西山秀二インタビュー(前編)
1990年代から2000年代初頭にかけて、セ・リーグの捕手は古田敦也(ヤクルト)の独壇場だった。しかしそこに割って入り、ベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ2回獲得したのが西山秀二氏だ。プロ2年目の突然のトレード、そしてこれまで14人しかいない捕手として20年の現役生活。波乱のプロ野球人生を振り返ってもらった。
【プロ2年目にまさかのトレード】
── 高校時代、将来はプロ野球選手になるか、プロレスラーになるか迷っていたと聞きました。
西山 子どもの頃からプロレスが大好きで......。野球をしていましたが、「プロレスラーになりたい」という気持ちもありました。アントニオ猪木に夢中になり、長州力が言った藤波辰巳への"かませ犬発言" も印象に残っています。
── 進学した上宮高校は、多くのプロ野球選手を輩出しています。
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西山 2つ上に光山英和さん(近鉄ほか)、1年上に笘篠賢治さん(ヤクルトほか)がいました。元木大介(巨人)、種田仁(中日ほか)は4年下ですね。最近は共学になり、ストリートダンス部が有名だそうです。
── 1985年にドラフト4位で南海(現・ソフトバンク)に指名されプロ入りしますが、2年目に広島にトレード移籍しました。
西山 2年目のトレードということで驚きましたが、チーム事情もあったのでしょう。それに当時の関西の電鉄系の3球団(南海、阪急、近鉄)の経営は、どこも大変だったと思います。
── 当時の南海の選手への待遇はどうでしたか。
西山 南海の本拠地・大阪球場の観客はガラガラで、寮やロッカーも古めかしかったですね。試合当日は球団から800円の食券をもらい、選手レストランで食べるのですが、足が出た分は自腹で、給料からしっかり天引きされていました(笑)。
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── 広島も市民球団で、セ・リーグではつつましやかだと言われていましが......。
西山 南海の多くの選手は古い国産車に乗っていましたが、広島はベンツ、ポルシェといった輸入車の選手が多く「これぞプロ野球選手や!」と思いましたね。球場もかなり観客が入っていました。だから、正直トレードはうれしかったです。
── 当時捕手のライバルは、南海が岩木哲さん、吉田博之さん、香川伸行さん、広島が達川光男さん、山中潔さん、植田幸弘さんでした。
西山 当時、ヒジを痛めていたのと、まあまあ足が速かったこともあって、南海の二軍では「1番・ショート」で試合に出ていました。それで移籍後しばらくしてから、「捕手に戻らないか」と打診されました。その時に上宮の大先輩で、当時阪神のコーチだった一枝修平さんに相談したところ、「捕手はなかなかやれないポジションだよ」とアドバイスされ、キャッチャーでやっていこうと決心しました。
── プロ野球選手として自信めいたものをつかんだのはいつころですか?
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西山 プロ6年目、移籍5年目の1991年、初めて優勝を経験しました。僕は3番手捕手でベンチ入りし、左投手に強かったので代打や、たまにスタメン出場でもさせてもらいました。西武との日本シリーズでも、第1戦で「6番・ライト」、第5戦で「6番・サード」でスタメン出場しました。でも無我夢中で、自信がついたとか、そういう感覚はなかったです。
【捕手の礎を築いてくれた人物】
── 達川さんからレギュラーの座を奪ったきっかけは?
西山 92年に「捕手はしんどいですから、三塁かライトでも構いません」と首脳陣に言ったのですが、開幕戦で達川さんがケガをして、急遽、マスクを被ることになりました。結局、79試合に出場したのですが、その年限りで達川さんは現役を引退されました。翌年は110試合ほぼ捕手で出場し、ようやくレギュラーの座をつかめた感じです。
── 捕手のテクニックやリードは、達川さんを見て学んだのですか。
西山 それもありますが、南海時代の柴田猛二軍監督が捕手出身だったので、"リードのイロハ"を教わりました。今でも覚えているのが、「ヒットで出た走者を大事にする監督と、四球で出た走者を大事にする監督に分かれている。前者は、ヒットは続かないものだと考えているからサインを出して動いてくる。逆に後者は、四球は得点につながると考えているからサインは出さずにじっとしている」という話です。監督によってタイプが分かれるので、それもリードに生かしました。
── 目標とする捕手は誰だったのですか?
