
Ye(カニエ・ウェスト)について、もはや音楽ではなく、彼の暴挙によって知る人の方が多くなってしまった気がする。2025年2月に、ほとんど全裸のような出立ちの妻ビアンカ・センソーリと共にグラミー賞のレッドカーペットに登場したことは、Yeの音楽を聴いたことがない人まで知るゴシップニュースになった。またここ数年の欧米メディアのYeに関するニュースは、音楽よりも彼の反ユダヤ主義発言とそのバックラッシュに関するものばかりだ。
ナチズムに近づいた大物アーティストは、Ye以前にも存在していた。1970年代、キリスト教福音派に接近していた頃のボブ・ディランは、自分自身もユダヤの出自であるにもかかわらずステージ上でユダヤ人を呪ったことがあった。また同じく70年代のアルバム『ステイション・トゥ・ステイション』の時期に、デビッド・ボウイは記者会見で英国にはファシズムが必要で、自分こそその指導者に相応しいと述べ、また若きキャメロン・クロウとのインタビューでは、ヒトラーを「最初のロックスターの一人」と呼んだ(参考:GQ『One Last Look at the Old Kanye West』By Alex Pappademas)。しかし、こうした言動は、彼らのキャリアを決定的に方向づけることにならなかった。「ボウイ」、「ナチス」などとググることができない70年代には、こうした発言は一時の気の迷いとして人々に忘れられた。ディランもボウイも、Yeのようにその態度を極化することもなく、まるでそんな暴言を吐いたこともなかったかのように次のステップに進んでいったのだ。
しかしYeの場合、反ユダヤ主義的言動は人々に注目され、エスカレートし、彼のキャリアに決定的な影響を及ぼすことになった。それは2022年にファッション業界や音楽業界でのユダヤ人支配層による搾取を糾弾することから始まった。2023年には一旦謝罪したものの、2025年の年明けから再び始まった言動はエスカレートし、2月のスーパーボールのCMを通じ自身のアパレルサイトでナチスの鉤十字のTシャツを販売し、タレント・マネジメントから契約を切られた。5月には「Heil Hitler」をリリースし、オーストラリアに入国禁止になった。9月には2019年以降のYeの葛藤の記録、ドキュメンタリー「In Whose Name」が米国内限定で公開されたが、メディアには、Yeを無視できないものの容認もできないライターたちによる重苦しいレビューが並んだ。そして11月7日、Yeは突然ユダヤ教のラビに面会し、これまでの反ユダヤ主義的な言動を詫びる動画を公開した。その翌日にはトラヴィス・スコットの日本公演にゲスト出演し「更生」を宣言したようにも見える。しかし、良くも悪くもYeは相変わらずYeのままであり続けるだろう。つまり2019年のインタビューで彼自身が語ったように、あくまでも正直に「目の前のものを映す湖」であり続けるのだと思う。
Yeの態度は一貫していて、大きく変わったのはむしろ社会の方なのかもしれない。2025年3月にアルバム『Bully』のデモを公開した後、彼は4月に黒色のKKK(米国の白人至上主義秘密結社)のコスチュームを着てDJアカデミクスのインタビューに応じ批判を浴びた(※1)。5月には「WW3」、「Cousins」、「Heil Hitler」というタブーを犯すことを自己目的化しているような楽曲が収録されているアルバム『In a Perfect World』がリークされたが、そのジャケットにも赤と白のKKKのコスチュームを着た人物が映っていた。
視覚的にも強烈なこのKKKのコスチュームをYeが最初に用いたのは、しかし、2025年が初めてのことではない。彼は、2013年の実験的なスタジオアルバム「Yeezus」のリードシングル「Black Skinhead」のMVとジャケットで、黒いKKKを印象的に使っていた。タイトルになっているスキンヘッドは、ネオナチを想起させる不穏な表現だと当時も指摘されていた。フーリガンなどの暴徒を思わせる、激しいビートを刻むこの曲でYeは、「Pardon, I'm getting my scream on(失礼、叫びまくるぜ)」という歌詞の通り、雄叫びとともに、自らのクリエイティビティについてボースティング(自己顕示)をし、自分を文明社会のなかの「猿(キングコング)」として貶め続ける人種差別的な社会を糾弾している。この楽曲、そして黒いKKKが登場するMVは、2013年当時、批評家たちによって高く評価された。
