「僕は大家族で育ったとも、結婚して子供がいるとも思われてないんですよ」
昔も今も、勝俣州和(59)は短パン姿で「シャーッ!」と叫んでいる。そして来月には還暦を迎えるという。
人気バラエティ番組『水曜日のダウンタウン』(TBS系)で「ファン0人説」を提唱されながらも37年にわたって、浮き沈みの激しい芸能界で生き残っている秘訣とは─―。
まず勝俣が師と仰ぐ萩本欽一(83)に「ファン0人説」について聞くと、こんな見解を述べた。
「そんなことないと思う。アイツは番組でほかの人を生かす役割だから目立たないんじゃない? 冠番組もないしね。逆に言うと、誰にも嫌われてないでしょ。……ああ、『ファン0人説』ってギャグなのか。真面目に語って損したよ(笑)」
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欽ちゃん、タモリ(79)、ビートたけし(78)、明石家さんま(69)、笑福亭鶴瓶(73)、所ジョージ(70)、和田アキ子(74)、神田正輝(74)、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン……勝俣ほど、芸能界の大御所と絡んでいるタレントはほかに見当たらない。3月に還暦を迎える今も恒常的にテレビに出演し、昨今は萩本の舞台に毎月のように登場している。
「勝俣って、私のなかで別格なんですよ。ゴールデンタイムで、いつも私のことを面白おかしく話していた。でも、あるとき、教育テレビ(現・Eテレ)を見ていたら、真面目に『欽ちゃんのおかげで』と語っていた。数字のいい番組ではギャグを言って、誰も見てないような番組で感謝を述べる。だから、本物だと思った。普通、逆なんですよ。去年、小劇場でライブを始めたときも呼んでもないのに客席に座っている。しかも、2回連続ですよ。『それなら出ればよい』と言って、舞台に上がるようになった」
勝俣はライブだけでなく、『全日本仮装大賞』(日本テレビ系)にも一般客に交じって観覧に訪れている。なぜか。
「僕は芸能人として売れたいというより、この人の近くにずっといたいと思った。そうすれば、萩本欽一のような人間になれると感じたんです」
欽ちゃんは「この舞台で勝俣をどう生かすと面白くなるか」と考え、ふだんは口を挟まないムービーカメラマンが出演者に突っ込むという手法を編み出した。すると、客席は爆笑に包まれた。
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「アイツ外さないよな。カメラさんも言いやすいもんだから、どんどん突っ込む。勝俣は汗びっしょりになってたよ。前のお客さんが『飛び散る汗をよけるのが大変だった』と言うくらい(笑)。なんでも一生懸命やるし、人とのつながりもうまく作る。そんな人間力が欽ちゃんに新しいネタを考えさせた。勝俣って、ある種のプロデューサーだよ」
勝俣州和は大御所に動かされているように見えながら、実は彼らを動かす力を持っている──。
■「11人の大家族」勝俣家祖母の教えは「陰口をたたいたら、バチが当たる」
その原点は幼少期にある。いざなぎ景気の始まった1965年、勝俣家の長男として生誕。年を追うごとに妹や弟が増え、7人きょうだいになり、祖父母と両親を含め、11人の大家族になった。両親は衣料販売店を経営していたため、昼間は祖父母が面倒を見ていた。
「ばあちゃんから、いろんなことを教わりましたね。近所で陰口で盛り上がってるおばさんたちがいると、『まねしちゃダメだよ。バチが当たるから』と注意された。子供ながらに『バチ』という言葉がすごく怖かった。神様が見てないところでも、悪事を働いたらケガや病気をするんだ……って」
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“自営業の大家族”ゆえの悩みもあった。あるとき、食卓で景気の浮き沈みを実感した。
「育ち盛りの7人の子供がいるのに、ご飯と湯豆腐だけの日が続いたんです。最初は湯豆腐のなかに鶏肉とねぎが入っているけど、そのうち鶏肉が消え、次にねぎがなくなり、豆腐だけになった(笑)」
