「フジテレビかわいそう」がトレンドに…マスゴミ批判の中身なき構造

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2025年02月06日 21:01  サイゾーオンライン

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 これまでひとつの権力となってきたマスコミだが、昨今では、一方的な意見に寄った偏向報道、事件やスキャンダルを必要以上に煽る過剰報道、事実と異なる情報を報じるフェイクニュース、都合の悪い情報を報じない報道しない自由の行使などが批判され、”マスゴミ”と揶揄されてしまうこともしばしば。 

フジテレビ会見で露呈した記者たちの暴力性

 本連載では世間から注目を集める事件やネット炎上の事例を取り上げながら、メディア研究・ジャーナリズム研究や社会学の知見を援用して、さらに踏み込んだマスゴミ非難をするためのヒントを探る。それを通じて、人々とマスコミのより良い関係性の構築に寄与することを目指していきます。

フジテレビを批判する人は何を求めているのか?

 フジテレビが2025年1月27日に行った「やり直し会見」。その前回の10日の会見は一部の大手メディアしか参加できなかったこと、生中継・生配信ができなかったことなどから猛烈な批判を受けたため、メディアの制限が撤廃。191メディア、437名の取材者が集う、異例の規模となりました。

 10時間23分にも及んだこと。港浩一社長、嘉納修治会長の辞任が発表されたこと。受け入れの間口を広げた結果、一部の取材者のマナーの悪さが目立ったこと……。“ニュース映え”する要素が次から次へと飛び出し、マスコミの不祥事を巡る事例として過去に類を見ないほどの注目を集めました。

 しかし、あまりにも混迷した会見であったため、肝心の「性接待」疑惑についての説明が充分であったか否か、焦点がぼやけてしまった感も。今回はその点を整理しつつ、そもそも批判する人々は、フジテレビに何を求めていたのかを考えていきたいと思います。

いまもっとも安心してぶん殴れるサンドバッグ

 27日の会見は筆者の周囲の編集者やライターも大いに注目していましたが、開けっぴろげには言わないものの、その関心は「今度はどれほどの醜態を晒してくれるのだろう」という点に重心が置かれていたように思います。

 実際、会見は想像以上の撮れ高をもたらし、特に雑誌やネットニュースの関係者は興奮気味に「フジテレビ」をタイトルに冠したコンテンツの制作に奔走しています(この記事もまさしくそのひとつです)。SNSやニュースサイトのコメント欄の反応も併せて俯瞰すると、「フジテレビ関係者以外で、フジテレビが立派に再出発することを心から期待している人はいるのだろうか」と感じるほどです。

 それはおかしい、という指摘があるかもしれません。確かに最初の会見の後、社長のお粗末な対応に嘆き/怒り、多大な影響力を持つ放送局の最高責任者として真摯な対応を求める報道や人々の声が飛び交いました(解体を求める声も多いです)。

 ただ、こうした批判は、字面は同じであっても大きく2種類に分けられるはずです。

 ひとつは文字通り、“社会の公器たるマスコミの使命”を果たすためにガバナンスの強化を求める、いわゆる叱咤激励。もうひとつは心理学で言及される「シャーデンフロイデ」(成功者や有名人の失敗や没落を見聞きした際に生じる歓喜)をさらに味わうための罵倒です。

 人の心のなかはわかりませんから、どちらが多数派であるか結論づけることは困難です。しかし事実として、フジテレビはシャーデンフロイデを誘発させる要素を豊富に備えています。

 長きにわたって民間放送局のリーディング・カンパニーの座に君臨していたこと。かつては「就職したい会社」ランキングの上位常連であり、エリートの自負を抱く社員が少なくなかったこと。これはフジテレビに限りませんが、インターネット普及まで情報を独占・選別し、一方的に発信するという特権的な立場にあったこと。

 そんな企業に対する「まともに記者会見もできんのか」という指摘は、メディア環境の変容に対する感度を批判する上でも、エリート集団の旧弊を嘲笑う上でも、マスコミという構造の歪さを糾弾する上でも、「解体せよ」という指摘よりずっと本質的に相手を打ちのめす力をもっています。

 また、他のテレビ局はこの問題を追及することに及び腰だ、との指摘があります。自分たちの組織からも同じような不祥事が暴露される可能性が否定できないからとも言われます。テレビ局と芸能事務所と広告代理店、これら20世紀後半のエンターテインメント産業を形づくってきたトライアングルは、私たち部外者には決して足を踏み入れられない領域でした。

 その閉鎖性こそが、人々が罵倒する際、「お前が言うな」というブーメランが飛んでくるリスクを限りなく小さくする安全弁になっている。いまもっとも安心して、気持ち良くぶん殴れるサンドバッグ、それがフジテレビなのだと言えます。

