1988年のWEC JAPANを戦ったオムロンポルシェ962C。クラウス・ルドビクとプライス・コブがドライブした モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1988年に富士スピードウェイで開催されたWEC JAPANを戦った『オムロンポルシェ962C』です。
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世界耐久選手権(WEC)やル・マン24時間レースなど、スポーツカーレース戦線において、1982年より主流となったグループCカー。その戦いにおいて、長きにわたりライバルをリードし続けたのがポルシェだった。
ポルシェは、グループCのために生み出したレーシングカーである956を1982年からWECに投入すると、同年のル・マン24時間レースもその956で制覇。その後、ドライバーの脚部保護のための規定に対応することが主目的で生まれた962Cを1985年に投入してからも、ポルシェはWECの王者であり続けていた。
しかしながら、1987年になると状況が変わり始める。この年、世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)のタイトルを力をつけていきていたジャガーに奪われてしまい、絶対王者ポルシェの力が弱まりはじめた。翌1998年になるとポルシェはワークスとしてのWSPCへの全戦参戦を取りやめ、有力プライベーターであったヨーストをバックアップするかたちを取った。
そして、ポルシェのワークスチームはル・マンでの8連覇を狙った。だが、そのル・マンでジャガーに敗北。WSPCのみならず、ル・マンでの連勝記録もついにストップしてしまった。
この1988年、前述の通り、WSPCにフル参戦していなかったポルシェワークスは、2戦だけWSPCを戦っている。そのうちのひとつがル・マンであり、もう1戦というのが日本の富士スピードウェイで開催された第10戦WEC JAPANだった。
WEC JAPANでポルシェワークスは、1988年のル・マンで走った1台を持ち込むと、オムロンカラーを纏わせてレースを戦った。
この年のポルシェ962Cというのは、エンジン制御システムのボッシュモトロニックが1.2から1.7へと進化したことが大きな特徴で、そのほかではフロントサスペンションに改良を受けるなど、1987年仕様からの変更はわずかにとどまっていた。
またル・マンでは、リヤセクションの厚みが増した新型のロングテールボディを使っていた962Cであるが、富士では標準のボディを使用した。
オムロンポルシェ962Cという車名で、クラウス・ルドビクとプライス・コブという2名のドライバーに託されたワークスポルシェは、予選で4番手グリッドを獲得。この時、ポールポジションを手にしたのは、岡田秀樹とスタンレー・ディケンズの駆るフロムエーポルシェ962Cでプライベーターポルシェの後塵を排する結果となってしまった。
それでも決勝ではワークスポルシェが躍進する。接触とホイールバランスが外れたことによって、予定外のピットストップを2度強いられてしまったものの、2位でフィニッシュ。優勝はジャガーであり、ル・マンの雪辱を晴らすことは叶わなかったものの、旧態依然のマシンで好走を見せた。ワークスがポルシェ962Cで見せた最後の輝きだった。
その後、1989年からはグループCレースの活動をヨーストに託し、それらのプライベーターの手によって、ポルシェ962Cは進化を続けていくことになるのである。
[オートスポーツweb 2025年05月21日]