西山 野村克也さんや森祇晶さんの本もかなり読んで勉強しました。でもやはり、のちに2004年アテネ五輪のチーフスコアラーも務めたほど、相手の分析に長けていた柴田さんの教えが僕のベースでした。僕が中日コーチになってからも、電話で助言をいただきました。
── 広島時代、相手には村田真一さん(巨人)、古田敦也さん(ヤクルト)、中村武志さん(中日ほか)、矢野燿大(阪神ほか)、谷繁元信さん(横浜ほか)、錚々たる捕手がいました。
西山 打たれれば、結果論で捕手は周囲から何かしら批判を受けるものです。ベンチを相手に野球をしている時期もありました。僕は94年と96年にベストナインとゴールデングラブ賞を受賞したのですが、捕手として確固たる自信がついたのは、96年の夏頃からです。そして、そこからあらためて勉強し直し、捕手が何たるかを理解していったのです。
── "西山流配球論"とはどういうものでしょうか。
西山 僕の場合は、相手打者が打席に立った時に「最終的にこうやって打ちとる」というイメージがあります。そこに向けて、初球をどのようにして入って、カウントを整え、最後はこの球で勝負するといったように組み立ていきます。
── 投手のウイニングショットを想定して、配球を組み立てていくのですね。
西山 「ストライクになったらこうすればいい」「ボールになればあの球でいこう」といったように、いくつかのパターンを想定しておきます。たとえば、カウント1ボール2ストライクからの勝負球がボールになっても、もう1球ボール球で様子を見られる。「困ったらアウトロー」でいいということはない。フルカウントになったら「手詰まりだろう」という人がいますが、捕手は手詰まりになることはない。もっとわかりやすく言えば、二死満塁でフルカウントになると、野手のなかには「ど真ん中で勝負しろ」と言いますが、そこ以外の球を投げさせてこそ捕手のリードだと思います。もちろん、打者を観察し、反応を見て、時には心理を洞察することもあります。
── 93年からの5年間は、盗塁阻止率も4割前後と高かったですね。
西山 古田さんの盗塁阻止率が突出していましたが、その5年間については自分で言うのもなんですが、よかったです。そんなに強肩というわけではなかったですが、捕球してから送球するまでが早かったと自負しています。
【歴代広島の捕手で唯一の記録】
── 96年は、打撃ベストテン8位の打率.314をマークしました。広島の歴代捕手で、規定打席到達で3割を残したのは、いまだ西山さんだけです。
西山 山本一義コーチが「規定打席到達で打率3割を一度やってみろ。世の中のおまえを見る目が変わる」と励ましてくれました。最後の最後、三村敏之監督に「観客への顔見せで代打に行け!」と言われ打席に立ったのですが、凡打に終わって打率が下がりました。あれがなければ松井秀喜(当時、巨人)より上だったのに......悔しかったですね(笑)。
── 西山さんは左足を上げたあと、ひと握り短く持ったバットを「小さな円を描くようにスイングする」独特の打ち方でした。
西山 入団した時、(高校野球の)金属バットから(プロの)木製バットになって、本塁打を量産するのは難しいと感じました。とにかく芯で捉えることを第一に考えていたのですが、詰まったら痛いし、バットも折れる。詰まりそうな瞬間、バットのヘッドをずらすことを覚えたんです。それが右打ちの始まりです。いわゆる「左ヒジを抜く」感覚ですね。基本はストレート待ちで、変化球は拾って打つタイプ。でも、たまにヤマを張って打つ時もありました。
── 96年の広島打線は野村謙二郎さん、前田智徳さん、緒方孝市さん、江藤智さん、金本知憲さんなど生え抜き選手を軸に、西山さん、さらにこの年から加入したルイス・ロペスさんなどチーム打率.281の超強力打線で、「ビッグレッドマシン」と呼ばれていました。
西山 3割打者が5人もいるなど、超強力打線でした。前半戦から順調に勝ちを重ねていったのですが、江藤が右目に打球を当てて戦線離脱。前年15勝を挙げたロビンソン・チェコが4勝に終わるなど、巨人に最大11.5ゲーム差を逆転される「メークドラマ」を許してしまいました。残念ですし、今でも悔しいです。
つづく>>
西山秀二(にしやま・しゅうじ)/1967年7月7日、大阪府出身。上宮高から85年のドラフトで南海から4位指名を受け入団。プロ2年目の87年シーズン途中、トレードで広島に移籍。広島では94年、96年にベストナイン、ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得。リーグを代表する捕手として活躍。2004年オフに巨人に移籍し、05年の1年間プレーし現役を引退した。引退後は巨人、中日のコーチを歴任。現在は評論家として活躍している