 興味深いのは27日の会見後、ほとんど休憩をとらず長時間の質疑応答に応じる関係者の姿を見かね、「フジテレビかわいそう」という言葉がXのトレンドになったこと。批判一色の空気のなかで唯一と言っていい同情的な言説として注目を集めましたが、これはやはり人々の批判は叱咤激励よりも罵倒の意味合いが強い可能性を示唆します。

 27日の会見を見る限り、フジテレビが説明責任を果たしたとは思えません。メディア研究を専門とする法政大学・藤代裕之教授も「フジテレビ側は組織の問題点について、説得力のある回答を提示できなかった」と毎日新聞の取材に答えています。

 もし批判が社会正義や切実な義憤に根差したものならば、そしてマスコミが社会的な使命を遂行することに期待をしているならば、果たされるべき責任が放置されているのだから、「かわいそう」と思いはしても表明するのは道義的な正当性に欠く行為です。エンタメとして叩いていたら想定以上に凹むものだから若干引いてしまった——「フジテレビかわいそう」がトレンド入りしたことからは、そんな構図が浮かび上がります。

「社会的な営為としての批判」を再起動させることは可能か

 ここで生じる問いは、「社会の公器たるマスコミの使命を果たせ」という批判が、そもそもこの時代に機能し得るのか、というものです。

 マスコミはその成立によって、私たち人類の世界観に極めて多大な影響を与えました。

 例えば中世から近代への移行期、国境という概念が曖昧だったヨーロッパで新聞が普及すると、特定のエリアに暮らす人々が同一の言語を日常的に読む、という体験が生まれます。これが現在の私たちにとっての標準的な国家観である国民国家が成立する一因になりました。

 時代が進み、電信、ラジオ、テレビとデバイスが進化・普及していくとより重大な変化が私たちの認知に生じます。数千万から億単位の人間集団が同一の時間帯に同一のイメージを視聴するという体験を通じて、社会全体がなんとなく意識し、依拠する、ある程度まとまった一つの価値体系が生まれたのです。「大きな物語」と呼ばれることがあります。

 20世紀後半の日本において、そうした物語の最たる例は「良い学校を出て、良い会社に入り、定年まで勤勉に働けば幸福になれる」というものでした。しかし、1990年初頭のバブル崩壊、そして1995年のオウム真理教によるテロを決定打として、この物語が仮構であることが露呈します。それ以降、私たちは物語なき時代を生きているとされます。

 現状において、「良い学校を出て、良い会社に入り、定年まで勤勉に働けば幸福になれる」という高度経済成長期的な物語にリアリティを抱くのは困難ですし、不自由さを感じる人の方が多数派だと思われます。しかし少なくとも、「社会を構成する一主体として、生きる意味を見出す」という点において、大きな物語は有効だったのも事実なのです。

 中央大学・岡嶋裕史教授(国際情報学)は「先生」を例としてそれを説明しています。

 現在、先生といえば情報サービス業の従事者です。けれど、かつては聖職者と呼ばれたように、この職業は権威を持っているという物語が成立しており、その教えを受けることで人々は自分の正しさを確認することができました。そして特筆すべきは、こうした物語のなかでは、物語に敵対する行為すら生きる意味を創出する機能が備わることです。

 1980年代には非行少年と呼ばれる人々による、教員を殴るといった校内暴力が社会問題になりました。権威に反発しているのだから、物語が破綻しているように感じますが、逆なのです。権威があり、物語があるからこそ、反発という行為(それは当時、自己表現や他者承認を実現するための営為の一形態でした)が成立すると解釈されます。

 そして、マスコミにも権威があるとされていました。だからこそマスコミの不祥事は自身が生きる社会の存立に関わる問題として広く共有されましたし、それを批判することは、正義や公正といった特定の規範を共有する共同体の一員であることを自身が確認し、生きる意味を見出す機能も持ち合わせていたのです。

 大きな物語が瓦解し、「権威あるマスコミ」が「規模の大きい情報発信事業者」になった現在、「社会の公器たるマスコミの使命を果たせ」という批判が機能しづらいのは自然なことなのかもしれません。それは同時に、「共通の善」や「共通の悪」すら成立が困難な状況において、私たちは何を志向して生きるか、という厄介な問いと対峙し続けなければならないことを意味します。

 ところでフジテレビが批判に晒されている間に、海の向こうではまさに「大きな物語」への回帰を掲げる政治家が躍進しています。「MAGA(Make America Great Again:アメリカを再び偉大な国に)」と絶叫するドナルド・トランプ大統領です。

 限界を迎えつつある物語なき時代にしがみつくか、すでに歴史上は退潮しきったとされる大きな物語を再興するのか(そしてそれは可能なのか)、私たちにとっても決して無縁ではない壮大な社会実験が始まろうとしています。

(文=小神野真弘)

文春の強行報道の末に見えた綻び

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  • 批判してるのはご都合主義の腐れ旧メディア全体だよ。いい加減にしろよ。
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