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それから12年後、同様の振る舞いが、かつてのように「前衛的なアート」として評価されない理由は何だろう?もちろんこの間の差別的な言動の積み重ねによって、Ye自身が社会的信用を失ったことが大きく影響しているのだろうが、70年代のディランやボウイの例も併せて考えるならば、彼個人の問題だけでなく、社会自体の変化も大きな要因なのではないかと問いたくなる。ラッパーのオープン・マイク・イーグルは、Yeのショック戦術は、日々世界を驚かせている第二次トランプ政権の動きや、アテンション・エコノミーの変化によって、ほとんどかき消されてしまっていると指摘した。「お前(Ye)がかつて言っていたカウンターカルチャーのたわごとが、今では完全に主流になっている。Twitterにはナチスだらけだ」。確かに2025年現在、鋭利な言葉でショックを与える暴言はネット空間で常態化している。結果、規範やタブーに反することで人々の常識を揺さぶるという、かつて前衛アートが得意とした手法は機能しづらくなった。米国ではヘイト・クライム、特に反ユダヤ主義の犯罪が増加している。あらゆる差別はあってはならないという前提でのことだが、Yeは現在のユダヤ人ヘイトを先取ってしまっていたようにさえ見える。2003年にデビューしたYeが映し出してきた21世紀の社会とは果たしてどのようなものなのか。
(※1)この衣装は、再開が告知されていたゴスペルコーラスによるパフォーマンスSunday Serviceの新しい衣装としてInstagramにアップされてもいた。最初から最後まで立ちっぱなしの不可思議なこのインタビューでYeは、黒いKKKの姿でヴァージル・アブローなどの盟友たちをこき下ろし、更に孤立を深めた。
熱狂的なファンではなくともYeの音楽を聴き続けている筆者のような者にとって、彼は、才能に溢れていて純粋で、気持ちは理解できるが、困ったことをしでかす子供っぽい友人のような感じではないかと思う。理解できる「気持ち」とは何かと言えば、それは「自由でいたい」というストレートな思いだ。母親に溺愛された我儘な一人っ子を地で行くYeは、エゴイズム丸出しで、グラミー賞をもらおうが、億万長者になろうが「自由でいたい」と訴えてきた。彼の自由を阻むものの筆頭は人種差別である。歴史を通じ社会にがっちりと組み込まれたこの差別構造を糾弾することには正当性がある。だから彼の振る舞いがどんなに馬鹿げていて、しばしば暴力的であっても、少なくとも2010年代前半まではYeを支持する人たちは大勢いた。
2009年のMTV ビデオ・ミュージック・アワードで、ビヨンセが受賞しなかったことに腹を立て、受賞者のテイラー・スウィフトの受賞スピーチに乱入した悪名高い事件に対しても、「Jack Ass(大バカ)」と罵ったオバマ元大統領もいれば、白人至上主義の音楽業界を内側から撹乱しているという肯定的な評価もあった(※2)。この出来事を2016年の「Famous」で「I made that bitch famous (俺がこのビッチを有名にしてやったからだ)」と歌ったYeは邪悪そのものだったが、この苦い経験がマジョリティ女性の代表格であるテイラーを目覚めさせ、マイノリティ擁護に向かわせるという肯定的結果をもたらしたことも否定できない。
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同曲のMVもまた非常に手の込んだ作品だった。テイラーとYe自身だけでなく、当時の妻のキム・カーダシアン、元彼女のアンバー・ローズ、曲にも参加しているリアーナ、そしてかつてYeが名指しで批判したことのあるジョージ・ブッシュ元大統領、そして当時大統領戦に出馬していたドナルド・トランプの蝋人形が裸で並んでベッドに横たわる生々しい映像は、Yeが得意とするどこかふざけているような同曲の曲調と相まって、「有名であること」に執着するセレブたちのグロテスクさを示す強烈なアート作品になっていた。同時に異人種間結婚が1967年まで違法だった米国の状況に対し、白人と黒人の乱交を思わせるこの映像は、明らかにタブーに触れるものでもあった。本作は、受賞こそならなかったが、欧米の複数のビデオ・ミュージック・アワードにノミネートされた。つまりこの時期までの彼の衝撃的な言動は、常識を揺さぶる対抗的なアートとして確かに機能していたのである。
2016年は「Famous」が収録された『Life of Pablo』がリリースされ、伝説的なリスニング・パーティーやツアーが行われた年だったが、その年の11月に精神的問題を理由に入院を余儀なくされて以降、Yeの言動に変化が生じる。精神疾患を発症したYeの言動はその攻撃性を強め、矛先も白人至上主義にダイレクトに向けられなくなった。2016年の12月には、白人至上主義的なアジェンダを掲げて共和党から大統領になったドナルド・トランプと面会し、2018年にはホワイトハウスを訪問してMAGAハットを被り、民主党支持の多いアフリカ系アメリカ人たちを深く失望させた。また同年の「奴隷制は自由選択のようだ」という発言は、アフリカ系アメリカ人を筆頭にリベラルな米国人から激しく非難された。
