES、ヨーロッパ最大級の音楽フェス、ロスキレなど相次いで出演。4thアルバム『Port Entropy』をリリース、日本全国13カ所でツアーを行い全公演が即ソールドアウト。NHK『トップランナー』に出演。"KATACHI"のMVが海外の様々な賞を受賞。現在はアニメ『ちいかわ』、Eテレ『ミミクリーズ』などの音楽を担当。CM、ドラマ、映画、舞台、アニメーション、様々な分野で楽曲制作している。
ー齋藤さんとの交流のなかで、トクマルさん自身も保育だったり、音楽教育・芸術教育の分野に対して、少しずつ興味関心が高まっていった?
トクマル:興味関心で言えば、子どものころからずっと関心がありました。もともと小さいころから音楽が大好きで、幼稚園で友達がピアノを弾いてるのを見て僕もやってみたいと思って、ピアノの教室に通わせてもらったんです。そこは個人でやってるピアノ教室で、先生の演奏を聴くのは大好きだったし、ピアノの音自体も大好きだったんですけど、レッスン自体はあんまり好きになれなくて、演奏するのもちょっと苦手になっちゃったんです。
その後に小学校に入って、音楽の授業があるわけですけど、小学校低学年まではすごく楽しかったものが、高学年になるにつれてだんだん面白くないものに感じられて……逆にどうでしたか? 音楽の授業は楽しかったですか?
ーいま振り返ると、「なんでリコーダーを習わないといけなかったんだろう」とか、疑問に思うことはたくさんあるけど、僕は音楽の授業は嫌いではなかったです。でも1人1人発表させられるのは嫌だったかも。できないと恥ずかしいみたいな、そういうのはいま思い返すとありますね。
|
|
で、何とかして面白くしてやろうと思って、クラブ活動が始まる5年生のときに、「これは自分でつくった方が早い」と思って、音楽クラブをつくったんですよ。ちょうど自分でCDとかを買い出す時期だったのもあって、音楽好きな友達を何人か集めて、「ギターとかドラムができたらかっこいいよね」みたいな話をしながら、先生に頼みに行って、音楽クラブをつくったんです。
そのクラブの活動自体は結局あまりうまくはいかなかったんですけど、でも自分で音楽の時間がつくれたという経験はすごく大きくて、そのあたりから「好きな音楽を自分で好きにやろう」という気持ちに変わっていったんです。それでいろんな音楽を聴くようになったり、楽器をちょっとずつ集め始めて、中学になると好きな音楽の話で友達と盛り上がったりして。
ー逆に言うと、小学生のときに学年が上がるにつれてだんだん音楽の授業がつまらないと感じるようになったのは、「この楽器をやりなさい」「この曲を演奏しなさい」というのが決まっていて、強制的にやらされている感じに不満があった?
トクマル:それも多分一つの原因だと思いますし、でもそれだけじゃなくて、原因はいっぱいあったと思うんですよね。なので、「なぜ音楽の時間が苦手になっちゃう子が現れるのか?」をまずは整理してみようと思って、そこから研究自体が始まってるんです。そのなかでも特に重要だと思うのが、乳幼児期や小中学生時代の日常生活と、園や学校での音楽が乖離しないということ。そこが僕の研究の一番のメインのテーマになってくる部分ですね。
ー「なぜ音楽の時間が苦手になっちゃう子が現れるのか?」について、まずはどこから研究を始めたのでしょうか?
トクマル:全部を話そうとするとすごく長くなっちゃうんですけど……そもそも明治維新が19世紀半ばころにあって、「教育」というものを国が始めたときに何が起きたのかをまず明確にしようと思いました。日本の音楽教育というか、もっと大きな枠でくくると「芸術教育」ですね。
|
|
ーその7つというのは?
