
高橋優貴インタビュー(前編)
東海大菅生から八戸学院大に進み、2018年のドラフトでは「外れ外れ1位」で巨人入団を果たした高橋優貴。1年目から5勝を挙げ、3年目の2021年には11勝をマークするなど、ローテーション投手として活躍。だが、その後はケガもあって本来のピッチングを取り戻せず、2024年のシーズン後に戦力外通告を受けた。悩んだ末に社会人野球のミキハウスに移籍し、今も現役を続けている。ドラフト1位で巨人に入団してからの6年間のプロ生活を振り返ってもらった。
【高校3年夏に西東京大会決勝で涙】
── 出身の茨城から、なぜ東京の東海大菅生に進まれたのですか。
高橋 中学校時代に所属していた「友部リトルシニア」の原田明広監督が巨人の元投手でした(1985 年〜1991年)。その原田監督が、元中日投手だった東海大菅生高の若林弘泰監督と同い年で、プロ野球時代からの知り合いだったのです。
── 高校1年夏からベンチ入り。高校3年夏は西東京大会の決勝に進むも日大鶴ヶ丘高戦に敗れ、残念ながら甲子園の土を踏めませんでした。
|
|
高橋 3年夏は3回戦から出場。エース投手との継投で、僕はリリーフ役としてほぼ毎試合投げました。世田谷学園、早稲田実業、八王子、日大三の強豪を破りましたが、決勝の日大鶴ヶ丘戦でサヨナラ負けを喫しました。
── 高校卒業後は八戸学院大に進学します。
高橋 八戸学院大の正村公弘監督(2024年から亜細亜大学監督)と若林監督が東海大の先輩後輩の間柄で、紹介していただきました。
── 正村監督は投手育成に定評があります。
高橋 投球そのものもそうですが、投げる間(ま)を変えることを教えられました。ほかにも守備や一塁牽制などです。一塁牽制は、投げるまで打者を見なくていいとアドバイスされました。投げなくても、ランナーを目で牽制しろと。そういうことの大事さは、大学時代に教わりました。
|
|
── 八戸学院大は、山川穂高(現・ソフトバンク)らを輩出した富士大や、細川亨(元西武など)たちがいた青森大と同じ北東北大リーグです。優勝は勝ち点制ではなく勝率制で、1シーズン10試合と決まっています。そんななか、4年間(8シーズン)プレーし、50試合に登板して20勝12敗、リーグ新記録となる301奪三振をマークしました。
高橋 負けた試合もけっこうあったので、満足するまでには至りませんでした。しかし、1年春からマウンドに上げてもらうなど、いろいろな経験を積ませていただいたことにすごく感謝しています。
【外れ外れ1位で巨人に入団】
── 2018年ドラフトで巨人から1位指名で入団。大阪桐蔭の根尾昂選手(中日)、立命館大の辰己涼介選手(楽天)の「外れ外れ1位」とはいえ、その評価に関してはどう思いましたか。
高橋 1位指名はまったく考えていませんでした。1位は地上波のテレビ放送で見ることができますが、それ以降はCS放送なので、後輩のマネージャーにCSで見られるように準備してもらっていました。ドラフト当日はチームメイトと「CS放送になってから、どれだけ待つかな?」と話していたぐらいです。
── 高橋さんの出身である茨城は、巨人ファンが多い土地柄です。
|
|
高橋 じつは、子どもの頃は阪神ファンで、金本知憲さんや藤川球児さんのファンでした(笑)。北東北リーグの同学年に富士大の佐藤龍世選手や佐々木健投手(ともに西武)や鈴木翔天(楽天)がいたので、プロのスカウトの方が時々来られていました。しかし、まさか巨人の柏田貴史スカウトが僕を見に来てくれてとは......まったく知らなかったです。
── 「巨人のドラフト1位」というプレッシャーを感じたことはありましたか。
高橋 そういうプレッシャーはありませんでしたが、報道陣からの注目度は大きかったと思います。ただ、「ドラフト1位」ということに関しては、少しプレッシャーを感じることはありました。そんななか「そういうことは気にせずやるんだよ」と、やさしい言葉をかけてくれる先輩は多くいました。
── プロ1年目、初登板・初勝利を含む5勝を挙げ、日本シリーズでも第3戦に先発しました。プロでやっていけるという自信めいたものをつかんだきっかけは?
