NHK BSで「藤子・F・不二雄SF短編ドラマ シーズン3」が3夜連続放送される。本日3月25日の3本目、23:30から放送されるのは、『俺と俺と俺』(初出:『GORO』1976年7月18日号)。いわゆる「もうひとりの自分」ものの作品だ。
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原作はある夜、自宅であるマンションにリュックを背負った若い男性が帰宅するシーンからはじまる。彼はドアをノックし、妻の名前を呼ぼうとする。しかし出てきたのは妻ではなく、自分とまったく同じ顔をした男性。「きわめてまずい状況」に陥ったことを察知するふたりだが、まずは家のなかで話し合うことにする。
「ひょっとしてきみは黒田弘29歳じゃないか」
「そういうきみもたぶんそうなんだろ」
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ふたりは原因について分析する。「パラレル・ワールドだろうか。多元宇宙の間で次元の断層が生じて、お前があっちからこっちへ送りこまれたとか」「いや、これはタイム・スリップだ。おまえは過去、もしくは未来の世界のおれでひょんなはずみにおれの現在へ迷いこんできたんだ」。
パラレル・ワールド、タイム・スリップはともにSFの王道ともいえる舞台装置であり、藤子・F・不二雄作品においても登場することは珍しくはない。「もうひとりの自分」というテーマにしてもまた然りであり、たとえば2003年には、「藤子・F・不二雄短編集 もう一人の自分編」(小学館)なるムック本も編まれているほどだ。
ちなみにこの本の中に収録された作品は、『俺と俺と俺』に加え、『自分会議』『あのバカは荒野を目指す』『ぼくの悪行』『ふたりぼっち』『山寺グラフィティ』『パラレル同窓会』の計7作である。このうち『山寺グラフィティ』は「もうひとりの自分」というテーマからはいささか外れているのでここでは除外するが、それ以外の作品における「もうひとりの自分」の出自については、以下のようになる。
『ぼくの悪行』『ふたりぼっち』『パラレル同窓会』=パラレル・ワールド
『自分会議』『あのバカは荒野を目指す』=タイム・スリップ
では、パラレル・ワールドとタイム・スリップの違いはどこにあるのか。おおざっぱに言えば、自分――いやどちらも自分なのだからこの形容はおかしい、暫定的に自分Aと言い直そう――自分Aの利害と、他の自分の利害が連動するか否かである。
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極端な話、パラレル・ワールドの場合は、並行する世界の自分が死んだとしても、自分Aには影響はないが、タイム・スリップの場合は、過去の自分が死んだとすれば、今ここにいる自分Aも消滅してしまう。
つまり、パラレル・ワールドやタイム・スリップに起因する、ほかの自分の出現に直面した藤子・F・不二雄作品の登場人物たちは、自分たちがおかれた状況の性質を踏まえたうえで、各々の自分が優位に立つ、またはより幸福になる戦略を組み立てる必要がある。『自分会議』『あのバカは荒野を目指す』であれば、今ここにいる自分Aが経済的な安定を得るために、過去もしくは未来の自分を心変わりさせようと腐心する過程が描かれるし、逆にパラレル・ワールドでは、自分Aには直接のかかわりがないからと、並行世界で悪行の限りを尽くしたり(『ぼくの悪行』)、自分Aをリセットする意味でほかの世界の自分との「世界の交換」を提案したりもする(『パラレル同窓会』)。
もちろん、何も自己本位な(この形容も少し変だが)行いばかりをする必要はない。『ふたりぼっち』の場合、自分Aは他の世界の自分と友好関係を築き、かねてから構想していた漫画の制作を協力して進めたりもする。しかし、ほかの誰かよりも抜きん出たいと思うのが人間の常でもあるし、その誰かが「他者」ではなく「自分」であってもそれは変わらない。本作でも自分Aは、相撲で相手に勝つためにこっそりジョギングに励むなど、人間くさい競争心からは逃れられないままなのである。
そして、上記の作品と比較した『俺と俺と俺』の異色性は、「もうひとりの自分」よりも優位に立ちたい、という思いがほぼ見受けられない点にある。
『俺と俺と俺』のストーリーに話を戻そう。突然の出来事に頭を抱えていたふたりだが、その間に妻の和子が帰宅する時間になり、一方が家を出なければいけなくなる。家を出たほうの自分は同僚の沢井の家に転がり込み、一晩を過ごす。翌日、会社を休むことを沢井に告げ、沢井は会社で上司に「彼は発熱した」と話すものの、そこに家に残ったほうの自分が現れる。さっそく自分が複数いることの弊害が現れたわけだ。夕方に近所の公園で待ち合わせ、今後のプランについて話し合うが、先行きは甘くなさそうだ。
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そして、話はこうした状況が生まれた、原因の探究へと移っていく。あの出来事が原因かもしれない。ふたりは謎のカギとなるであろう場所へと出発することを決め……。
上記の「もうひとりの自分」を描いた諸作品では、物語の早い段階で「自分ではない自分」が現れた理由は了解されるが、『俺と俺と俺』の場合は、その理由の種明かしこそが物語のミソとなる。そのため、上述したような「もうひとりの自分」よりも優位に立ちたい、という思いの欠落については、「もうひとりの自分」の出自がわからない以上、下手なことをするとふたりとも存在が消えてしまうというような懸念があったと言われればそれまでだし、そもそもそんな感情が生まれる余地がないほど切迫した状況にあったとも言えるかもしれない。しかし、なぜ「もうひとりの自分」が現れたのか、その理由がはっきりした時点においても、ふたりは相手を出し抜くようなことはしない。それどころか、自分が「自分たち」になったからこそできるプランを、積極的に模索し始めるのである。
上記の作品と比較しての、『俺と俺と俺』のもう一つの異色性は、視点の違いである。上記の作品はいずれも「一人称視点」を採用しているが、本作においては、ふたりのうちどちらか一方の視点が中心となるということはない。ふたりの視点が交互に採用される形となっており、ここからは一方の優位、もしくは対立ではなく、融和への志向が垣間見える。
ラスト、これから先に希望を見出し、手を組みかわすふたりの表情は晴れやかだ。「もうひとりの自分」を描いた藤子・F・不二雄短編作品のなかでも、『俺と俺と俺』は際立って楽観的なテイストの作品といえる。もちろん、そこにこそ藤子・F・不二雄の本質があるなどというつもりはなく、むしろ「もうひとりの自分」のさまざまなバリエーションを志向した結果として、本作の楽観性があり、いっぽうで複数の自分が消滅してしまう、『自分会議』にみられるような悲観性もあったというべきだろう。自分は「もうひとりの自分」とどう向き合えるか。『俺と俺と俺』をはじめ、こうした作品群に触れることで、読者もまた試されているように感じられてくる。
※なお、本稿では『俺と俺と俺』において「おれ」が「おれ達」になった理由自体は明かさなかったが、それはどちらか一方の優位性、もしくは正統性がはっきりと指摘できる性質のものである。にもかかわらず、そうした主張が作中でなされないことに、本作における藤子・F・不二雄の、融和や共生を重視する目線が読み取れるのである。
(若林良)
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