
大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜藤浪晋太郎 全4回(3回目)
#2:藤浪晋太郎は大阪桐蔭に入学早々、同級生・澤田圭佑の投球に「なんじゃこれは!」>>
2012年春の選抜大会、連覇につながる甲子園の戦いが始まった。初戦の相手は、大谷翔平(ドジャース)擁する花巻東(岩手)。大会初日の第3試合、ナイターとなった一戦で大阪桐蔭・藤浪晋太郎と大谷は初めて対戦することになったのだ。
【大谷翔平の花巻東に快勝】
これまで何度も口にしてきたであろう"あの一戦"。ふたりの現状を鑑みれば、このタイミングでの振り返りは「あの頃は藤浪も......」とネガティブな声を喚起することにもなりかねない。しかし、そんな気遣いなど不要とばかりに、藤浪は大谷についてさらりと語ってきた。
「あの時は本当に、どうやって花巻東に勝つか、それしか頭になかったんです。だから大谷について、周りは騒いでいましたけど、自分のなかでは花巻東のエースで4番という以外、特別な意識も感情もありませんでした。とにかく大谷どうこうというより『花巻東に勝ちたい』と、その一心でした。ただ、2回に大谷が打席に入ってきた時は『デカっ!』っていうのはありましたけど」
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当時の資料によると、大谷は193センチ、85キロで、藤浪は197センチ、88キロ。肉づきの箇所、打者としての風格がより"デカさ"を感じさせたのか。そしてその2回の初対決で、大谷は藤浪から右中間へ特大の一発を放つ。
「低めのスライダーでしたけど、あれは『おい、おい』って感じでしたね。2、3打席目ならわかるんです。でも1打席目、『初見でホームラン打つか?』って。ただ、ソロ(本塁打)やし、あとを抑えたらいいと、すぐに切り替えることができました」
では、投手・大谷についてはどんな印象を持ったのか。
「球は速かったです。でも、自分はダメですけど、ほかのメンバーなら打ってくれると思っていました」
そう語ったのには、打撃陣への信頼と攻略できる根拠があった。
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当時、大谷は左股関節骨端線損傷から復調するも、大会直前の練習試合では最長6イニング、60球以上の投球はなし。その情報を大阪桐蔭は得ていた。
「だから、まずは球数を投げさせようと。低めのスライダーをしっかり見極めて、5回で80球くらいをメドに後半勝負に徹すれば......そんなプランでした」
結果、5回終了時点で大谷の球数は85球。そして思い描いたプランどおり、大阪桐蔭が6回に3点を奪い逆転。7回にも4番・田端良基の2ランでリードを広げた。結局、大谷は9回途中173球、9失点でマウンドを降りた。
対して、5回以降3安打と尻上がりに調子を上げてきた藤浪は、9回143球を投げきり、12奪三振、2失点で大一番を制した。
「花巻東の勝てたのは、これまで『大事なところで勝てない』と言われていたチームにとっても、自分にとっても大きな自信になりました」
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【勝ちにこだわり選抜制覇】
2回戦の九州学院(熊本)戦は、左腕・大塚尚仁(元楽天)に苦戦したが5対3で勝利。名勝負となった準々決勝の浦和学院(埼玉)戦は、1点ビハインドの9回一死走者なしからの逆転勝ち。準決勝では、"機動破壊"で話題になっていた健大高崎(群馬)を8回に振り切り3対1。そして決勝は光星学院(青森/現・八戸学院光星)を7対3で下し、一気に春の頂点へと駆け上がった。
「とにかく大会中は勝てればいい、ほんとそれだけでした。だから大谷と対戦してどうかとか、三振を何個取ったとか、球速がどうだったかとか言われても、自分のことはどうでも良かった。余計な色気は、最後まで1ミリもなかったです。それだけ勝ちを欲していたんですね」
勝てる投手であることを証明した藤浪だったが、一瞬の喜びのあとに浮かんできたのは、満たされない思いだった。
「決勝戦も10安打以上、自分的にはバカスカ打たれたイメージで、大会を通して優勝はできたけど、自分が抑えたのではなく、野手に勝たせてもらったなと。ストレートはもっと強くしないといけないし、変化球もフォームもまだまだ。このままじゃ夏は勝てないと、春が終わった瞬間に頭が切り替わりました」
ここから「まだまだ」「もっともっと」が、藤浪の口癖となっていった。
【甲子園で覚醒し圧巻の投球】
選抜優勝のあと、チームは春の大阪大会、近畿大会をほぼ藤浪晋太郎抜きで制覇。春夏連覇へ向け、順調に進んでいったかに思えたが、実はそうではなかった。6月の追い込み練習が終わったあと、藤浪が股関節を痛めたのだ。
復帰後に行なわれた紅白戦では、初回6失点を含む3回8失点の大乱調。夏の大会まで最後の練習試合となった横浜隼人戦に勝利こそしたが、8失点完投。練習試合に負けただけでニュースになってしまう今なら、夏前のエースの大乱調はなかなかの騒ぎになっていただろう。
