生島ヒロシ、謹慎を振り返り「今は話せる場があるのが、本当にありがたい」トークライブで明かす

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2026年05月18日 22:10  日刊スポーツ

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トークライブ「もう一度、話したい」に出演した生島ヒロシ(左)と尼崎野昇氏

フリーアナウンサー生島ヒロシ(75)が18日、東京・四谷のY0TSUYA BOOKSでトークライブ「もう一度、話したい」を開いた。元日本テレビで「ラジかるッ」「おもいッきりDON」の総合演出を務めた、フリープロデューサー尼崎昇氏を相手に、現在、そして過去について振り返った。


昨年1月にコンプライアンス(法令順守)違反でTBSラジオ「おはよう定食/一直線」を降板して、芸能活動休止を余儀なくされたことを振り返った。「知り合いからもらった画像をみんなに送っちゃって一発アウト。フジテレビの10時間会見の当日で、朝に生放送が終わって午後3時に発表するとなった」。尼崎氏は「僕も、よく画像をもらっていました」と笑った。


生島は4月から文化放送「生島ヒロシの日曜9時ですよ〜」(日曜午前9時)で仕事復帰。「生放送が好きなんですが、まだ生放送は危ないと思われている(笑い)。いつか生放送に復帰したいですね」と話した。


宮城県気仙沼市出身の生島は「僕はおばあちゃんには『役所に勤めろ。恩給が付くから』と言われて育った。その一方で、父親からは『家を継がなくていいから海外に行け』と言われていた」と振り返った。高校卒業後、法大に進学して上京。「十条の3畳のアパートに住んで、薮蕎麦で皿洗いのバイトをしていました。実家からは1銭も仕送りをもらっていませんでした」。


1971年(昭46)に単身で渡米。「パンナム航空機でアメリカに行って、空手のインストラクターをやりました。ブルース・リーがブームで、空手着で歩いていると『ヘ〜イ、空手マ〜ン』とモテました。そこから、後の芸能界最強説が出てきた」。尼崎氏は「私は草野仁さんと『ザ・ワイド』という情報番組をやっていたんですが、あの人も相撲で芸能界最強説がある」と話した。


生島は75年に帰国してTBSを受験、アナウンサーとして採用されて76年に入社した。「採用試験でキャンディーズの『ラン・スー・ミキは何者か』っていう問題が出たんだけど、アメリカの学校を卒業するに大変で、日本のことは全く分からない。しょうがないから『中国の売れっ子3人娘』と書きました」と笑った。


尼崎氏は「僕はTBSに内定をもらって、日テレに断りに行ったら、副社長の氏家(斉一郎)さんに『TBSにはラジオもある。うちの制作で頑張れ』と言われました。それで、日テレで『隣の晩ご飯』とかを作りました。『生島ヒロシの隣の晩ご飯』はどうですかね」と提案した。


生島は89年(平元)に独立、フリーとなった。「入社の時から『日本の終身雇用制は、そのうち終わる』って言っていました。右肩上がりの時代でお金がどんどん入ってきましたが、やがて番組が終わると、そういうこともなくなりました」と振り返った。


“日本で一番健康に詳しいアナウンサー”の異名を持つ生島は「無理しない程度にスクワットと腹筋をするのが大切。手のグーパー、グーパーをして、舌をべーと出すと唾液が出る」と話した。そして「今回、1年2カ月仕事ができなかったけど、いくつになってもどんな仕事でもいいから面白がってやりたい。そうすれば認知症にならない。その気になれば、いくつになっても働けるんだ。この1年2カ月の間にも新しい友達が増えた。胸襟を開いて、かっこをつけなければいいんです」と話した。


尼崎氏が「古巣TBSにしっぺ返しを」と言うと、生島は「何も言えません、御縁があれば。今は話せる場があるのが、本当にありがたい」と笑顔を見せた。

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