6人の妹や弟が「友達の家はもっといいものを食べている」と疑問を投げかけた。すると、母親は「ほかの家庭を羨んじゃダメよ。目の前にあることを幸せと思わなくちゃ」と教えてくれた。
「お中元でカルピスが送られてきても、7人で分けなきゃいけないから、めっちゃ薄くなるんですよ。冷凍庫で凍らしてシャーベットにしたり、先に原液を口に入れてから水を飲んだり、各自で濃い味を楽しめる方法を考えていました。
ケーキがいちばん困りましたね。親父は『7等分にしとけ』と言うけど、奇数には切りづらい。だから、誕生日の人は2つ食べられるというルールにしました。そしたら、『デカした!』と褒められました」
与えられた場をどんな知恵で乗り切るか。のちに、バラエティで活躍できる素地は幼少期から育まれていた。
だが、芸能界に興味はなかった。小学6年のときの担任に憧れ、国語教師を目指し、その先生と同じ日本大学文理学部に進学した。
「4年の春、職員室に行って『先生になれますか』と聞いたら、『成績上位の3人しかなれない』と言われた。先生って、人間性で決まると思っていた。親父に『もう授業料払わなくていい。仕送りもやめて』とすぐ電話しました」
なぜ、自主退学を即断即決できたのか。
「先生になれないなら、大学に通う1年がもったいない。その代わり、卒業した人以上にお金を稼ぐと決意しました」
■初対面の萩本の前で「シャーッ!」と気合を…「私の探してる理想形」(萩本)
潔い決断が勝俣の運命を変える。弁当店の店長として働きながら、根性をつける目的で「劇男一世風靡」に入門。朝5時から仕事、午後は稽古に明け暮れた。そんな生活が2年ほど続き、事務所から「欽ちゃんの新番組のオーディションに行ってきて」と指示された。
「柳葉(敏郎)さんが『欽ドン!』(フジテレビ系)の良川先生役でブレークしていたので、『同じ劇団にいいヤツいない?』と声が掛かり、僕と中野英雄さんが受けました」
初対面の萩本に「なんかできるの?」と聞かれた勝俣は、「はい!」と大声を出して立ち上がった。「じゃあ、ちょっとやってくれる?」と言われると、「シャーッ! シャーッ!」と気合を入れた。
「叫ぶだけで、何もやらないんだよ(笑)。そのときね、私の探してる理想形だと思った。自分のしたいネタを持っていると、言うこと聞かないんですよ。元気さと素直さがあれば十分」(萩本)
勝俣は萩本のもとで週6日、1日12時間を超す猛稽古を経て、’88年春『欽きらリン530!!』(日本テレビ系)にレギュラー出演。秋にはCHA-CHAの一員として、歌手デビューを果たす。
「田舎に帰って弁当屋を開こうと考えていた人間が、いきなりアイドルですからね。めっちゃ楽しかったですよ。超モテましたもん。テレビ局に入るとき、何十通も手紙をもらうし、毎日ファンの作ったお弁当を食べていましたから」
雑誌に「好きなもの:お酒」「欲しいもの:自転車」と載ると、自宅を知るファンが届けてくれた。
「陶器ボトルの『ナポレオン』とかガンガン送られてきて、アパート中が酒だらけになりました。自転車も5台送られてきた。『勝俣州和』と名前を書いたら、次の日に全て盗まれました。たぶん、ファンのコだと思います。新たに5台来たので、今度は『嶋田源一郎』に変えたら、大丈夫でした。天龍源一郎の本名は効き目がありましたね(笑)」
女性にチヤホヤされても、勝俣は次の戦略を冷静に練っていた。
「ファンは優しいから、何を言っても笑ってくれる。でも、勘違いしちゃいけない。活動中から、何人ものコに『彼氏できたんで卒業します』と伝えられたし、解散したら彼女たちはいなくなる。だから、コンサートのときも男にウケるような話ばかりしていた。そしたら、どんどんファンが減っていきました。それが『0人説』につながったんじゃないですか(笑)」
■CHA-CHA解散時にバカな勘違いを「俳優を極めようと思ったら危なかった」
勝俣は昼帯の『欽ちゃんのどこまで笑うの!?』(テレビ朝日系)、夕方帯の『欽きらリン530!!』のレギュラーだった。昼の番組が終わると、萩本と一緒に車で移動した。その際、「聞いちゃダメ」と若手にくぎを刺す師匠の掟を破り、数々の質問を投げ掛けていた。