「たしかに、よく打たれるなとは思っていました。でも、原因はわからなかったですけど、まだまだ力が足りないととらえていたので、焦ったという記憶はないです」
ただ、チームメイトは違った。夏の大会直前、捕手の森友哉(オリックス)が監督の西谷浩一と会話をするなかで「澤田(圭佑/ロッテ)のほうがいいと思います」と、ストレートに進言したという。これに対して藤浪は、「澤田のほうがいいんじゃないかという見方は、あの頃を思えば自然だったでしょうね」と振り返る。
そんななかで迎えた大阪大会は、10対1から猛追され、澤田の助けを借りてしのいだ履正社との決勝を含め、藤浪の状態には波があった。
大阪大会の藤浪の成績は、4試合(30回1/3)を投げ被安打19、四死球18、奪三振43、失点10。5試合(24回2/3)を投げ被安打12、無四球、奪三振23、失点2という澤田の安定感抜群のピッチングで大阪大会を制したと言っても過言ではなかったが、甲子園になると一転、藤浪が覚醒した。
特に圧巻は、準々決勝からの3試合。まず、前年秋の近畿大会で打ち込まれた天理(奈良)を1失点完投。つづく準決勝も、6月の招待試合で敗れた明徳義塾(高知)を被安打2、四死球3、奪三振8での完封。ところが試合後のインタビューで藤浪の話を聞いていると、自己採点は「65点」。これには少々驚き、少し離れたところで記者に囲まれていた西谷に伝えると、「藤浪らしいな」という表情になり、こう言った。
「そう言うなら、明日はもっといい投球をしてくれるでしょう」
そして事実、春の再戦となった光星学院との決勝は、被安打2、四球2、奪三振14という完璧な内容で2試合連続完封。春はとらえられていたストレートもことごとく押し込み、普段は辛口の部長・有友茂史から「今でも『あの時のおまえは神がかっていた』と言われます」と、藤浪の顔がほころぶほどの投球で夏を締めくくった。
【高校時代の一番の財産は?】
史上7校目の春夏連覇。大阪桐蔭での3年間は、藤浪のなかに何を残したのか。これまでも何度かしてきた質問を、今回も投げてみた。
過去には「全国の頂点を目指して、やるべきことをやった結果」「勝ち切れたという成功体験」「妥協せず勝ちにこだわる姿勢」「仲間との出会い」など、いろいろと挙げてきたが、いつの時も「でも一番は......」と必ずついてくるひと言があり、今回も変わらなかった。
「一番の財産は、西谷浩一と出会えたことですね」
普段は「先生」「監督」「さん」と、場面に応じて変えてくる呼称を、人生の先輩や組織のトップでも語るように、あえて省いてきた。
「ほかの学校のことはわからないですけど、あれほどの高校野球の指導者って、ほかにいるのかなと思います。高校野球の指導者というくくりだけでなく、ひとりの人間として希有な存在だと思うんです。現役の時も、信頼関係ができていくなかで伝わってくるものはありましたけど、本当のすごさがわかるのは社会に出てからですね。
プロに入ってすぐ思いましたから。『西谷監督って、やっぱりすごい人やったんや』って。最後は人間や、ってよく言われるんですけど、社会に出て本当にそう思いましたし、そこを実践している人。そういう人と出会えたこと、考え方に触れたこと、指導してもらえたこと、すべてが自分の財産です」
ひとつ決断が違っていれば、その出会いはなかった。これまでもしばしば、藤浪の高校時代の回想は"西谷浩一論"になるのだが、この日はさらに熱を帯びていた。
「自分のためにやってないんですよね。『コイツをなんとかしてやりたい』と、いつもそっちが勝ってるから、選手に気持ちが伝わるんです。西谷先生がお金や地位、名声のために高校野球の監督をやっていると思うようなことは、高校での3年間はもちろん、OBになってからも一度もありません」
自身の成長のなかで、かつて見えてきた師の姿が違って見えてくるということは、決して珍しいことではない。しかし藤浪のなかにある"西谷像"は、当時も今も変わらない。
「生徒に対して嘘をつかないし、ナチュラルに心をつかむんですよ。それも決して、自分が崇めたてまつられるような心のつかみ方はしない。高校野球でよく『監督さんのために......』というセリフを聞きますが、桐蔭にはない。だから西谷監督を胴上げしたいという空気は、当時のチームのなかにはなかったと思いますし、少なくとも自分のなかには1ミリもなかったです(笑)」
藤浪に西谷への思いは、プロの世界で過ごした時間のなかでより深まったように思える。もしそうだとすれば、それは"出会い"という部分で、その後の世界での藤浪の満たされない思いを伝えてくるようでもあった。
「プロの世界で、選手にとっての指導者はビジネスパートナーで、教育者じゃない。もちろん、プロの世界でも尊敬できる人はいますが、教育の場ではないので......。そこはわかっています」
無償の日々のなかで信頼できる師、仲間たちと野球に励み、春、夏の頂点に立ったエースは、ここからビジネスとしての野球の世界へ踏み込んでいくのだった。
(文中敬称略)
つづく