佳子さまが母・紀子さまと慰霊の旅へ、原爆を通じてつながる元侍従と雅子さまの“80年越し”の縁

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2025年09月07日 21:00  週刊女性PRIME

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広島市を訪れ、原爆を題材にしたミュージカルを鑑賞した紀子さまと佳子さま(2025年8月10日)

「心に残りました」

 秋篠宮妃紀子さまと次女、佳子さまは、8月10日、広島県を私的に訪問し、「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんの生涯を描いたミュージカルを広島市内で鑑賞した。

ミュージカル『PEACE ON YOUR WINGS』

 二人が見たのはアメリカ・ハワイ州の子どもたちによるミュージカル『PEACE ON YOUR WINGS』で、1945年8月6日の広島への原爆投下で、2歳で被爆し、10年後に白血病で亡くなった禎子さんが、平和への祈りなどを込めて病床で折り鶴を折り続けた姿や友人たちとの絆を描いている。

 公演後、二人は出演者たちと懇談したが、紀子さまは「意義深いことで感銘を受けました」と述べ、佳子さまは冒頭のように話したという。

 戦後80年の節目の年に広島を訪れた紀子さまと佳子さまの親子は、翌11日朝、雨が降る中、広島市の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に供花し、拝礼した。

 その後、二人は平和記念公園にある「原爆の子の像」を見学している。また、同じ市内にある広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」を訪問し、佳子さまは「何をされる時間が楽しいですか」と質問するなど、入所者たちと懇談した。

 紀子さまは、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)の総合開会式に出席するため秋篠宮さまと一緒に、7月23日から1泊2日の日程で、広島県を訪れ、二人で原爆死没者慰霊碑に供花したばかり。佳子さまは、成年皇族になってから初めての広島訪問だという。

《佐々木禎子さんは2歳の時、爆心地から約1・6キロの楠木町(広島市西区)の自宅で被爆し、黒い雨に打たれました。爆風で飛ばされましたが、外傷もなく、元気に成長しました。スポーツが得意で、将来の夢は中学校の体育の先生。

 しかし、小学校6年で病に伏し、中学へ通うことはできませんでした。白血病の診断を受け、広島赤十字病院への入院を余儀なくされたのです。

 入院中、お見舞いとして名古屋から千羽鶴が贈られたのをきっかけに、「生きたい」という願いを込め、折り鶴を折り始めました。その願いもむなしく、体調は次第に悪化。8カ月間の入院生活の末、1955年10月25日、亜急性骨髄性白血病のため亡くなりました(略)》

 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターは、「佐々木禎子さんと原爆の子の像」の中で、このように紹介している。

《禎子さんが亡くなって3年後の1958年5月5日、平和記念公園に「原爆の子の像」が除幕されました。建立を呼び掛けたのは、禎子さんが通っていた幟町小6年竹組の同級生たちでした。(中略)

 やがて全国からたくさんの募金が送られてきました。広島市内の各学校の生徒会でつくる「広島平和をきずく児童・生徒の会」が結成され、団結の会のメンバーも加わって募金活動が進められました》

 と、平和メディアセンターの説明は続く。

原子爆弾の投下という悲惨な歴史

 また、広島市公式ウェブサイトは、「原爆の子の像」の概要について次のように紹介している。

《「原爆の子の像」は、年間を通じて、たくさんの千羽鶴が捧げられていることから、別称「千羽鶴の塔」とも呼ばれています。

 像の高さは9メートルで、その頂上には折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、平和な未来への夢を託しています。側面左右の二体は少年と少女と明るい希望を象徴しています。像の下に置かれた石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています(略)》

《六日月曜日、(略)午後七時過ぎ、海軍省より電話を以って侍従武官府に対し、呉鎮守府の情報として本日午前八時頃、広島市上空に来襲の米軍爆撃機より特殊弾攻撃を受け、市街の大半が倒潰、(略)被害甚大である旨の通報あり。(略)

 なお、翌七日午前一時三十分頃、同盟通信社は、米国大統領及び英国首相の声明として、八月六日広島に原子爆弾を投下した旨の米英両国の放送を傍受する》

 これは、『昭和天皇実録』の、広島に原子爆弾が投下した日の生々しい記述である。昭和天皇は、佳子さまの曽祖父にあたる。

 秋篠宮さまにとっては祖父にあたり、殿下が幼少時には昭和天皇と時々、対面して懇談していた。昭和天皇は、礼宮文仁親王殿下にちなんで、秋篠宮さまを「アヤちゃん」と呼び、とても可愛がっていた。

 1945年8月8日の『昭和天皇実録』は、次のように書いている。

《この種の兵器の使用により戦争継続はいよいよ不可能にして、有利な条件を獲得のため戦争終結の時機を逸するは不可につき、なるべく速やかに戦争を終結せしめるよう希望され(略)》

 戦争を終わらせるため、いよいよ昭和天皇が腹を固めていく様子がよくわかる。そして、8月15日、終戦を迎える。9月1日には次のような記述がある。

《(略)今般、広島・長崎の両市において戦禍による被害甚大につき、侍従永積寅彦を広島市へ、同久松定孝を長崎市へそれぞれ御差遣になる。(略)永積は三日に広島県庁において聖旨を伝達し、同県知事高野源進より、情報を聴取の後、大本営において中国軍管区司令官谷寿夫より概況を聴取する(略)》

 この7月中旬、「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を訪れた私は、会場で見た当時のニュース映像に驚いた。そこには、紀子さまにとってなじみのある永積寅彦氏が映っていたからである。実録にあるように永積侍従は、広島に原爆が投下された後、昭和天皇によって被爆地に派遣されていた。

 戦後、侍従次長や掌典長などを務めた永積氏は晩年、結婚前の紀子さまと皇后雅子さまのお妃教育を担当していたこともあり、二人にゆかりの深い人物でもあった。つくづく私は、歴史の持つ不思議さを感じた。

 永積氏を接点として原爆と、紀子さまや皇后雅子さまがつながる、結びついていると思えたからである。歴史の奥深さを感じざるを得ないのである。

 80年の歳月は長くはなく、広島と長崎への原子爆弾の投下という悲惨な歴史は、決して遠い過去のものではない。今からでも遅くはない。再び、大きな間違いを起こさないために、佳子さまや私たちにやれることは、まだまだたくさんあると思う。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に2025年4月刊行の『悠仁さま』(講談社)や『秋篠宮』(小学館)など

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