日本ボクシング世界王者列伝:六車卓也 過酷な日々を戦い続けた悲運の「エンドレスファイター」

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2025年03月26日 07:01  webスポルティーバ

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井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち04:六車卓也

 古くから日本のボクサー最大の美質は、決してあきらめない心にあった。たとえ、技術で劣ろうが、豪打の前にさらされたとしても、肉体が拒絶しない限り戦い続ける。そんな"拳闘精神"は安全管理、残酷感の軽減を第一とする今どきの発想のもとでは、考え直さなければならないと言われていても、日本人ボクサーの礎には不撓不屈のDNAが宿っている。だからこそ、偉大なる時代到来の祝福に浴する今を実現できた。

 六車卓也(大阪帝拳)。別名、エンドレス・ファイター。世界王座在位わずか56日。世界戦戦績1勝(1KO)2敗(2KO)1分。世界レベルでこそ豊かな実績を残せなかったが、この男は日本式"リングの魂"体現者のひとりであることは疑いようもない事実である。

(文中敬称略)

【新チャンピオンの応答は鈍かった】

 1987年、桜の見ごろから新緑へと季節が行き過ぎた頃。新たに世界チャンピオンとなった六車卓也を取材する機会を得た。あの時、大阪帝拳ジム事務室の椅子に座ったチャンピオンは思いのほかに元気がなかった。ひとつの原因には私の質問の拙さにある。応答をこう切り出した。

 これから目指す選手というのはありますか?

「ロベルト・デュラン......」

"石の拳"の異名をとった猛打と、圧倒的な野性味で4階級制覇を達成した世界的大スターの名前を、六車は挙げた。攻撃あるのみ。退くことを知らないボクサーの理想像として、当然あってしかるべき目標だ。

 だが、六車はうつむき加減のまま、次の言葉を発しない。遅まきなが、自分の失言に気がついた。目の前にいるのは世界チャンピオンである。世界で一番に強い男だ。もはや、誰かを目指すのではなく、自分が多くのライバルに目指される存在なのだ。失礼を詫び、取材を続行したのだが、その後も鈍い応答に終始した。

 世界王座獲得時の六車に、世間は必ずしも好ましい評価ばかりをしていたわけではなかった。一部から異議を申し立てる声も聞こえていた。

 当初、挑戦するはずだったチャンピオン、ベルナルド・ピニャンゴ(ベネズエラ)が突然タイトルを放棄し、3月29日に大阪府・守口市民体育館で開催される世界タイトルマッチは直前になって、六車と世界ランク2位アサエル・モラン(パナマ)との世界王座決定戦に変わっていた。そんな試合成立までの経緯に"違和感"があると言うのだ。

 ここで断っておくが、プロボクシングの世界タイトルマッチはあくまで興行である。当時はテレビの放映権料に大きく依存していた。言わば唯一無二の大スポンサーだった。すでに放送枠が決まっている世界戦を簡単に流すわけにはいかない。プロモートする立場として最善の努力をし、急な出場要請を引き受けてくれたのがモランだったし、そのリスクに対して応分の報酬も支払われていたはずである。

 さらに、それらの事情をひっくるめても六車本人に非があるはずもない。そして王座決定戦は、スピード豊かで、思いきりのいい右パンチを振り回してくるモランに対し、六車は左フックのボディブローを切り口に、圧倒的な連打でモランをなぎ倒した。5ラウンドKOの文句なしの勝利を手にしたのも間違いない事実なのだ。

 だが、不穏な声があがった時点で、関西のジムに生まれた2人目の世界チャンピオンの厳しいキャリアは始まっていたのだろう。決定戦を行なう不可避の条件として、世界ランク1位との対戦を早急に行なう必要があった。

 六車の初防衛戦は、歓喜の夜からわずか56日目、5月24日に決まった。厳しいスケジュールである。決して聞きたくはない不当な評価への苦い思い、間髪入れずに決まった大事な戦いへの緊張感。私が会った時点では、すでに不安とともに緊張があったのは間違いない。

【反則に泣いた初防衛戦。TKO負けで無冠に】

 六車は、近畿大学の学生になってからボクシングを始めた。21歳の春、プロデビューする。天才型ではなかった。そこから初の世界戦実現まで6年、26戦を要した。ただ、闘志と向上心は人一倍だった。試合数を重ねることで、攻撃力を底上げしていった。馬力は一戦ごとにアップした。パンチ力も大きく向上した。特に左フックはだんだんと凄味が出てきた。ボディ攻撃に磨きをかけ、下から上へ、上から下へと切り返すコンビネーション攻撃にも厚みを増していった。

 スーパーバンタム級(当時ジュニアフェザー級)で日本チャンピオンになったのは、1983年秋。このタイトルを7度守った。しかも、うち6度はKO・TKO勝ちによるもの。世界戦実現に専心するため、ベルトを返上してから1年、準備を上積みした。チャンスを広げるために、さらなる減量も覚悟の上で、バンタム級にもターゲットを広げた。そして実現した六車の世界挑戦は、誰ひとり、文句をつけようもない実績に基づく。