あくまでもYeの意図に即すならば、これらの振る舞いは、アフリカ系アメリカ人に向けたエンパワメントだった。つまり、彼自身の言葉を借りて言うならば「個人のパワーを自覚してほしい」と伝えたかったのであり、アフリカ系アメリカ人だからと言って民主党に投票することは、「単に言われたことをやっている」に過ぎない、彼の言い方で言えば「精神的に奴隷状態」だということに気づいて欲しかったのだと彼は言う。それは、マジョリティに認められるために道徳的に正しく振る舞おうとする「尊敬の政治」を、かなぐり捨てろという呼びかけだったのかもしれない。「黒人なのに」MAGAハットを被る自由、「黒人なのに」トランプを好きだという自由、All Lives Matterと書かれたTシャツを着て「黒人なのに」白人至上主義を表明するという自由をYeは見せつけた。その逆張り的な振る舞いは、あまりにもダイレクトに政治的で、アフリカ系アメリカ人を傷つけるものだったため、もはやアートとしては受け止められず、(当然と言えば当然だが)批判を増幅するばかりだった。コロナ禍の2020年には「バースデー党(Birthday Party)」という党名で大統領選に出馬して落選し、この頃から元妻のキムに距離を置かれるようになる。その後も批判されればされるほど、彼は邪悪に振る舞うようになり、2022年以降には冒頭に述べたような反ユダヤ主義とナチス賛美という陰謀論に行き着いてしまった。
Yeの振る舞いは乱暴すぎるが、人々が徐々に気付きつつある事実を顕在化させたと言えなくもない。Yeがトランプに会った2016年からの8年間とは、エリートが中心になった米国の左派がその偽善を露わにし、労働者や一部のマイノリティから見限られていった時期だったからだ。2023年に発表されたアフリカ系英国人の政治哲学者、リアム・コフィ・ブライトが示した世界観は、おそらくYeにも共有されている。ブライトは「白人の心理ドラマ」(※3)という論文で、米国政治は「人種差別などもう存在しない」と考える白人右派と、人種差別に対して罪悪感を感じている白人左派同士の闘争であり、アフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種は彼らの心理劇の道具に過ぎないことを示した。有色人種が民主党を支持することは、左派の白人の罪悪感の解消のために寄与することで、反対に人種差別などないように振る舞うことは、右派の白人の世界観の維持に貢献することを意味する。両陣営の白人(マジョリティ)の主要関心事は自己承認と互いの陣営をやっつけることで、有色人種(マイノリティ)はその道具に過ぎない(※4)。Yeはケンドリック・ラマーとドレイクのビーフ〔ヒップホップ文化の喧嘩〕に際し、二頭のゴリラが檻の中で戦っているのを人間が眺めている動画をXにアップし、マイノリティ同士の戦いは所詮マジョリティの道具やエンタメにしかなっていないと訴えていた。
しかしながら、人種差別を糾弾することを止めてMAGAハットを被る黒人になったところで、左派の白人への従属から右派の白人への従属に移行したことにしかならず、そこに自由はない。最終的にトランプ支持を止めたYe自身もおそらくわかっていたことだろう。根本的に変わらない構造的差別のなかで、多くの人間は妥協するか差別について考えないようにして生きるわけだが、Yeは怒り続け、自由になろうともがき続け、その果てに一旦本当に壊れてしまったのではないかと思う。Yeがどんなに暴言を吐こうと、彼とのコラボ曲の演奏などを通じ支持を表明していたアーティストには、トラヴィスだけでなくフランク・オーシャン、リアーナ、The Weekndなどがいて、ケンドリック・ラマーに至っては「Heart Part 5」のバース2でYeの苦しみについて触れていた。彼らはYeの怒りに根本的には共感しているのだろう。Yeの破滅は、結局のところ、白人右派のみならず白人左派も根本的には変える気がない、しぶとい白人至上主義を暴露している。
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(※2)Nicholas D. Krebs, “Confidently (Non)cognizant of Neoliberalism: Kanye West and the Interruption of Taylor Swift”, Julius Bailey ed.,The Cultural Impact of Kanye West, Palgrave Macmillan, 2014,pp. 195-208.
