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今年もやってきた、女性から意中の人へ思いが伝えられる一大イベント「バレンタインデー」。いまでは本命チョコや義理チョコだけでなく、自分へのご褒美にチョコを購入したり、“逆チョコ”“友チョコ”など多様化しているが、昭和という時代は、贈られるチョコの数が男性アイドルの人気を測る1つの指標になっていた。届けられるチョコの数がケタ違いのスターも多数。そんな、アイドルたちのバレンタインデーにまつわる仰天エピソードを振り返ってみよう。
■“4トントラック36台分”のチョコをもらった「光GENJI」
バレンタインシーズンの“チョコパニック”といえば、やはり旧ジャニーズ事務所(現・SMILE-UP.)。80年代前半に「たのきんトリオ」(田原俊彦、野村義男、近藤真彦)がブレイクしたころから、バレンタインデーには事務所にチョコが届けられるように。その後、80年代後半、人気絶頂期だった「光GENJI」には、ある年なんと4トントラックで36台分のチョコが寄せられたという。
ちなみに4トントラック1台分は、2LDKのマンションに住んでいる家族3人が引っ越しのときに必要となる容積だ……。
「光GENJIの元メンバーだった諸星和己(54)は、『日本武道館にチョコを全部運ぶと、1階が全部チョコ。2階の座席から手を伸ばすと1階のチョコがとれるの』と当時の取材で語っていました。当時は、“トラック○台分のチョコがジャニーズ事務所に到着”という一報が毎年の風物詩に。送られたもののうち、手作りチョコ以外は児童福祉施設や海外の恵まれない子供たちにも送られていたようです」(芸能ライター)
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「光GENJI」は‘95年に解散。その後、SMAP、TOKIO、V6など人気アイドルを輩出したジャニーズ事務所には、もっとも多い年で4トントラック50台分(150万個)のチョコが殺到したことが。トラック50台分のチョコを、1個200円で換算すると、総額3億円に!
それでも、単体のアイドルグループとしては、「光GENJI」のチョコ伝説は群を抜いているといえるだろう。
「95年に発生した阪神淡路大震災をきっかけに、《チョコを募金に》という流れが。また、送られてくるチョコのなかには、人気を妬んだファンからカミソリの刃や髪の毛入りの手作りチョコが届くなどの問題もあり、やがて旧ジャニーズ事務所はファンレター以外のプレゼントが禁止されることになりました。安全管理上、チョコもすべて焼却処分するという対応をとることが発表され、ジャニーズ事務所のチョコパニックは沈静化しました」(前出、芸能ライター)
■80年代でもっともチョコをもらったバンドは?
「チョコの数=ファンの数」といわれた80年代。86年に「チョコレート所得番付」なる企画を展開したのは『週刊平凡』(マガジンハウス)だ。編集部がタレント事務所にチョコの数を聞き取りの上、ランキングを作成。なんと、浩宮さま(今上天皇)がもらったチョコについて宮内庁に取材を試みる熱の入れよう。
そんな86年の「チョコレート番付」の第3位は「C-C-B」で6000個! 85年に3枚目のシングル「Romanticが止まらない」が、TBSドラマ『毎度おさわがせします』の主題歌になり、大ブレイク。当時5人のメンバーは国民的バンドとして活躍した。
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2位につけたのが、ビートたけしで1万個! 80年代初頭の漫才ブームで開花し、人気番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の大ヒットの立役者は、85年のレギュラー番組は8本、そのすべてで高視聴率を記録。人気もチョコの数も絶頂だったといえよう。
そして、86年のチョコレート所得番付で第1位に輝いたのがチェッカーズ。83年に『ギザギザハートの子守唄』でデビュー後、アイドル的人気を博し、85年にはシングル『ジュリアに傷心』でオリコンチャート年間1位になるなど、もっともノリにのっていた時期のバレンタイン。もらったチョコの数は2万1千個を記録した。
現在は、どの芸能事務所も、チョコを含めた食品などの「贈り物」は、安全管理上、処分することを通知している。昭和のように、“推し活”としてバレンタインにチョコを送るイベントはなくなっているが、かつてはチョコの数が人気のバロメーターだった時代もたしかにあったのだ。
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