【選抜高校野球】東洋大姫路・岡田龍生監督が振り返る46年前の記憶「1日でも長く甲子園におるぞ」の合言葉でベスト4

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2025年03月20日 07:30  webスポルティーバ

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東洋大姫路・岡田龍生インタビュー(前編)

「1番サード岡田」

 このアナウンスを思い出すと蘇ってくる風景がある。今から半世紀近く前になる1979年(昭和54年)の選抜大会だ。いかにも負けん気が強く、抑えきれないガッツが、その表情や右打席の立ち姿から伝わってきた。

 これまで取材させてもらってきた多くの高校野球監督のなかで、高校時代のプレー姿が思い浮かぶ最も古い人が東洋大姫路(兵庫)の監督、岡田龍生であり、「1番サード岡田」、その人だ。東洋大姫路がベスト4に入ったあの春、チームを引っ張ったキャプテンでもあった。

【ベスト4に近畿勢が4校】

「1番サード岡田」の記憶が、なぜそれほど強く残っているのかには理由がある。

 当時の私は小学4年の野球小僧。高校野球にもいくつかの贔屓チームができ始めていた頃で、そのひとつが1977年夏に全国制覇を果たした東洋大姫路だった。その秋には、日本一の立役者となった松本正志がドラフト1位で、私が大ファンの阪急ブレーブス(現・オリックス)に入団。

 勝手な縁を感じ、東洋大姫路を応援していたところ、3季ぶりの甲子園となった1979年選抜出場のチームに岡田がいたというわけだ。

 履正社(大阪)での監督時代にも何度かあの時の春の話を聞くことはあったが、今回は母校に復帰し、あの頃と変わらないユニフォームを着ての甲子園。岡田のなかに蘇る景色があるのだろう。このタイミングで、あらためて遠い春の思い出話を聞くたくなった。

「あの選抜はなかなかないと思うんですけど、ベスト4がすべて近畿勢だったんですよ」

 なかなかどころか、97回を迎える選抜で史上唯一のケースが1979年だった。しかもその顔ぶれは、昭和の高校野球の主役を張っていたチームがズラリ。

「浪商(大阪/現・大体大浪商)、PL学園(大阪)、箕島(和歌山)、そしてウチでしたからね。ただ選手の力量は全然違っていて、ほかの3つには大学、社会人経由を含めて、プロへ行く選手がゴロゴロいたんです。浪商には牛島和彦、香川伸行のバッテリーにサードの山本昭良、下級生にも何人かいい選手がいました。PLも法政大からドラフト1位で広島に行く小早川毅彦に、阿部慶二、山中潔。箕島には石井毅、嶋田宗彦のバッテリーに、上野敬三というショートがいた。そのなかでウチだけがそんな選手がひとりもいなかった。個人の力は、ほかの3つと比べて明らかに劣っていました」

 たしかに、投打ともそのクラスの選手がいた記憶はない。エースだった萩原健吾も、松本や、今大会のエース・阪下漣のような本格派タイプではなく、小柄な左腕。のちに関西大、大阪ガスで活躍するなかで球速も増していったそうだが、高校時代はテクニックで勝負するタイプだった。

 とはいえ、際立った選手は不在でも、選手たちの気持ちとしては、「やってやるぞ!」と高まっていたのではないか。岡田に尋ねると、「なかったですね」と苦笑いを浮かべて返してきた。

「秋の兵庫大会もダークホース的な評価で、優勝候補はたしか滝川、つづいて村工(村野工業/現・彩星工科)、報徳学園......そんな感じだったんです。それがいざ大会になると、投手も野手も調子づいて村工にコールド勝ち、決勝でも滝川に10対3で勝利し優勝。自分たちでもようわからんかったですね(笑)」

【一致団結した理由】

 近畿大会では初戦で栗東(滋賀)に勝利し、準々決勝で大阪2位の浪商に敗れるも、この時点で甲子園はほぼ確定だった。

「当時は近畿から7校(現在は6校)選ばれる時代でしたから、各県の1位校が一回勝ったら、まず当確だったんです」

 しかし振り返ると、敗れはしたが浪商戦のスコアは5対6。近畿大会を制した相手にこの結果だ。冬に力をつければ選抜では......とならなかったのか。再び聞いたが、反応は変わらなかった。

「秋は香川がケガでいなかったんですよ。でも牛島の球は速いし、バッティングもいい。選手の力がとにかく違った。そこはやっている本人たちが一番わかりますから。それに冬の間も、選抜を見越して何か特別なことをした記憶はないですし、そもそも課題がどうこうとか考えたこともなかった。

 今の僕なら一番うるさく言うところですけど、ほんまに何も考えずに言われることだけをやっていました。あの時代はどこもそうだったと思いますけど、ランニングして、うさぎ跳びをして、ノックして、怒られて、またランニング......。だから選抜前の冬も、いつもと変わらなかったですよ」

 そんなチームが、いざ選抜が始まると1つ、2つと勝ち上がり、最後はベスト4。好結果の理由を尋ねると、46年前のキャプテンでもあった岡田は「何かが変わったというよりも......」とニヤリとした表情を浮かべて言った。

「夏なら負けたらそこで終わり、3年生は解放されるじゃないですか。でも春は、負けたらそこから夏へ向けて、一段と厳しい練習が始まるわけです。だからあの時は、その厳しい練習をやる期間を少しでも短くするように、1日でも長く甲子園にいようと、みんな一致団結したんですよ。とにかく『1日でも長く甲子園におるぞ』と。だから、初戦のクジもできるだけうしろの日程を引いてこいって言われていたんです」

 岡田が引いた抽選の結果は、大会5日目の登場となった。まずはキャプテンがしっかり役割を果たし、チームはさらなる目標達成に向け、いざ甲子園の戦いに入っていったのだった。

つづく

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