(※3)Yeは白人女性と結婚することで、自分が内面化した白人至上主義との葛藤も抱えている。彼の葛藤はキム・カーダシアンとの離婚後の彼女と子供を持ったこと自体を後悔する暴言に表れているが、キムや子供の気持ちを思うと痛ましいものがある。
(※4)この図式は様々なマジョリティとマイノリティの関係(フェミニスト男性VS家父長制的男性と女性、シス男女の左派VS右派とLGBTQ)に該当するように思われる。
しかし、左派も右派も信頼できないならば、なぜYeは敢えてナチズムという極右に接近して行ったのだろうか? この問いには様々なレベルで答えることができる。最も表層的なレベルで言うならば、実際ボウイにもそのような時期があったように、ポップスターの肥大化するエゴがそうさせるのか、ヒトラーに親近感を覚えるアーティストはこれまでにもいた。またナチスのコスプレにしても、あらゆる支配からの自由の表明として、ヘヴィーメタルやパンクといったジャンルではしばしば出現するパフォーマンスだった。
もう一歩踏み込んで2010年代特有の文脈で考えるならば、Yeの右傾化は、この時期に流行した左派による「キャンセル・カルチャー」に対する反動的反応だったと言える。「表現の自由」を奪われたと感じた一部のアーティストたちは右傾化し、露悪的にそれを標榜するようになった。この時期に突如右派政党支持やナショナリズムを表明してファンを動揺させたアーティストには、Yeだけではなく、モリッシーやニック・ケイヴもいた(※5)。2023年にドジャ・キャットがネオ・ナチのコメディアン、サム・ハイドのTシャツを着用したのもその一例だろう。Yeがアルバム『DONDA』に「キャンセル」されたダベイビーやマリリン・マンソンを起用し、リスニング・パーティーに出演させ、また性的虐待で起訴されたショーン・ディディ・コムズを擁護したのも、明らかにこの流れのなかの反動的・対抗的なパフォーマンスだった。
同時に、さらに一歩踏み込んで考えるならば、Yeがその一翼を担ったここ10年の反動主義は、インターネット、特にSNSという21世紀に急激に一般化した情報環境から必然的に生まれたもののように見える。SNSが始まったのは2002〜04年頃だが、SNSに「like /いいね」ボタンやリツィートボタンが加わったのは2006〜9年だそうだ。この新たな機能によって、単にコミュニケーションを促進するはずだったSNSは、他人からの評価を稼ぐためのツールになった。アテンション・エコノミーとは、こうした評価獲得競争のなかで形成された、注目を集めること自体が収益に結びつくシステムのことである。2003年にデビューしたYeは、いみじくもルー・リードに「SNSとヒップホップの間に生まれた子供」と呼ばれたように、ネット上の情報操作、何よりSNSの発信に異様な才能を持っていた。Yeには、アテンション(注目)を集めようとしているだけだという批判が一貫して寄せられてきたものの、彼がXに140文字の投稿を集中的に連投する様は、文字だけとは思えないほどパワフルなパフォーマンスだった。
ヒトという生き物にとって、他人の評価は、自分の社会的な立場を左右する重要な意味を持つ。そのため、私たちは自分の評価に関わる事柄に対して感情的になりやすく、冷静でいることがとても難しい。SNSはこの傾向をドライブさせることで、社会を大きく変容させてきた。またアテンションを集め、評価を得るためには、人々の感情を掻き立てる道徳的な主題が効果的である。こうしたことからSNS上には、誰かを批判して、自分の正しさや善良さをアピールする発信が目立つようになった。哲学者のジャスティン・トシとブランドン・ワームケが「道徳的スタンドプレー(Moral Grandstanding)」と呼ぶこの振る舞いは、自ずとエスカレートし、派閥を形成する。
もちろん「道徳的スタンドプレー」は、善い行いを奨励し、正義を実現しようとしているマイノリティの組織化にも役立ち得る。しかし、このスタンドプレーが氾濫すると、避け難く厄介な現象が生じる。これら三つの厄介な現象が、Yeにも表出した2020年代の反動主義を招いたように私には見える。一つ目は善悪などの道徳的な判断基準の弱体化だ。「道徳的スタンドプレー」は心理学で「美徳シグナリング」とも呼ばれる、「道徳的に優れた人間だ」という自己承認を他者から得ようとするパフォーマンスである。「道徳的スタンドプレー」では、その言動の価値判断基準が、意識的、無意識的にかかわらず他人の評価になるため、偽善が生じやすい。より悪いこととしてスタンドプレーをする人にとっても、それを見る人にとっても徐々に、正・不正、善・悪の区別自体が重要ではなくなってくる。