 だからこそ、獲得した世界のベルトを簡単に手放すわけにはいかなかった。しかし、その初防衛戦、アクシデントが六車の足を引っ張った。トップコンテンダーの朴讃榮(パク・チャンヨン/韓国)との戦い、その3ラウンドのことだった。ボディ攻撃に打って出る朴の頭を顔面に直撃された。六車の体は力なくキャンバスに投げ出された。

 ひどく効いていた。立ち上がっても足がふらつく。戦前から朴が頭を先に出してインファイトに入ってくることを警戒していたし、朴側に警告し、レフェリーには厳しく警告してほしいと要請していたものの、実際にそうなってからではもう遅い。

 2分間の休憩後に試合は再開されたが、六車にはまだまだダメージがありありだった。ステップも鈍く、スピードも大きく目減りしたまま立ち直れない。9ラウンドにはディフェンスレスの状態で、つるべ打ちの災禍が1分以上も続いた。それでも六車は立っていた。スローモーションのようでもパンチを打ち返した。それも限界が来る。10ラウンド終了。コーナーに帰る六車の足がもつれる。11ラウンドも全弾被弾状態に陥り、レフェリーは試合を止めた。

 朴の反則ばかりを責めるわけにはいかない。頭を低くして攻撃するという、そういうボクシングで世界1位にまでなったのだ。自分のバッティングで六車に大きなダメージを与えたとしても、攻撃の手を弛めるわけにはいかない。試合続行となった以上は、全力を尽くして倒しにいく。リングの正義とは、そういうものなのだ。

【飽くなきチャレンジも1敗1分に終わる】

 六車の戦いは、もちろん終わらなかった。朴が初防衛戦に敗れると、新しいチャンピオンになったウィルフレド・バスケス(プエルトリコ)に挑んだ。

 1988年1月17日のその一戦、挑戦者はことのほか、好調に見えた。バスケスはのちに3階級制覇する実力者である。強打者だった。老練な技巧派でもあった。カリビアンの正確なパンチを浴びて両目を大きく腫れ上がらせた六車だったが、より前に出て戦っていた。無数のパンチをボディに打ち込んだ。リングサイドからは、ずっと有利に戦ったのは六車のほうだと見えた。

 判定は非情だった。三者三様の引き分け。バスケスの勝ちとしたジャッジはなんと5ポイント差をつけていた。そのジャッジは「(六車の)あのジャガイモのような顔を見てくれ」と言い放ったという。当人からその言葉を直に聞いてきた関係者が大声で叫びながら控え室に飛び込んできて、その場が一気にヒステリックな雰囲気になった。それでも六車自身が無表情だったのも印象に残っている。なお、世界挑戦21連続失敗と日本のボクシング界がどん底の記録を作るのは、この一戦からである。

 最後の戦いになったのは同年10月16日。スーパーバンタム級に階級を上げ、WBA王者ファン・ホセ・エストラーダ(メキシコ)に挑んだ。六車は健闘した。しかし、4ラウンド、右カウンターを食らってダウンしたのが響いた。やがてスピードを失い、守りも甘くなる。11ラウンド、連打で追い上げるところに再び右パンチをカウンターされて倒れ、立ち上がったもののグロッキー。ほどなくコーナーからタオルが投入され、TKO負けとなった。

 引退を決意した。27歳。今の感覚なら早すぎるのかもしれないが、最終戦の試合内容を考えれば、適切な判断と思えた。

 引退後の六車は、恵まれていたのだろう。大手スポーツ用品メーカーのミズノに入社した。海外の企業とタイアップしてのプロジェクトにも起用された。仕事の合間にテレビのプロボクシング中継の解説者もやった。さまざまな場で講演もした。やがて、芦屋大学特任教授に就任し、同大学ボクシング部の監督にもなった。

 大学に新しい職場を得たころ、体調を崩した。肝硬変だった。生体肝移植の手術のために、健康な肝臓は弟から提供を受けた。この病を非公表にする人も多いのだが、六車は「手術を受け、元気になれたことを多くの医師、研究者の方々に伝えたい」と公表した。篤実な人柄を偲ばせるエピソードである。

 私が再び六車に会ったのは2018年のことだったか。大阪帝拳ジムのヘッドコーチになっていた。事情があって大学の職を辞し、「昔の我が家」に帰ってきたという。「まだまだ頑張りまっせ!」と階段を駆け上がってきたあの時の姿が忘れられない。

 それから再び時間は流れた。今はボクシングから離れていると聞いたが、どこかでエンドレスのファイトは続いているのだろうか。六車の人生の挑戦の入り口には常にボクシングあったことだけは確かだ。

PROFILE
むぐるま・たくや/1961年1月16日生まれ、大阪府大阪市出身。近畿大学附属高校時代にはラグビーをやっていたが、近畿大学進学後に大阪帝拳ジムに入門し、1981年4月9日にプロデビュー。14戦目で日本チャンピオンとなり、韓国での東洋太平洋王座挑戦は判定負けで失敗したものの、それ以外は連戦連勝。1987年の王座決定戦でアサエル・モラン(パナマ)にKO勝ちしてWBA世界バンタム級チャンピオンに。不運もあって初防衛戦に敗れ、その後、2度、世界タイトルに挑むも勝ちきれず、引退を決意した。身長166cm。右のファイタータイプだが、巧みな上下打ちを体得した技巧派でもあった。31戦26勝(20KO)3敗2分。

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