
5月18日に東京・国立競技場で開催されるゴールデングランプリ(以下GGP)には、女子走高跳世界記録保持者のヤロスラワ・マフチフ(23、ウクライナ)、女子やり投の北口榛花(27、JAL)ら多数のメダリストが出場する。北口以外にも村竹ラシッド(23、JAL)、三浦龍司(23、SUBARU)ら世界に挑む日本人選手も多くエントリーした。その中でも異彩を放つのが、女子3000mでペースメーカーを務め、その1時間半後の1500mに出場する田中希実(25、New Balance)だ。田中の今の取り組みの特徴を、父親でもある田中健智コーチに取材した。
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昨年GGPでも豪州コンビがペースメーカー田中コーチは前回GGPの豪州コンビを参考にしたという。サラ・ビリングス(27)とジョージア・グリフィス(28)が、午後2時50分スタートの女子1500mでワンツーフィニッシュ。優勝したビリングスが4分04秒66の自己新をマークしたのに対し、田中希実は4分07秒39で4位だった。
豪州コンビは午後4時46分スタートの5000mにも出走。3000mまでペースメイクをした。豪州コンビもまだ、世界のメダリストではないし、自己記録は3分58〜59秒台で田中と同じレベルである。「豪州も以前はハルとホールだけだったんです」と田中コーチは別の2人の名前を挙げた。ジェシカ・ハル(28)はパリ五輪銀メダリスト、リンデン・ホール(33)は東京五輪6位入賞者だ。
ビリングスとグリフィスは数年前まで五輪で活躍した2人とは差があったし、タイム的には東京五輪で3分59秒19の日本新を出した田中がリードしていた。しかし昨年4月、2人揃って3分59秒台をマークすると、グリフィスは9月のダイヤモンドリーグ・ファイナルで6位、3分58秒40まで記録を伸ばした。アフリカ勢や先行する豪州の2人を追って、グリフィスとビリングスも成長した。その取り組みの1つが昨年のGGPだった。
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しかし今年のGGPの田中には、去年の豪州勢との違いもある。ペースメーカーをする3000mが先に行われることだ。普通は勝負をする種目を先に走る。ペースメーカーをすれば間違いなく、多少の疲れが残る。他人との勝負をすることを考えたら、疲れのないフレッシュな状態で臨むのは当然だ。それだけ今の田中は、世界へ挑戦する課題を最優先に考えている。
ケニア合宿とグランドスラムトラックで初の試み田中はこれまでも、実業団チームには所属せず独自のスタイルで強くなってきた。練習だけを行う“ためる”期間は設けず、レースを多く走って強化する。大学駅伝や実業団駅伝は走らず(1年だけ実業団に所属しクイーンズ駅伝に1回出場)、冬期も室内競技会出場や合宿のため海外を転々とする。繰り返していることも多いが、そのときどきで必ずテーマを設定して取り組んできた。この冬の練習でも今シーズンのトラックレース出場でも、新しいことにチャレンジしている。
1月後半にはケニア・イテンで合宿を行った。これまで現地の選手と一緒にトレーニングもしてきたが、田中コーチのメニューと「ハイブリッド(異なるもの組み合わせ)」(田中コーチ)で行ってきた。全部をケニア選手と同じメニューを行うと負荷が大きく、故障などマイナス要素が生じるリスクがあるからだ。
しかし今年1月の合宿は初めて「ケニアだけの練習」に挑戦した。
「ナイロビでケニアに馴れる練習をしてからイテンに入るのですが、気持ちが入りすぎてナイロビで追い込み過ぎました。イテンでは回復が追いつかず、疲れた状態で次、疲れた状態で次、という感じでした」
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そのメニューを敢行できたのは、次の滞在地である米国ボストンに行けば、「整う」方向に持って行けるからだ。
「ボストンでは私のメニューでやりながら、ボストンのNew Balanceチームのメニューに加わるハイブリッド練習です」
1月末から2月前半でボストンで4レースに出場した。2月8日には室内3000mで8分33秒52をマーク。自身が昨年5月のダイヤモンドリーグ・オスロ大会で出した8分34秒09の日本記録を更新したが、「もっと行けたはず」と田中コーチ。「ケニア合宿が思ったところに行けなかったことが原因です。ごまかしてなんとか、最低限の記録に持っていきました」。
4月上旬にはジャマイカで、5月上旬には米国フロリダ州で、新設されたグランドスラムトラック大会に出場した。細部の説明は省くが、1大会で3000mと5000mの2レースに中1日で出場する。連戦には馴れているが、世界のトップレベル選手とペースメーカー不在のレースでしのぎを削るのは、これまでとはまた違う負荷がかかる。
「そうなることを望んでいるわけではありませんが、結果としてグランドスラムトラックで燃え尽きてしまっても、そこから這い上がれば26年、27年につながります。競技生活の中で意味のある失敗になる」
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昨年は8月のパリ五輪後にダイヤモンドリーグ4試合に出場。4試合目はダイヤモンドリーグ・ファイナルで、五輪&世界陸上と一緒ではないが、大きな緊張感の中で戦った。昨年9月にその経験をしたことが、今年は9月開催の東京2025世界陸上に生かすことができる。
外国勢に“寄せない”レース展開も田中の強化スタイルは、ひと言でいえば世界標準の取り組みと言えるかもしれない。だが世界といっても、取り組み方は選手やチームによって異なる。世界を股にかけて活動している田中は人脈にも恵まれている。その中から、自分にプラスになると判断できた部分を取り入れているし、真似はしないで自身や、日本の良さを生かした取り組みもしている。だから“ハイブリッド”という言葉が出てくるのだろう。
レース展開もこれまで、世界ではラストで競り勝つことが必要と考え、多くの大会で「ラスト1周にこだわる」「最後の1000mにこだわる」などのテーマを設定してきた。だが、「それが良さを曇らせている可能性もある」と田中コーチは感じ始めた。
「世界の選手に寄せなくても、自分らしさを研く方法もあると思います。例えば“仕掛けたいところで仕掛ける”ことは田中らしさです。先に仕掛けて追いつかれても、順位(入賞)を取ることもできる」。仕掛けのレベルが上がれば、メダルに近い順位を取ることができるかもしれない。
GGPの1500mには昨年同様、グリフィスとビリングスの豪州コンビが出場する。さらにもう1人、ヒルト・メシェンシャ(24、エチオピア)もエントリーされた。メシェンシャは4月のダイヤモンドリーグ厦門大会5000mで、14分29秒29の自己新で4位と健闘。グランドスラムトラック・フロリダ大会では3000mに優勝、5000mでは3位と、さらに成長している。フロリダ大会には田中も出場し、3000mでは21秒79差の8位、5000mでは26秒32差の7位だった。
メシェンシャを世界のトップと見立てて勝負を挑み、結果的に勝てなくても、豪州コンビに勝つ。それができれば、今の田中がやろうとしていることに近い内容になる。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)