二つ目の現象は、様々な善行が偽善に見える結果のシニシズム(冷笑主義)である。他人の問題提起へのただ乗り(フリーライド)であることも多い「道徳的スタンドプレー」を多数目撃するうちに、誰の「善い」発言も信じられなくなって虚無感に襲われる人がいるのは当然だろう(※6)。ネット空間で増幅される「道徳的スタンドプレー」の氾濫に晒されているうちに、特定のイデオロギーを強く持たない中道および穏健派は、全てが偽善に見えるというシニシズムに陥っていく。
そしてその結果、三つ目の現象として、全てが剥き出しになることを求める願望が生じる。要するに何も信じられない状況であるからこそ、いっそ多少暴力的であっても嘘のない「本物」の世界を見たいという願望が生まれるのだ。こうした願いを持つ者にとって、右派の価値観は、左派の価値観よりも生き物としての自然本性に則しているため、より「本物らしく」捉えられる可能性が高い。つまり身内に優しく、外敵に厳しく、優劣は力によって決まるという世界観は、一旦理想主義に懐疑的になった人たちにとってより「本物」らしく感じられることになる(※7)。
(※5)同時期には、ニューヨークの前衛的なカルチャーを好むヒップスターの若者たち、そしてイーロン・マスクらテック業界の右傾化が起こっていた。
(※6)一点目、二点目はトシとワームケが指摘していることで、三点目は筆者の考えである。
(※7)私自身はこの暴露の願望こそが、ここ10年に台頭した「カウンターエリート」と呼ばれる人たちや、資本主義やテクノロジーを極限まで加速させるしかないと主張する加速主義の台頭、そして何より自身の利益関心のために何かを壊すこと、誰かを傷つけることを全く厭わないトランプ大統領誕生の原動力の一つではないかと考えている。
Yeは、この「真実」を「暴露」し、全てを顕(あらわ)にしようとする姿勢においても先駆的だった。インターネットという全てが透明化され得る情報環境では、他人よりも情報を持つこと、つまり真実を「暴露する」側に立つことこそが「自由」を意味する(※8)。そのことをYeもまた直感的に理解していたのだろうか。彼の音楽は、デビュー時から、歯に衣を着せないリリックが特徴的だった。自動車事故で九死に一生を得て、顎にワイヤーを入れたことをラップしたデビュー曲「Through The Wire」に始まり、Yeのリリックはリアルな現状認識と本音、その馬鹿馬鹿しさを描くユーモアにおいて傑出していた。それはある時には「Famous」のような暴力的な内容になることもあれば、別の時には「Heartless」のようにこの上なく繊細で内省的なリリックを生み出すこともあった(この影響下でドレイクらのエモーショナルなラップが生まれた)。何より彼の正直さに衝撃に打たれて、ファンになる者は多かったはずだ。
Yeの全てを剥き出しにする姿勢は、彼の政治的な発言にも及んだが、やはり両義的で、ジョージ・ブッシュ大統領の災害対策に対する正当な抗議になることもあれば、陰謀論を唱える右派インフルエンサーたちとの親交になることもあった。Yeが親しいアフリカ系アメリカ人の右派インフルエンサー、キャンディス・オーウェンズが自身の番組名に冠していた「レッドピル」は、映画「マトリックス」にちなむ真実への覚醒を意味していた。真実の「暴露」こそトランプ時代の米国右派の特徴であり、それが頻繁に陰謀論に結びついている。
当初はある程度妥当性があったユダヤ人支配層に対するYeの批判が、ヒトラー賛美のような決して容認できない極端なものになってしまった背景には、「暴露」もまたアテンション獲得のための競争になった経緯がある。こちらの競争は、「美徳シグナリング」への対抗という性格上、「悪徳シグナリング」と呼ばれる非道徳性の競い合いになっていった。どちらのシグナリングも、敵視する集団の価値を否定して自集団の結束を固めるという仕方で展開し、結果、上記で述べた道徳的な価値判断基準の弱体化は一層進んだように見える。この悪徳競争のなかでYeもまた、自身をナチスと名乗るようになり、陰謀論に落ち込んでいった。Yeがその行いを悔い改めたように見える2025年11月現在、気がつけばこの悪徳シグナリング競争の勝者の一人、反ユダヤ主義を掲げるZ世代の極右インフルエンサー、ニック・フエンテスはTikTokも賑わす若者世代の人気者になり、共和党のブレインからも無視できない存在になりつつある。フエンテスの人気の理由は何より「どんなことでも言う気がある」ことだ。このフエンテスを2022年にトランプ大統領と面会させたのは、ほかでもないYeだった。
