
'80年代、お茶の間を沸かせたバラエティー番組でそれぞれの思いを胸にアイドルの階段を駆け上がったトリオ。高視聴率をキープする中、デビューシングルはミリオンセラーを記録。3人が振り返る、超多忙だったあのころの“裏側”。
西山浩司は結成前から「芸能人」だった?
1981年4月に放送が始まった、“欽ちゃん”こと萩本欽一のバラエティー番組『欽ドン!良い子悪い子普通の子』。番組中のキャラクターで、ヨシオこと山口良一、ワルオの西山浩司、そしてフツオの長江健次の3人が組んだイモ欽トリオは、当時、爆発的な人気を博した。
結成から4か月目には『ハイスクールララバイ』でレコードデビューし、累計160万枚のミリオンセラーを記録。番組から誕生する企画ユニットの元祖ともいえる彼らの“今だから話せる”エピソードを直撃!
山口 イモ欽トリオとして会ってから、もう44年たつんだよね……。
長江 あのとき、僕はまだ高校生で芸能界に入りたい、歌手になりたいと思っていました。『スター誕生!』のオーディションにも応募していましたし。
西山 僕は中学1年生のとき“欽ちゃんに会いたい”という思いだけで『スタ誕』のオーディションに応募して。それがきっかけで『欽ちゃんファミリー』に入れて……。
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山口 『欽ドン!』のオーディションのときは、西山くんは僕から見ればもう“テレビの人”でしたよ(笑)。
西山 確かに中学生のときから『スタ誕』に出ていて、学校でもそのときからキャーキャー言われてたからね(笑)。
山口 オーディションの後、“西山さんと山口さん、スタジオに来てください”とスタッフに声をかけられて。西山くんの後について階段を上っていく途中に、踊り場で急に西山くんが振り返って“これから一緒にやりますね。よろしく!”って彼が握手してきたんです。まだ決まったと聞いてもないうちですよ。“うわぁ、これが芸能人か”と思ったのが西山くんの第一印象(笑)。
西山 え〜……覚えてないなぁ(笑)。
長江 あのオーディション、僕は真っ先に落とされたから……。大阪のオーディションに受かったとき、それで合格だと思って大阪の友達に“欽ちゃんの番組に出るから、君らと口も利けなくなるよ”くらいの勢いで上京したら、まだ20〜30人候補者がいたんですよ(笑)。それでも結果的には、運よく拾ってもらったんですけど。
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山口 健ちゃんは可愛かったよね。僕と10歳近く年が離れているから、ずいぶん若い子だな、子どもじゃん、と思っていた。
長江 僕からしたら、山さんは何を考えているかわからない人、という感じ(笑)。
西山 いまだにそんな感じじゃない?(笑)
長江 ちゃんと会話するようになったの、ここ最近ですもん。当時は山さん、僕のこと子どもとしか思ってないから話すこともなかったし。でもね、番組やっているとき、山さんの立ち位置がいいなと思っていました。だって、欽ちゃんに怒られないんですから。
『欽ドン!』は二度とやりたくない番組ナンバーワン
山口 そりゃ、良い子のヨシオですから。
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長江 ネタ合わせのとき、欽ちゃんから僕がいちばん怒られましたね。西山くんも怒られていたけど、年が近いこともあるし、ライバルじゃないけど負けたくない、という気持ちが大きかったですね。ネタでもいちばんおいしいところを持っていくし。番組以外でも、西山くんは20歳だったから、お酒も飲めるし、なんだか遊んでいる感じに見えるわけですよ。
西山 そんな遊んでないって(笑)。
長江 そうなんですけど、大阪の高校生だった僕から見ると、番組出演で東京に出てきて西山くんと会うと、やっぱり“スター”だったんですよ。憧れ、という部分もあったと思う。
西山 そんなこと言うけど、僕にとって、『欽ドン!』は、振り返ってみて二度とやりたくない番組ナンバーワンだけどね。
山口 そうなの?
西山 番組のスケジュールがキツかった。昼の12時に現場に入って、夜6時くらいまでリハーサル。で、ごはんを食べてから本番が始まるんだけど、終了後にダメ出しがあって、深夜0時くらいから次週のセットが組んである別室でリハに入ったよね。
長江 え、それは僕、覚えてない。高校生に対してそんなことしないですよ。僕が辞めてからじゃないですか?
