百恵さんのメークも手掛けた“偉大なる母”に導かれ――「現代の名工」に選出されたネイリスト・木下美穂里さん

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2025年05月18日 11:10  web女性自身

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「この春夏のテーマは“モア・イズ・モア”。こんな時代だからこそ、少しわがままに、もっともっと人生を楽しもう! という思いを込めました。テーマカラーはチョークピンクです」



今年1月、東京・永田町にある「日本ネイリスト協会(JNA)」のスタジオで「2025春夏トレンド」メインビジュアルの撮影会が行われた。JNAでは年2回、ネイルトレンドを発表しているが、そのプロジェクトリーダーが、同協会理事の木下美穂里さん(62)。



今では、誰もが当たり前に楽しんでいるネイル。美穂里さんは、わが国にまだ“ネイリスト”という言葉がないころから若きパイオニアとして、その技能の向上に貢献してきた。近年では、介護の分野でのネイル活用を提案していることでも注目されている。



美容界に加え、広告などの映像分野においてもネイルの価値を高めてきた功績が認められ、昨年秋には卓越した技能者を厚生労働大臣が表彰する「現代の名工」に選出。60年近い同賞の歴史のなかで、ネイリストとして初の快挙だった。



「お人形さんみたい! 表情もステキ。そうそう、あなた自身が楽しんでいるのがいちばんね」



撮影中はモデル女性にそう声をかけたかと思えば、会場を慌ただしく行き来する男性スタッフを、



「準備から忙しかったと思うけど、ランチはしっかり食べたの?」



と気遣うなど、あまりにフランクな雰囲気に驚いていると、当の美穂里さんが、



「私は、誰もが認めるカリスマ性で周囲をリードしていた母とは違うタイプだと自分でわかっているので、みんなで一緒に作品を作り上げることを何より大切にしています」



美穂里さんの母親であり、また師匠でもある存在が、木下ユミさん(90)。日本のメークアップアーティストの草分けとして活躍し、デビュー前の山口百恵さんら多くのスターの美容指導にも当たった、まさしく“美のカリスマ”だ。



美穂里さんが母娘2代にわたり美を追い続け“現代の名工”となるまでには、偉大な母の背を追い、ときに重圧と向き合いながら自分らしい道を見つけていく、長い葛藤と奮闘の日々があった。



木下ユミさんは1934年(昭和9年)11月、東京市麻布区(現・東京都港区)の出身。



「外交官をしていた父親の影響もあり、ふだんからバレエやオペラなど海外の文化にも多く触れ、当時は珍しかった西欧の美術書なども愛読していました」(ユミさん)



終戦から5年後、まだ本放送を実施する前のNHKに、秘書課の職員として入局。テレビ時代に合わせたメークアップの研究を行う。



「NHKでこの研究を託されたのは、外交官の父を持つ私のグローバルな知見を幹部の方に評価されて抜擢に至ったのだと思います」



NHK勤務を経て、民間でもカネボウ美容研究所で顧問に着任するなど実績を重ねていき、先の東京オリンピックが開催された’64年、フリーのメークアップアーティストとなる。



’70年には個人事務所を設立し、テレビ、映画、CM、雑誌、ステージなどあらゆるジャンルでメークアップを担当。続いて’72年に「日本エステティシャン協会」の創設メンバーとして、創設理事に就任した。翌年には原宿に自身のサロンを開き、芸能人らのビューティプロデューサーとなる。



「ふだんのヘアやメークなどはもちろんですが、デビュー前のイメージづくりを一緒に考案していくのも大切な役目の一つでした」



くしくも、この年にデビューするのが、当時14歳の山口百恵さん。



「伝説のスターと称される百恵さんですが、私のサロンに初めてお越しいただいたのはデビュー前。まだティーンエイジャーで制服姿でしたが、とても落ち着いていらして、いつも真剣に私の話を聞き、メークの過程を観察していらしたのをよく覚えています。



あの年齢なら当然といいますか、メークに関してはまったく知らないご様子でした。そこで彼女のスタッフとも話して『ナチュラルメークで』との方針で売り出したら、私たちも驚くほど、どんどん美しくなっていきましたね。人から見られることも大きかったでしょうが、スターになる人は、どなたも勉強熱心で努力家なんです」



さらに、柏木由紀子、アン・ルイス、沢田研二、柴田恭兵など、錚々たる芸能人たちのメークを手掛けるほか、自らもテレビ出演するなど活躍の場を広げていった。



’74年にはメークアップスクールを設立するなど多忙を極めていくなか、テレビ局などでの施術時にはいつもユミさんの傍らに、アイドルたちと同世代の“女のコ”がアシスタントとして立ち働くようになっていた。



それがユミさんの長女で、当時はまだ高校生の美穂里さんだ。



「私は’62年10月、東京都北区で生まれ育ちました。母は美容家、父は俳優でしたから経済的には恵まれていたと思いますが、いっぽうで、両親が学校行事に来てくれた記憶はありません。代わりに同居していた祖母が私と妹の面倒をみてくれていました」