トクマル:模倣、創造、共有、発見、経験、環境設定、適合です。
「環境設定」というのは、カメラマンの人だったらカメラを買う、フィルムを現像する場所をつくる、音楽の授業で言えば、音楽室をつくることも環境設定の一つです。
「適合」に関しては「自分なり」という言葉がキーワードになってくるんですけど、「自由に絵を描いてください」と言われたときに、適当に描いたものと、「いいのができたな」と思ってできたものとは、同じ「創造」だとしても、ちょっと違うものだったりしますよね。例えば、ピカソにも失敗作がいっぱいあって、それはピカソにとっては適合してない作品。適合をして、初めてそれが完成したものだと思えるわけです。
ーなるほど。
トクマル:じゃあ、何で僕がこうやって分類したのかというと、例えば、「お花の絵を描いてみよう」という時間があったとして、できたものを見て保育者たちは「上手に描けたね」とか「ユニークなのができたね」とか、いろんな言い方をしたり、評価をしたりするわけですけど、「お花の絵を描いてみよう」という言葉が、子どもたちに何を求めているのかという問題になってくるんです。
これが「模倣」として技術を学ぶ時間であれば、保育者はその技術の面白さや魅力を伝えられるようにしたいですよね。。技術力には差も出てくるので「もうやりたくない」につながらないよう留意も必要です。一方で、もしこれが「自由に表現してみよう」という意味の時間なのであれば、「上手に描けたね」という声かけではディスコミュニケーションになってしまうような、多様な「創造」の絵が生まれてきます。
さらに、自由に描く時間なのに「〇〇ちゃんの絵は特にすごいね!」と褒め称える場合、近くで見ていた子は「あれ? 自分の絵はダメなのか」という残念な気持ちになってしまうこともあります。そこで「じゃあ次はもっとこうしよう!」と思えるならいいのですが、なかなか難しい。いいものが描けても描けなくても、描くことに対して苦手意識が芽生えてしまうような状況はできる限り避けたい。そこで「適合」という考え方が重要になってきます。
ー芸術という大枠のなかの何を目的としているのか明確にする必要があると。
トクマル:リコーダーで言えば、「この音符通りに正確に吹きましょう」というのは模倣の時間であり、技術習得の時間でもあるんですね。カメラで言えば、「フォーカスを合わせる」ということがそう。「これができればより良くなる」というのがわかったり、「逆にこれを外れることで、面白いものができるかもしれない」というようなことが明確じゃないと、自分はなんのためにこれをやっているのかがわからなくて、「つまらない」とか「苦手」と感じてしまうと思うんです。
ー小学校の高学年から芽生えた音楽の授業に対する違和感は、中・高校生になっても変わらずでしたか?
トクマル:そうですね。僕は音楽の教科書自体はすごく大好きだったんですよ。特に最近の教科書はめちゃくちゃよくできていて、今日一応持ってきたんですけど。
一表紙からしてだいぶ変化していますね……。
トクマル:ここに載っている曲たちもすごく大好きな曲がいっぱいあって、教科書自体に文句はないというか、やっぱり大事なのは授業のやり方で、今度は「芸術教育」の「教育」のほうを考えなきゃいけない。
ラーニングモデルとして考えると、「教育」は大きく二つに分けられて、系統主義的な教育と、経験主義的な教育があるわけです。前者は系統立てて学ばせていく、段階を経てやりましょうという考え方。
技術習得も段階があって、例えば、子どもにヴァイオリンを渡してもすぐに曲を弾けるようにはならないですよね。小学校の算数で言えば、足し算、引き算、掛け算というように、段階を経てやっていくのが系統主義。「何年生はこれをやりましょう」というのが決まっていて、チョーク&トークでその学問の成果みたいなものを教えていく作業ですね。「これを覚えましょう、テストに出るから」というやつ。これによって教育の平均レベルが上がるという考え方です。
ー経験主義的な教育は?
トクマル:いまで言う体験学習、総合的な学習の時間、アクティブラーニングみたいな、先生から教えていくんじゃなくて、経験から得ていく、みんなで話し合いながら学んでいく、というものですね。自分の興味関心があるものを実体験から学んでいく。それは将来のための学びというよりも、いま生きるなかで自然に学ぶイメージです。ただ、これだけだと自分が興味のあるものにしか行かないから、将来もしかしたら役立つはずだったものが学べていないかもしれない、という反論も出てきます。
でも系統主義にも問題はあって、子どもの経験に対して過剰な先回り教育をしてしまう可能性がある。「連立方程式とか微分積分はいつ使うんですか?」みたいな、実際は使えるものなんですけど……要は無意識的に、機械的に学ばせていく面が強くなってしまう。なんだかよくわからないけど学べと言われて、テストがあるからそれをやるしかない。勉強自体にゲーム的な魅力を感じる子は楽しくできるんですけど、ほとんどの場合が生きることと乖離を感じてしまうから、興味を失っていく。
それぞれにいい面と悪い面があるから、どちらも扱いましょうというのがいまの教育界の考え方ではあるんですけど、現時点ではやっぱり系統的な学びのほうが義務教育課程では強いんですよね。どうしても自分の経験と乖離した授業が多くなってしまうので、難しさはあると思います。「なんでリコーダーを習うの?」という疑問が出てくるのも当然だと思います。僕はそこでリコーダーの良さを熱弁できる先生が増えたら嬉しいわけですけど(笑)。
ートクマルさんが現在の音楽性を形成する上で、一般的には子どもの音楽ともとらえられるトイミュージックに傾倒したことと、保育の研究とは関連があると思いますか?