「いろんな人から聞けば聞くほど、萩本欽一がテレビの元を作っている。志村けんさんは若手時代、テレビ局にあるコント55号の台本を持ち帰り毎週読んで勉強していた。とんねるずが売れ出したときも、フジテレビですれ違った志村さんが『萩本欽一を見たほうがいい』とアドバイスしたらしいんですよ。『乱暴なイジり方だけじゃダメだよ。突っ込みの極意が萩本欽一にあるよ』って。だから、僕はいろいろな質問をしていました」
萩本は「聞いちゃダメ」の真意をこう明かす。
「自分の頭で考えなきゃ、成長しないんですよ。ただ、理由はもう1つあるね。『何でも聞きに来ていいよ』と言ったら大勢来るでしょ。そんなに時間は取れない。だから『聞いちゃダメ』と壁を作っていたの。それを飛び越えてくる本気のヤツには教えるんですよ」
歌、芝居、バラエティと何でも対応できたゆえに、勝俣は道に迷いそうになる。CHA-CHA解散発表時、〈芝居をベースに10年は突っ走るだけ〉(『明星』’91年12月号)と目標を語っていた。
「いちばんバカなときですね。俳優の仕事は来ませんでした。今振り返ると、非常にラッキーでしたね。僕は高校では『モッくんに似ている』ともてはやされて4校にファンクラブがあった。でも本木雅弘さんと共演したら、全然違っていた。冷静に見ると僕って全然カッコよくないんですよ。(大型犬の)アフガン・ハウンドと見すぼらしい捨て犬ほどの差があった。勘違いして俳優を極めようと思ったら、危なかった」
お笑いに道を定めた勝俣は萩本からの指導を復唱し、著書を何冊も読み返した。そして、バラエティの依頼があると、ありったけの力を出した。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ系)でボウリング対決をしたとき、勝俣のチームが勝った。すると、とんねるずの2人が「もう1回、もう1回」と試合の無効を求めてきた。
「小さいころ、ばあちゃんに『人にお願いするときは丁寧な言葉遣いをしなさい』と教えられてきたから、『人にモノを頼む態度じゃないですよ!』と抗議した。場が凍りましたよ(笑)。そしたら、2人が膝をついて頭を下げた。プロデューサーのテリー(伊藤)さんが『面白いね?。来週も来てよ!』とレギュラーにしてくれたんです」
とんねるずの対決企画で“泣きの1回”として土下座を定着させた勝俣は、“芸能界の番長”と恐れられる和田アキ子にもひるまなかった。
’96年1月、『アッコにおまかせ!』(TBS系)の生放送でバンジージャンプに挑戦したものの高所恐怖症で跳べない。企画が持ち越された翌週、和田が「今日跳ばないとシャレにならないでしょ」と重圧をかけた。すると、勝俣は「アッコ出てこい! ぶっ飛ばしてやるから!」と言い返した。
「結局、酸欠になって跳べなかった。暴言も吐いたし、ヤバいな……と気落ちしたまま局に帰って、『すみませんでした』と土下座しました。そしたら、『おもろかったで。アッコにあんなこと言うヤツ、初めてや。来週も頼むで!』と笑ってくれたんです」
■師匠・萩本の告白「アイツは人の気持ちを読めるんですよ。察する力がある」
以降、年下の勝俣が歯に衣着せぬ発言で“ゴッド姉ちゃん”に果敢に突っ込み、和田の新たな一面が引き出されていった。
「この前、アッコさんが『勝俣はワシのことをゴリラ、ゴリラって言うのに、なんで許されるんや』と怒っていたから、『みなさんが喜んでるからです』と返しました。そしたら『……そうだな』と納得してました(笑)」
勝俣の「毒をもって毒を制する」行動は視聴者に受け入れられた。
「ばあちゃんに『陰口を言っちゃいけない』と教えられてきたから、毒のある言葉は本人の前で言おうと心掛けています。笑ってくれたら、オーケーなんだなって」
大俳優への誹謗中傷の歯止めにも一役買った。昨年、『朝だ!生です旅サラダ』(テレビ朝日系)で共演していた神田正輝が痩せ細り、ネット上で「重病説」が流れた。「ファスティング(断食)が原因」と聞いていた勝俣は「自分でコメントしちゃったほうがいいですよ」と助言し、自身のYouTubeチャンネルに出てもらった。すると、雑音は収まった。
「テレビだと、長く説明する時間を取れない。だからといって、そのままにしておくと、臆測だけが先走ってしまう。弁明にYouTubeを使ってほしいなって」