(※8)ピーター・ティールがアメリカ同時多発テロ後にビッグデータ分析のための会社、パランティア・テクノロジーズを立ち上げたのはそのような理由だと推測される。
道徳的なスタンドプレーが横行し、善悪の基準が失われていくなかで、Yeは、彼にとっての「真実」を暴露する「自由」を実践し続けてきた。それは一方で、当時の左派政治の欺瞞を暴き、白人至上主義の根深さを告発する行為だったが、他方で極端な悪徳シグナリングにもなった。そのどちらもが2000年代初頭から2020年代までの社会現象を映し出していたのは、これまで述べた通りである。後者は彼の音楽にグロテスクで退廃的な表現を招き寄せた。今年5月にリークされた『In a Perfect World』に収録された曲は、差別に溢れたリリックを横に置いても奇妙な音楽だ。壮大な展開に比して音が妙に空疎だったり、反対に過剰なリバーブがかかっていたりして、虚心に聴いてもどこか病的で退廃的な印象を受ける。
これに先立ち4月にYe本人がデモ版を公開し、現在その完成が待たれているアルバム『Bully』は、GQの記事「It Brings Us No Pleasure to Report that Kanye West Made a Good Kanye West Album(カニエ・ウェストが良いカニエ・ウェストのアルバムを制作したと報告することは私たちにいかなる喜びももたらさない)」が示すように、Yeを見限っていたライターでさえ「良い」と認めざるを得ない素晴らしい音楽だった。静謐で内省的な雰囲気は、2008年の名盤『808s & Heartbreak』を思い起こさせるとも言われたが、『Bully』に満ちているのは、紛れもなく0年代ではなく2020年代の空気である。それは暴力の果ての疲弊であり、悲しみに浸るというよりは諦念であり、一旦全てを失った末に優しい気持ちが少しずつ満ちてきて、何かを始めることができそうな、そのような空気である。一言で言うならばそれは「赦し」、何より自分に対する「赦し」であるように私には感じられた。
このように言うと、当時反ユダヤ発言をしまくっていたYeが自分を赦してどうする?というツッコミも聞こえてきそうだが、しばしば人を傷つけるような言動をする罪深いYeの音楽において「赦し」は最も重要なテーマの一つであり続けてきたと思う。ライブでもファンから大きな歓声が上がる曲の一つ、2010年のヒット曲「ランナウェイ」も、最低な奴らを祝福しつつ、最低な自分から逃げることを勧めるという無茶苦茶な「赦し」の曲になっていた。
キリスト教の中心テーマである「赦し」は、彼の信仰とも結びついている。おそらく母親からの影響でキリスト教に親しんでいたYeは、2019年頃に回心体験を経て『Jesus is King』を制作し、Sunday Serviceを始めた。『Jesus is King』は、回心したばかりのYeの躁状態がそのまま形になっているかのようなテンションの高いアルバムだ。これに比して、離婚に際し元妻キム、神、そして亡くなった母ドンダに「赦し」を乞い求める2021年の『DONDA』の方には、深く心に訴えるゴスペル曲(「24」、「Lord I need you」、「Come to Life」など)が目立っているように思う。2024年のタイダラーサインとの『Vultures 2』には拝金主義に陥っているヒップホップ業界の罪の赦しを神に求めた「River」が収録されていた。そして『Bully』では「Preacher Man」の中で、改めてYeの神への信仰が地に足のついた形で登場している。