トクマル:僕は子どものころからおもちゃ楽器が大好きというか、そもそもおもちゃが大好きだったんです。例えば、ヴァイオリンは絶対に壊しちゃいけないけど、おもちゃの楽器はなんなら壊れてもいい、というか壊れてしまうわけですよね。分解しやすいっていうのもあるし、使い方も規定されていないから、要するに遊びやすいわけです。そこが大好きだったんですよね。
ー生活のなかにあるもので音を鳴らしてみるトイミュージックは生活と乖離していない音楽だと言えるし、割り当てられた楽器を演奏するのではなく、自分で「これ面白い音が鳴るかも」っていう、ある種の能動性が鍛えられる音楽ジャンルでもあるなって。
トクマル:そういう面はあると思います。この話は提示する側の知識にも関わってくるんですけど、「世の中にはこういう不思議な音楽があるよ」「この音楽にはこんな面白さがあるよ」という可能性を提示できることが重要だと思っていて。
さっき見せた小学校の教科書にもいろんな面白い音楽が載ってるんですよ。例えば、スティーヴ・ライヒ(※1)の“クラッピングミュージック”が載っていて、「ずれの音楽を楽しみましょう」みたいなことが書いてあったり、「ジョン・ケージ(※2)の無音の音楽というのがあります。周りの音をよく聴いてみたら何が聴こえる? もっといろんなものが音楽に聴こえてくるかも。音楽ってなんだろう?」みたいなことができるような内容があったりするんです。でもじゃあ音楽の先生たちがみんなジョン・ケージやライヒを理解してるかというと、それはなかなか難しい。
ーそこは個人の資質にも関わってくる。
トクマル:日本の音楽の教科書は民謡に関してもやばくて、民謡マニアじゃないとわからないような民謡を紹介してたりもするんですね。だから、教科書自体は子どもの興味を広げる可能性を秘めたものだと思うんです。
そう考えると、まずは教える側が1回立ち止まって、自分に立ち返らなきゃいけない。「どんな教育モデルが理想的なのか」という話をしたときに、画一的な唯一の正解はないんですよね。「どうすればよい芸術が生まれるのか?」という問いに対して、画一的なマニュアルはないじゃないですか。僕の大好きなThe Shaggsとか、ああいうバンドはどうやって生まれたんですか? って、誰も答えられる人はいないし、あれを教育で育てるなんて不可能だし。なので、ああいうものをどう生むかではなくて、あの面白さを僕たちが認識できるようになる、そっちのほうが重要だと僕は思います。
だから、良き教育の姿というのは動的に考える必要があるというか、教育の変容性を認めることが重要で、いま自分たちの日常ではどんなことが起きていて、そこにいる先生自身と子どもたちは何に興味関心があるのかを考える。それを前提に、もう一度教科書をバーっと見て、もっとほかのやり方もあるんじゃないかと、それをみんなで考えてみるところからスタートする必要があると思います。
ー芸術の分類として「適合」の話がありましたけど、子どもと適合するのもそうだし、先生の側も適合が大事だという側面があるかもしれないですね。
トクマル:そうですね。例えば、先生がもしアニメがすごく好きで、アニソンも詳しかったとしたら、アニソンに含まれる過去の音楽の蓄積を紐解いて、もしかしたらそれが民謡やクラシック音楽とつながるかもしれないじゃないですか。そう考えると経験主義的な側面というか、興味関心からだんだんとつなげていくやり方のほうが、音楽は割と教えやすいというか、自分と乖離しない教育のあり方になっていく気がするんですよね。
ー今年8年ぶりとなる新作『Song Symbiosis』がリリースされていますが、保育の研究とご自身の作品との関連についてもおうかがいしたいです。
トクマル:保育の研究を始めて、自分の音楽はそもそもどういうものなのかを考えたときに、僕は日本の教育の影響を受けて音楽をつくってるんだということに気づいて、そこから歴史を調べるようになったんです。
そうすると、ここまで「芸術」と「教育」について話しましたけど、もう一つの「芸術教育」についても考える必要がある。芸術教育をなぜ取り入れるのかという話になると、国としては2つの視点があって、1つは「芸術のための芸術教育」。芸大で絵を勉強するとか、音楽教室でクラシックのピアノを学ぶとか、その芸術ジャンルにおける教育のメソッドを使って学んでいく。
もう1つが「芸術を通した芸術教育」。芸術教育によって得られるメリットはいっぱいあって、例えば、整列させるために音楽が重要、国の言語をまとめるためにも音楽が有用、みたいなことですね。日本の芸術教育はこの二つを同時にやってきたんです。
ー明治維新以降ということですよね。
トクマル:そうですね。明治維新のときは特に徳育思想が強いので、国民を育てるための芸術教育に振り切っていて、そのときに使われた音楽が西洋の童謡だったんです。
