被爆直後の広島知る写真展示 東京目黒で「被爆80年企画展ヒロシマ1945」

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2025年06月24日 14:20  OVO [オーヴォ]

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東京都写真美術館で開催中の「被爆80年企画展ヒロシマ1945」

 JR恵比寿駅の動く歩道を降りて数分、東京都写真美術館(東京都目黒区)で開催中の「被爆80年企画展ヒロシマ1945」(中国新聞社・朝日新聞社・毎日新聞社・中国放送・共同通信社主催、8月17日まで)に足を運ぶ。米軍が広島市に投下した原爆被害の惨状を記録した当時の写真約160点、映像2点を胸に刻む。

 訪れた6月19日は都内でも30度を超える真夏日。館内に入ると冷気が心地よく、ハンカチをポケットにしまって順番通り左に進む。最初に見たのは、文字パネル「はじめに」。今回展示の「事実をありのままに記録した写真と映像」は、人間が自ら開発した武器(たった一発の爆弾=原爆)で地球を破滅させ得るという「人類への警告」とある。またこの「写真と映像は、終戦直後の日本軍による焼却処分や占領期の米軍による提出要求に撮影者があらがい、守り抜いた資料でもある」と述べる。

 いま目の前にある館内展示の写真・映像が、日本の陸軍、進駐軍、連合国軍総司令部(GHQ)、新聞社上司の「焼却、提出」処分の意向にあらがい、撮影者たちが「ひそかに残しておいた」「自宅の縁の下に隠しておいた」「提出をかたくなに拒んだ」結果、われわれに伝えられていることが、ほかの文字パネルでも強調されている。

 展示写真に添えられた20人以上の撮影者たち(写真店主や報道機関のカメラマン、広島市民ら)の顔写真付きパネルが、歴史の“隠ぺい”に抵抗した人たちの横顔を伝えている。一人一人のパネル紹介文を読み進めるうちに、一部を除いてほとんど同じ文字で終わっていることに気づく。「80歳で死去」「93歳で死去」「67歳で死去」「49歳で死去」…。

 作家の伊兼源太郎氏が「戦争体験者が残した文字だけで(戦争を)学ぶ時代がくる」と5月の全国紙で指摘していたが、貴重な写真・映像を残してくれた撮影者の“肉声”に触れるタイムリミットが迫っていることをあらためて実感する。


 写真は、原爆さく裂から2〜3分後のきのこ雲や原爆投下直後の負傷者の群れ、全身やけどの男性、火葬される兵士の遺体、老若男女の区別がつかない遺体など、いずれも永遠に直視すべき事実を写したものが並ぶ。

 原爆さく裂から2〜3分後のきのこ雲を撮影したのは当時17歳の山田精三氏(1928年〜)。夜間中学に通いながら中国新聞社で働いていた時、撮影した。この「地上から最も早く捉えたきのこ雲」の写真から、米映画監督デビッド・リンチがテレビドラマ(ツイン・ピークスリミテッド・イベント・シリーズ)で映像表現した人類初の核実験「トリニティ実験」(1945年7月16日午前5時29分)の光景を連想した。トリニティのきのこ雲がなければ、この山田さんの写真もなかったはずだ。この写真を見ている間、リンチがトリニティの映像中に流した前衛音楽「広島の犠牲者に捧げる哀歌」を胸の内で聴く。

 負傷者の群れの写真は「御幸橋西詰めの惨状」のタイトルで2枚展示されている。撮影日時は45年8月6日午前9時半〜11時ごろ。撮影者の松重美人氏(1913〜2005年)は撮影時の様子を次のようにつづる。

 「この世の人間とは思えぬ者ばかりが何十人もうめき泣いたりしている」「体を動かすこともできない母親の胸にすがりつく幼児の姿。赤ちゃんを横抱きにかかえ『目をあけて、目をあけて』とその子の名前を呼びながら、泣き叫ぶ母親」

 この写真の中で背中を向けた短髪の少年は、中沢啓治氏の漫画『はだしのゲン』と同じ年ごろだろうか。背の高い帽子をかぶった大人の男性は、元(ゲン)に親切だった朴さんのように子どもに優しかっただろうか。「ゲン」で印象に残ったキャラクターがすぐ浮かぶ人物が写真の中にいる。先に進むごとに目に入る写真の中に次々と「ゲン」の登場キャラクターを連想させる人物を見つける。


 「広島赤十字病院で横たわる負傷した幼児」の写真は幼くして亡くなった元の妹・友子を、「頭髪の抜けた少女」の写真は母親の髪の毛で作ったカツラを身に着ける元の同級生少女をイメージしながら見た。肉親が行方不明になった幼子20人以上が写る「迷子収容所」の写真(45年秋撮影)は、元の亡くなった弟と、うり二つの隆太や勝子、ムスビら孤児たちの姿を重ねた。

 学術調査に伴う記録動画フィルムの一こまの写真、「兄におんぶされた頭に包帯を巻いた男の子(当時3歳)」の姿は特に記憶に残った。この男の子と5歳ぐらいしか離れていない伯父が、男の子と同姓同名だったからだ。その男の子は被爆から77年の2022年、中国放送(RCC)の取材に「原爆で受けた傷や放射線の被害、その心配は一生続く。“原爆は一生の病”と伝えたい」と初めて重い口を開いたという。

 さらに映像で強く印象に残ったのは、被爆後の焼け野原をゆっくり進む、木材のようなものを積んだ荷馬車だ。『ゲン』にも、漫画家白土三平氏の被爆少女を主人公にした作品『消え行く少女』にも被爆する馬が印象深く描かれている。ピカソのゲルニカにも苦しんでいる馬のようなものがいた。広島市で被爆した小説家・詩人の原民喜氏は「テンプクシタ電車ノワキノ 馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ プスプストケムル電線ノニホヒ」の一節を含む詩を残した。

 牧歌的な運搬手段である荷馬車と原爆の“つながりのなさ”が、逆に荷馬車の映像を忘れがたくした。


 入館およそ2時間後に、出口に向かう。来館者が最後に見るように配置された出入口横のパネルには「このような記録は、私たちの写真が永遠に最後であるように」(林重男氏)の言葉が刻まれている。この言葉に歴史の隠ぺい、忘却にあらがった撮影者たちの抵抗の精神を感じる。

 訪れた6月19日は、ちょうど80年前に、ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕(ごう)に、米軍がガス弾を投下し、壕にいた約100人のうち学徒35人を含む80人余りが犠牲になった日だ(琉球新報「きょうの沖縄戦1945」参照)。

 帰路は動く歩道を避け、ゆっくり通路の真ん中を歩いて恵比寿駅に戻る。まだ記憶が鮮明な写真や映像について思いめぐらすには、自分の足で一歩一歩進むぐらいのスローペースがちょうどよい。かばんの中にはこの日の展示写真を繰り返し見るために購入した企画展の「図録」(2420円)が納まっている。

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