山口 僕もあまり覚えてないなぁ……。
西山 山さんには覚えていてほしかった(笑)。長江くんは僕がおいしいところを持っていくと言ってたけど、ネタをちゃんと落とさなくてはいけないというプレッシャーがすごくあって。それを外したら番組がつぶれちゃう、くらいの思いで毎週やっていたし。リハでうまくいかずに落ち込んで、しょんぼりするという繰り返しだった。たぶん、いちばん番組を楽しんでいたのは、山さんだと思う(笑)。
山口 2人の話のオチが僕なのね(笑)。
長江 『ハイスクールララバイ』の発売は突然でした。“おまえたちレコード出すから”って。
山口 そうそう。いいかげんだったよね。あのジャケ写も『欽ドン!』 のセットの前で撮った写真だし。曲が細野晴臣さんで、詞が松本隆さん。すごい人に書いてもらったね、と言われますけど、そのすごさを僕らがわからなかった(笑)。
「今思えば、自分のことしか見えてなかった」
長江 全然知らなかったから(笑)。あのとき、いちばん若い僕ひとりで、レコードを出したいという話が何社かから来たんですって。でも欽ちゃんが“絶対にダメ。でも3人でなら”ということでデビューが決まったみたい。
山口 レコーディングには細野さんも松本さんも来てくれてね。
西山 レコーディング自体が僕ら初めてだったけど“こんな感じなのか”という感想しかなかったな。
長江 僕はうれしかったし、楽しかった。だって歌手になりたかったんですから(笑)。今思えば、自分のことしか見えてなかったね。
西山 歌入れのとき、3人でブースに入っていたけど、山さんと2人、コーラスまで歌わないからガラスの向こうのミキサー室にいてもいいんじゃない、なんて思っていたね。だってヒマなんだもん。
山口 そうそうヒマだから、曲に合わせてキーボードを弾いているマネしたりしていたら、それが振り付けになったりして。
長江 僕は何テイクも歌っていましたけどね(笑)。
西山 あの歌前のクラッピング(拍手音)、デモテープには入ってなかったんですよ。当日、細野さんがちょっと入れてみようかとなって、僕と山さんがビンタをするふりをして遊んでいたら、それは面白いと振り付けになって。
山口 細野さんが当日いらしてなかったら、あの部分はなかった。振り返ってみると面白いよね。オリコンで年間4位のセールスを記録。しかし、長江が大学受験に専念する、という理由で番組から離脱。“初代”の良い子悪い子普通の子は1年半で顔が変わった。
長江 当時、僕ひとりでもできる、なんて気持ちがふつふつと出てきて……。でも、一回欽ちゃんから離れないとできないじゃないですか。だから、大学受験を理由に辞めたんですけど、大阪で番組が決まっていたんです。
西山 ドライかもしれないけど、僕たちは長江くんが辞めるというのを受け入れるしかなかったね。
山口 番組の中で、良い子悪い子普通の子を続けていくというレールに乗って、それをいかにうまくやるか、という気持ちのほうが強かったな。番組側に何の断りもなく大阪で芸能生活を開始したことで、長江と欽ちゃんの間は気まずくなった。しかし、長江が関係者に頭を下げたことで事態は好転。イモ欽トリオも、イベントなどで復活するようになった。
長江 今、山さんの古希記念のライブツアーで全国7か所を回っています。
山口 とはいえ、いつものライブと変わらないよね(笑)。
長江 歌に関してはリハをしますが、MCに関してはフリートーク。西山くんはネタを練って決め事が好きですけど。
西山 はいはい(笑)。
山口 昔、聴いた曲だし、来てみたら意外に面白い、くらいのゆるいライブです。僕たちにもみなさんに“ついてこい!”なんてパワーはもうありませんし。
西山 身体のどこが悪い、という話ばかりだもんね(笑)。
山口 気合を入れて来られても僕らも身体がしんどいし(笑)。地方に行くきっかけ程度の理由にして、ライブに来ていただければ。そのくらいがちょうどいいです。
取材・文/蒔田 稔