【平成の名力士列伝:寺尾】「今日一日の努力」を積み重ね息の長い力士人生を歩んだ「小さな鉄人」

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2025年06月14日 07:10  webスポルティーバ

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連載・平成の名力士列伝46:寺尾

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、小兵ながら"花のサンパチ"の花形力士として人気を博した寺尾を紹介する。

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【史上初の3兄弟関取に】

 引き締まった筋肉質の体躯に端正な顔立ち、回転の速い突っ張りを武器に溌剌(はつらつ)とした相撲ぶりでファンを魅了した寺尾は、横綱、大関にも引けを取らない花形力士として長く土俵を務めた。

 父で入門時の師匠である"もろ差しの名人"と言われた元関脇・鶴ヶ嶺も、38歳で引退するまで幕内を務めた息の長い力士だった。最愛の母、節子さんが若くして亡くなったのをきっかけに、安田学園高(東京)を2年で中退して昭和54(1979)年7月場所、母親の旧姓である「寺尾」の名で初土俵を踏んだ。

 同じ昭和38(1963)年生まれの横綱の双羽黒、北勝海、大関・小錦、関脇・琴ヶ梅らとともに"花のサンパチ"と言われ、土俵を華やかに彩ったが、入門時の体重は85キロ。「関取になれるとは思ってなかった。(三段目以上の力士から許される)雪駄が履ければいい」と、のちの姿は露ほども想像できなかった。幕下昇進時でも100キロそこそこしかなく、軽量に泣いて番付は一進一退を繰り返した。

 課題を克服しようと稽古以外にも夕方にはウエイトトレーニングで汗を流し、プロテインも常用して徐々に体重が増えてくると、幕下上位の壁も突破。

 昭和59(1984)年7月場所、新十両に昇進したことで、長兄で元十両の鶴嶺山、次男の関脇・逆鉾とともに史上初の3兄弟関取となった。関取デビューを機に四股名を井筒部屋ゆかりの源氏山としたが、負け越したために1場所で「寺尾」に戻り、以降はそのまま引退まで名乗り通した。

 十両は4場所で通過。12勝3敗で十両優勝を遂げ、昭和60(1985)年3月場所に新入幕。今でこそさほど珍しくはなくなったが、当時は寛政3年(1791)11月場所の谷風、達ヶ関以来、194年ぶりとなる兄弟同時幕内力士の誕生だった。

「十両は突っ張ると(相手が)下がってくれたけど、幕内は下がってくれない。重さが全然違いました」と1場所で十両へ逆戻りとなり、力の差を実感。猛稽古とトレーニングで鍛え直し、同年7月場所で再入幕を果たして以降は、長く幕内に定着するようになった。

 昭和61(1986)年9月場所は9勝6敗ながら、持ち前の激しい突き押し相撲が評価され、初の三賞となる敢闘賞を受賞。兄の逆鉾も技能賞を獲得し、史上初の兄弟同時三賞受賞の快挙を成し遂げた。

【三役への道と数々の名勝負】

 長く幕内を務めるが、新三役の座は遠かった。昭和63(1988)年1月場所2日目、横綱・大乃国を押し出して初金星を獲得するも、この場所は負け越し。しばらく平幕で燻り続けていたが、元号が平成に代わった最初の場所の平成元(1989)年1月場所でチャンスは訪れた。大きな転機となった場所と言ってもいいかもしれない。

 序盤で小錦、朝潮と2日連続で大関を撃破。さらに8日目は横綱・千代の富士に8度目の対戦にして初めての白星を挙げた。右四つ、左上手も取られてガッチリと組み止められ、最後は右で首根っこを押さえつけながら左から強烈な上手投げを放つ"ウルフスペシャル"が炸裂するかと思われた瞬間、右の外掛けが決まり、千代の富士は腰から崩れ落ちた。自身2個目の金星を獲得して8勝7敗としたこの場所は初の殊勲賞を獲得し、翌場所は新三役となる関脇に昇進した。

 1場所で平幕に陥落したものの、3場所ぶりに関脇に復帰した同年9月場所から平成3(1991)年5月場所までの11場所中、10場所で関脇、小結に在位。すっかり三役にも定着した。この間の26歳から28歳ごろまでが、振り返ってみれば寺尾の全盛期と言えた。しかし、小結だった平成3年3月場所11日目、23年間の現役生活のなかで最も悔しい思いを味わうことになる。

 前頭13枚目でこの場所を迎えた18歳の貴花田がただひとり、全勝ターン。「負けないで俺の前に立っていてくれ。絶対に俺が止める」という小結・寺尾の願いがかない、11日目に両者は初めて顔が合った。果たして、寺尾は高速回転の突っ張りを繰り出すが、10代の若武者の下半身はびくともしない。攻めきることができず、最後は押し倒されると悔しさのあまり、引き上げる花道でタオルとさがりを下に叩きつけた。

 すでにプロキャリア10年以上の三役の常連は「高校3年生(の年齢の力士)には負けないだろうと思っていたけど、とんでもなかった。ものすごくショックだった」とのちに語っているが、翌5月場所は大銀杏が大きく乱れるほど、頭をつけながら寄り倒す執念の相撲でリベンジを果たした。

【満身創痍ながら39歳まで続いた現役生活】

 この場所を境にその後は、ほぼ平幕で過ごすことになり、平成9(1997)年3月場所13日目の旭鷲山戦では右足親指を骨折し、翌日から入門以来初の休場。初土俵からの連続出場記録は当時史上5位の1359で途切れてしまったが「意識しすぎていたのがダメだった。記録が途切れてよかったと思っている。初心に戻って相撲が取れるようになった」と逆に吹っ切れたようだった。

 平成13(2001)年5月場所を最後に幕内復帰はならず、力士生活晩年はさらに休場が目立つようになった。満身創痍の体で幕下への陥落が避けられなくなった平成14(2002)年9月場所千秋楽、39歳で引退を表明。"不惑関取"にはあと3場所及ばなかった。それでも「40歳という目標があったので幸せでした」と最後まで前を向きながら土俵を去った。

「今日一日の努力」

 ファンにサインを頼まれると色紙には四股名の横に必ず、そうしたためた。入門時は関取になることすら想像できなかった。その日の稽古が終わると「明日、もう一日頑張ろう」。その積み重ねで痩せっぽちの少年は"鉄人"と言われるまでになり、ファンの記憶に残る名力士となった。

「お相撲さんは好きだし、相撲界も好き。だけど、相撲は好きではなかった。相撲を取るのが苦しかった」と引退直後、ポツリと語ったことがある。令和5(2023)年12月17日、うっ血性心不全のため、60歳の若さで亡くなった。"鉄人"と言われていたが、心臓に持病を抱えながらの現役生活は、われわれの想像をはるかに超えた過酷なものだったに違いない。

【Profile】
寺尾常史(てらお・つねふみ)/昭和38(1963)年2月2日生まれ、鹿児島県姶良郡出身/本名:福薗好文(ふくぞの・よしふみ)/所属:井筒部屋/しこ名履歴:寺尾→源氏山→寺尾/初土俵:昭和54(1979)年7月場所/引退場所:平成14(2002)年9月場所/最高位:関脇

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