高橋 1年目はとにかくがむしゃらで、いろいろ考える余裕はなかったのですが、3年目に11勝をマークし、オールスターにも出場することができました。なんとかして1試合1試合勝てるように、自分の投球や相手打者の映像を見たりしました。自分が持てたというのはなかったですが、準備を欠かさずに6年間やってきたつもりです。
ただ巨人にはすごい先発投手がいましたし、毎年のように外国人投手の補強もありました。いい成績を挙げても、翌年必ず投げさせてもらえるという確約もなく、「これでもう大丈夫だな」という安心感は一度もありませんでした。
【プロ6年間で通算18勝】
── 高橋さんが在籍した時は、山口俊投手や菅野智之投手ら、"投手三冠"を獲得したピッチャーがいました。
高橋 ふたりともあれだけの成績を残しても、野球に対する探究心、常に変化を求めて高みを目指そうとする向上心は勉強になりました。菅野投手は「現状維持は後退だ」と言っていました。
── 菅野投手の球はすごかったですか。
高橋 じつは、僕が高校に入学して間もない頃のことです。菅野さんが日本ハムの指名を拒否して"浪人"が決まり、1日だけ東海大菅生のグラウンドに来たことがあったんです。その時、菅野さんの投球練習を見て、「これが人間の投げるボールなのか??」と驚愕しました。
── 巨人に入団してから、刺激をもらった選手はいましたか。
高橋 同じ左腕の今村信貴投手、田口麗斗投手(現・ヤクルト)はライバルであり、お手本でもありました。シュート習得の際には、技術的なことに関して話し合いましたね。
── 高橋さんが背負ってきた番号に関して、「12」は角盈男さん、「26」は内海哲也さん、「47」は工藤公康さんがつけていました。そのことからも期待の大きさを感じました。
高橋 背番号に見合うように......というのがモチベーションになっていました。一方、ドラフトをはじめ、毎年補強があったので、コンスタントに成績を残さないといけないという危機感は常に感じていました。
── プロ時代の自分の投球を、どう自己分析しますか?
高橋 常時150キロを超えるようなボールは投げられなかったので、なるべく内角を突いて、外を広げていく。あとは緩急を使って、いかにストレートを速く見せるか。そういう投手だったと思っています。
── 6年間で通算69試合に登板して18勝25敗、防御率3.66という成績をどう思いますか。
高橋 大学4年時のことを考えれば、意外と勝てたなと思います。2022年オフに左ヒジのクリーニング手術をし、2023年に0勝1敗。あの年、1つでも勝てていれば、もっと違う方向に進んだのではないかと思っています。手術後は、自分が思っているよりいい球がいかなかった。それでなんとか"以前の自分"を取り戻そうとしたのですが、いま思えば"新しい自分"をつくるべきでしたね。
── プロ野球での印象深い思い出は?
高橋 僕は原辰徳監督3次政権の初年度、2019年の入団でした。原さんは僕をプロの世界に導いてくれたひとりですし、根気強く起用してくれました。いい思いをたくさんさせてもらいました。なかでも、クライマックスシリーズや日本シリーズ、オールスターといった、プロ野球選手であってもみんなが経験できるわけではない大舞台に立たせていただきました。日本一になれなかったことは悔しいですが、感謝の気持ちでいっぱいです。
つづく>>
高橋優貴(たかはし・ゆうき)/1997年2月1日生まれ。茨城県出身。東海大菅生から八戸学院大に進学し、大学通算20勝、301奪三振を記録。2018年のドラフトで巨人から1位指名を受け入団。19年4月4日の阪神戦でプロ初登板・初先発・初勝利をマーク。21年には11勝を挙げる活躍を見せた。22年に左ヒジのクリーニング手術を受け、23年は育成選手としてスタート。同年4月に支配下登録されたが、6試合に登板に終わる。24年は一度も一軍登板がなく、オフに戦力外通告を受ける。25年から社会人野球のミキハウスでプレーしている