寺尾聰、同い年の小倉智昭さんとの最後の言葉 2人きりで77歳誕生日会・プレゼント交換「なんだかうれしくて、楽しくて」

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2025年03月17日 18:01  ORICON NEWS

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小倉智昭さんのお別れ会に出席した寺尾聡
 昨年12月に亡くなったに77歳で亡くなったフリーアナウンサー・小倉智昭さんのお別れ会が17日、東京・表参道のブルーノート東京で行われた。

【写真】小倉さんからもらった誕生日プレゼントを持参した寺尾聡

 弔辞は、親交のあった寺尾聰、小倉さんが22年にわたり総合司会を務めたフジテレビ系朝の情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』で番組開始当初から共演したデーブ・スペクターが務めた。寺尾は「周りに人がいない時は『おい、小倉』『なんだよ、聰』と言う時もありました。ほかの人に見せない顔を僕には見せてくれたと思います」と振り返る。知り合ったのは40年以上前。「お互いに世間に認知されていない、簡単に言うと売れていないころで。その後、1年に1回会うか、会わないか。たまに会ってゴルフをしたり。中には10年ぐらい会わない時もありました。でもなぜかお互いに気になっていた。そういう仲でした」と明かした。

 病と懸命に闘った小倉さん。寺尾は「ここ数年あまり病状がよくないんじゃないかとも聞いていました。それで去年の5月に彼と電話で『一生に一回ぐらい2人だけで誕生祝いのメシ会でもやろうか』と。恥ずかしいですがジジイが2人で小さなプレゼントを交換し合った。彼は僕にサングラスをプレゼントしてくれました。僕は彼に『もっと金持ちになれ』と小さな財布をプレゼントしました。彼と話していると僕はなんだかうれしくて、楽しくて。彼と僕は同じ1947年5月生まれ。日にちも1週違い。僕がたまたま1週間アニキ。そんな縁もあったのかなと不思議な気もします」と話した。

 77歳が2人で「7777」となったことで「縁起が良い」と笑いあったそう。最後に会ったのは小倉さんの自宅だった。「君はベッドに横になりながら奥様に背中をさすられ、やや苦しげな顔をしていた。僕も少しだけ背中をさすった。あまり長居もできないので帰ろうと思って…。なんて言って帰ったらいいのか混乱しました。結局、右手を少し挙げて『じゃあ、またな』と。君はゆっくり僕に手のひらを見せて『うん、またな』と言ってくれました」と明かす。

 それが最後の会話になった。「周りの人に心遣いがあって優しくて頑張り屋で力強い男でした。素晴らしい友だちでした。小倉智昭くん、じゃあ、またな」と結んだ。

 閉式後には取材にも応対。寺尾は「なぜか気になるヤツだった。間10年会わなかったこともあるけど、『俺もお前のことを気になっていた』という間柄で…」と関係性を明かす。「朝の番組もやっていたので知り合いの方も多くて彼は顔も広い。それでも時間が少ない分、なかなか深くつながる友だちがいなかったのかもしれない。ちょっと変わり者の僕と馬が合った。そういうことなんだろうと思う」と語る。今、声を掛けるならと問われると「『またな』と言った通り」としみじみと口にしていた。

 小倉さんは1947年5月25日生まれ、秋田県出身。獨協大学外国語学部卒業後、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に入社し、その後、フリーアナウンサーに転向。99年4月に始まったフジテレビ朝の情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』では22年にわたりMCを務め、フジテレビの朝の顔として親しまれた。2016年に膀胱がんを公表し、18年に膀胱全摘手術を受けた。21年10月には膀胱がんが肺に転移したことを公表していた。

 お別れ会が行われたブルーノート東京は、小倉さんが足しげく通った思い出の場所。祭壇には、アコギ5本、エレキギター2本、エレキベース1本など小倉さんの愛用品が並べられ、大好きだった西武ライオンズのユニフォーム、西武時代の松坂大輔のユニフォームや、レアル・マドリードのユニフォームや、これまで取材に訪れたオリンピックの取材パス、聖火ランナーを務めた際のトーチなどか飾られていた。

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