木下美穂里さんは、5代続く東京っ子というだけあって、ハキハキとした口調で語り始めた。母親は前述のとおり、日本の美容界を牽引し続けていたユミさん、父親は東京放送劇団で黒柳徹子と同期で、ドラマなどで活躍していた俳優の木下秀雄さん。



「私の小学生時代といえば、母が劇的に多忙になっていく時期と重なります。10歳のときには、表参道に100坪の規模で総合的な美容サロンをオープンしました。このころには、父も俳優業をしながら母の仕事を手伝っていました。



ですが、私が特別に寂しさを感じてなかったというのも本当なんです。もともと人見知りで、家で一人で絵を描いたり、本を読むのが好きな子でしたから。小中学校では、図書館の読み物的な本はすべて読み尽くしたほどでした」



高校生になると、母親のユミさんから、こんな声がかかるようになる。



「美穂里さん、次の土日は空けといてね。一緒に(テレビ)局へ行きましょう」



遊びたい盛りの長女を、ユミさんは熱心に誘った。ときには、こんな言葉で──。



「御三家もスタジオにいるわよ」
「じゃ、行く!」



こうして美穂里さんは“ユミ先生”とアシスタントらがメークの仕事をする傍らで、箱ティッシュを運んだり、コットンを補充したりというアルバイトを続けた。



「当時の御三家は郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんですね。で、スタジオに目をやると『あっ、ひろみがいる!』という感じでまた張り切っちゃう(笑)。



母は、そうやって、10代の私をなんとか現場に連れ出そうとしました。今思うと、跡継ぎを育てる準備だったのでしょうね」



とはいえ、けっして手取り足取りの指導ではなかった。



「昭和風の『技術は見て盗め』というスタイル。でも私も、いったん現場に入ったら、バイトといえども、相手をきれいにしてあげたい、心地よくしてあげたいという気持ちで動いていました。誰かのために身を粉にして働く姿は、母から最初に学んだことですし、今でも大切にしています」



教える立場のユミさんは、早くも娘の才能を見抜いていたそうだ。



「物静かな子でしたが『できません』と言わない強さを持っていましたね。また、いったん技術を吸収したらそれを自分の力に還元するアーティストとしての素養も持ち合わせていたと思います」



その後も美穂里さんは、母を手伝いながら美大入学を目指した。



「高2からは午後4時までは学校で、5時から9時まで美大の受験予備校、週末はテレビ局という、高校生とは思えない過密スケジュールでした」



大学で画像形成を学び始める前後から、両親に同行して渡米を繰り返すようになる。



「当時のアメリカは、美容だけでなくネイルでも先進国。ショーや講習に片っ端から参加しました。そんななか、ロサンゼルスでスカルプチュアネイル(爪を長くする技術)と出合い、これは絶対に日本でもウケると確信。



イベントで知り合った全米チャンピオンに直談判して3日間連続で技術を学んで帰国したのはいいんですが、付け方は覚えてきても、外し方がわからなかったり、なんてことも(笑)。



日本にはまだネイルスクールもネイリストという職業すらないときで、日米を往復しながら、見よう見まねで試行錯誤の日々が続きます。



資料なども読みあさりましたね。私の性分で、子供のころに図書館の本を読破したように、いったん興味を持つと、とことんのめり込んでしまうんです」



大学を出ると、まずはCM映像の世界でネイルやメークの仕事をするようになる。気づくと、自分自身にある変化が起きていた。



「まわりの大人たちは、私を生意気な小娘と見ていたかもしれません。10代の終わりには、いろんな人脈を持っていたのも事実です。『親の七光、いや十四光があるから当然でしょ』という陰口もあったと思います。



でも、母や父と一緒に働くなかで、いつか、そんな自分を受け入れていました。開き直りというより、チャンスと思えた。だって、私はそのおかげで、みんなができないことをやれているのだから」



さらにもう一つ、大きく変わったことが。



「気がつけば、人見知りも、2代目のプレッシャーもすっかりなくなっていました。母が現場に連れ出してくれたり、父が100人単位の社員旅行に参加させるといった機会を作ってくれたおかげです。感謝しかありません。



なにより両親との仕事を通じて、人を笑顔にする喜びを知ることができたのが大きかった」



やがて、ユミさんのスクールでメークやネイルを指導したり、サロンでネイルの担当をするようになる。



’85年には日本ネイリスト協会の立ち上げに関わり、美穂里さんは初代教育委員に就任。日本最大級のビューティコンテストを立ち上げ、20年にわたりプロデュースするなど走り続けてきた。



そして現在は介護の分野でネイリストができることを広げることなどに奔走。美容業界に新風を吹き込むという、母娘2代でのチャレンジはいまなお続いている――。



【後編】“美容界のカリスマ”木下ユミさん・美穂里さん 波乱万丈の人生の先に「母娘で思い描く夢」へ続く

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