「Preacher Man」とは言うまでもなく牧師のことだが、イントロからサンプリングされているザ・モーメンツの「To you with Love」ではおそらく花婿役と見られるボーカルが、伴侶の手をとって牧師の前に進み出る場面を優しく晴れやかに歌っている。それに重ね合わされる形で、Yeが、自分の成し遂げてきた軌跡をボースティング(誇示)し、同時にまだ自分のポテンシャルは汲み尽くされておらず、これからも突き進むという決意を静かに歌っている(歌っているのはAIらしい)。「Light 'em up, beam me up(彼らを照らし、俺を光で転送してくれ)」というラインには、Yeの好む「神=光」のイメージが見られるが、その曲調からはかつての「All of the lights」や「Ultra-Light Beam」が表現していたような目が眩むような光というより、穏やかな木洩れ陽のような柔らかな印象を受ける。Yeはこの曲でも真実を率直に語るという「暴露する姿勢」を崩していない。けれども、何よりベースに流れる優しい婚姻の歌が、Yeの進み出ていく先で、彼の告白を聞いているのはほかでもない神であり、その道のりの全てが神によって見守られていることを示唆している。
ネット上の喧騒だけではなく、世界各地の戦争も収束しない2025年も終盤になりつつある今、Yeが束の間示した優しい光が、現実の変化の兆しだと楽観的に言うことは到底できないだろう。実際、『Bully』のデモ版公開後1ヶ月の間に、今度は憎悪に満ちた『In The Perfect World』がリークされ、その1ヶ月後には『Bully』の一部が公式にリリースされるという目まぐるしく不安定な状況こそ、2025年という年を映し出していたように思う。
と同時に、アテンション・エコノミーによって醸成されたシニシズムなかで、悪徳シグナリングへと一層傾きつつある社会の外部に立つためには、Yeが示した「光」、つまり競い合うことをやめて、自分も他人も一旦赦すことが重要かつシンプルな方法であることもまた確かなことだと思われる。そもそも人間には「赦す」ことが困難であるからこそ、「赦す」ことができる「神」が必要とされるというのはキリスト教の基本的な教えであるが、ここまで他人の評価に対する注意が増幅されてしまった社会では、自分の価値基準を他人の評価に従属させない「何か」が必要とされているのは間違いがない。この光をもたらす「何か」が宗教である必要はないが、Yeの場合はキリスト教の神だった。
絶対的な自由を求め続けてきたYeは、2019年のゼイン・ロウによるインタビューで、自分にとっては長らくカルチャーこそが「神」で、自分はそれをドライブさせる立場だと思っていたが、結局カルチャーは消費する人々によって形作られているという不自由に気づいたと語った。そこで彼はイエス・キリストという人間を超えた「神」を信じることで、評価への従属から「自由」になったのだと言う。Ye は以下のように語る。
「俺はイエスが自分にしてくれことを伝えるよ。自分はもう奴隷じゃなくなったんだ。俺は今や神の子で、キリストを通じて自由なんだ(I’m letting you know what Jesus has done for me and in that I’m no longer a slave, I‘m a son now son of God, I’m free through to Christ. )。」
「俺はもうだれかを楽しませるためにここにいるんじゃない(I’m not here for anyone’s entertained.)。」
このように2019年に語っていたYeは、しかし、2022年以降に反ユダヤ主義という悪徳シグナリングに激しく傾いていった。それはすでに見て来た通りだ。おそらく彼は、これからも変わらず、時には悪徳に身を投じ、人間の残酷さや獰猛さを苛烈に表現し、また別の時には赦しを乞い、人間の無垢な精神をこれ以上なく美しい音楽へと結晶化することだろう。それは悪徳と美徳の両極を知るYeのようなアーティスト(※9)にしかできないことであり、私たちは彼のような芸術家を通じて、生きることの困難さと美しさ、罪と赦しを知るのである。最も罪深いからこそ最も救いに近いというその逆説性からも、Yeは非常にキリスト教的なアーティストだと私は考えている。
(※9)この系譜には、殺人を犯し、恩赦を乞いながら制作したバロック時代の画家カラヴァッジョやマタイ福音書を映画化すると同時に「ソドムの市」を撮ったP.P.パゾリーニ、そして敬虔なカトリックだったアンディ・ウォーホールのようなアーティストを列挙することができる。
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