明治時代からそういう音楽教育が始まって、時代を経て、いまみたいなかたちになってるんですけど、僕らが音楽で感動する仕組みもなんならここで形成されている。僕が『Song Symbiosis』をつくるときに考えていたのもそういうことで、“Autumn Bells”はその移り変わりを描いているんですね。例えば、前半にはうっすら日本の伝統的なわらべうた、“かごめかごめ”、“おおなみこなみ”、“なべなべそこぬけ” 、”あぶくたった”のメロディーを入れていて、その間に入ってるのが琵琶で、後半にうっすら入ってくるのが“風車”という曲なんですけど、これは音楽教育のためにつくられた最初の唱歌の一つなんです。
この曲は雅楽の人たちが西洋の音楽の構成を取り入れつつ、西洋の音階を使わずに日本人なりにやってみようと試行錯誤してつくった曲で。“風車”というタイトルもフレーベル(※)の教育理論から取ってきて、日本人ならではのものをつくるべくつくられた曲なんです。
ーなるほど。
トクマル:ただ、明治維新でやりたかったことは国をもっと西洋化することで、そのために和洋折衷をしていきましょうと。“ちょうちょ”もそれでできた歌で、メロディーはドイツの童謡なんですね。それを伊沢修二という人がアメリカで勉強して、歌詞は日本のわらべうたを基盤にして、日本の音楽教育に取り入れましょう、となった。
そうやって和洋折衷してつくられた唱歌はいまも音楽の教科書にいっぱい残っていて、“ふるさと”も日本の心みたいな感じで語られる曲ですけど、実際のメロディーはめっちゃ西洋音階だったりするんです。僕らが歌ったり聴いたりしている音楽の根本にはこういう和洋折衷の考え方があって、今のJ-POPの大元にもなってるんです。
ー“Autumn Bells”はそんな日本の音楽の変遷を描いていると。
トクマル:なくなってしまった日本音楽の儚さみたいなことですね。当時の教科書には日本の民謡とか、歌舞伎で使われてたような音楽は一切排除されてるんです。でもその後にそういった日本古来の音楽が再評価されて、今では日本の民謡も必ず教科書に載ってるんですけど、ときすでに遅しというか、民謡のことをちゃんと教えられる人がいなくなってしまった。
だから現時点では生活とのつながりが強い音楽はむしろ和洋折衷のもので、無理して伝統音楽を教えるほうが乖離が起きてしまうんです。 いま中学校では和楽器が必修になっていて、 箏か尺八か三味線などを選ぶんですけど、どれも素晴らしい楽器なので本当に大好きになってくれたら嬉しいんですけど。
ートクマルさんは『ちいかわ』だったり、ちょっと前だと『ニャンちゅう』とか、子どもと接点のある番組やキャラクターの音楽をつくる機会もありますが、そういったときに意識することはありますか?
トクマル:やっぱり僕の研究のテーマは「乖離しない」ということが重要だと思ってるんです。『ちいかわ』の“ひとりごつ”という曲は、ヨナ抜き音階(※)以外使ってないんですよね。ヨナ抜き音階はまさに和洋折衷で生まれたもので、僕らはそれを大切にしてきて、それはもう日常に溶け込んでいるので、それを使うことで『ちいかわ』の世界と僕らの世界が乖離しない。ほかの曲は、そこから少し外れて、ずれが生じていくイメージですね。
ーでは最後に改めて、今後の日本の音楽教育・芸術教育がどのようにアップデートされていくべきか、トクマルさんの考えを聞かせてください。
トクマル:今日ここまでお話しさせてもらったように、 芸術教育というものを少しずつ理解していくと、じゃあどういう教育を私たちはしたいのか、もしくはされたいのかがだんだん1人1人に見えてくると思うんです。
自分たちの音楽の時間をつくっていくことができれば、「教科書をそのままやる」ということにはならないし、逆に「教科書の良さ」に気付くこともある。だから「どうアップデートされていくべきか」という問いに対しての答えも、唯一の正解はないので、自分たちで探しにいくことが重要だと思っているんです。
教育というよりも、僕たちが自分の思う芸術とどう生きていきたいのか、という視点ですかね。芸術教育というのは生きることについての話だと僕は思ってるんです。分類して、歴史を確認して、自分がやっている教育とか自分がやろうとしている教育、自分がやってきた教育がどういうものかを確認して、これまでの音楽の素晴らしさだったり、これからの音楽の可能性を語り合う。要するに……もっと語りたくない? っていう話ですよね(笑)。
そこにようやくたどり着く。どうせ人間はたぶんこれからも音楽とずっと暮らしていくんだし、そういう話ができたほうが楽しいですよっていう、そこに落ち着きたいんですよね。
ーアルバムのタイトルは『Song Symbiosis』=「うた共生」だったわけで、これからも人間はうたと、音楽と共に生きていくのだから、その素晴らしさを語り合うことが重要だと。
トクマル:そうですね。その視点があれば、「ただ音楽の教科書だけを教えればいい」「保育で有名な曲だからやる」という発想にはならないはずなんですよね。