振り返れば、萩本の言うように勝俣はプロデューサーのような役割を果たしてきた。
「アイツは人の気持ちを読めるんですよ。察する力がある。それこそ『聞いちゃダメ』でね。俺にもいきなり舞台で突っ込んでくるからそれが心地いいんだよ」(萩本)
そう褒められても、勝俣は他者への感謝を口にする。
「いろいろな人に恵まれたんですよね。25歳くらいのころ『CLUB紳助』(朝日放送)というトーク番組に出たら、島田紳助さんが『お前、おもろいな。たくさんネタあんのか? ないなら、貯めろ』とアドバイスをくれたんです。それから学園祭に呼ばれても、1時間ずっとフリートークをして、受けたモノをキープしていきました」
その成果は、トーク番組『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)の最多出演記録となって表れている。数年前には、笑福亭鶴瓶が貴重な助言をしてくれた。
「飛行機で会ったとき、『ちゃんとロケに行ってるな、えらいな。スタジオにネタは落ちてないぞ。ロケは続けろ』って」
教えを忠実に守り、ロケバスでも寝ずに共演者やスタッフと会話をする。そして、勝俣には萩本の言葉が常に頭にあった。
「欽ちゃんが『一生懸命やっていれば、誰かが見ている。でも、手抜きをしても誰かが見ている』と言っていたんです。一緒の番組が終わって数年たった後、スタッフから『今も、勝俣の番組をチェックしているらしいよ』と聞いた。いいプレッシャーになりましたね」
■萩本の“遺言”――「私の弔辞は勝俣に最初に読んでほしい」
事務所や出身地など関係なく、さまざまな大御所が助言をしてくれる。常に番組を第一に考えて動くため、出演者から好かれるのか。
「誰も、僕をライバルだと思ってないんじゃないですか(笑)。周りが大手事務所という巨大空母で戦ってる芸能界に、僕はビート板一枚で出ていきました。所属が柳葉さんや木村多江さんたちの俳優事務所で、バラエティ班は1人だけなんです。逆に言うと、スタッフが使いやすかったのかもしれない。大手所属だと、ライバル会社の大御所の番組には出にくいじゃないですか。
テレビは、いちばん好きな遊び場です。仕事と思うから、疲れるんですよ。発表の場、学芸会ですから。僕にとっての仕事は、何か考えてるときかな。休みの日、家にいたら『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)などを見ながら、自分なら何を言うか頭をフル回転させています。ものすごく疲れるから、バラエティは長く見られないですね」
NHK連続テレビ小説にもトレンディドラマにも出演し、『紅白歌合戦』にも応援で出演。それでも、まだやり残したことがある。
「テレビだと、『大河ドラマ』『情熱大陸』『帯番組のメイン』の3つです。今、欽ちゃんのもとで猛特訓をしているからテレビでの言葉遣いや対応が自然と変わってるかもしれない。違う筋肉ができているんじゃないかって。近い将来、帯のメインが来る気もしています(笑)」
萩本は、今後の勝俣に何を期待するのか。
「私の弔辞は勝俣に最初に読んでほしい。葬式って暗くなるから、楽しくしてほしいの。
あと、正月に『83歳の欽ちゃん!最後の新番組 あの場所に1000人で集まろうか?』(日本テレビ系)を放送したけど、あのテレビを勝俣にあげたいね」
師匠の言葉を勝俣に伝えると、こう答えた。
「僕が先に死にたい。そして、欽ちゃんに弔辞を読んでほしい。今でも、何かに迷ったとき『萩本欽一なら、どっちを選ぶだろうな』と考えるんですよ。僕にとって、いなくなったら困る人です。番組をくれるんですか? ああ、それはないでしょうね。だって昔、『仮装大賞は勝俣にあげる』と言ってたけど、結局くれないですから」
そう笑う勝俣。60代も変わらず短パンで芸能界を駆け抜ける。
(取材・文:岡野誠)
【後編】「家族にとって最大の敵」芸能界37年の勝俣州和が元客室乗務員妻のため「やめた趣味」へ続く
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