
開幕が目前に迫った大阪・関西万博ですが、市井から聞こえてくるのはネガティブな声ばかりです。大阪府と大阪市が2024年12月に行ったアンケートでは、万博に「行きたい」「どちらかといえば行きたい」と回答したのは全体の34.9%。日本国際博覧会協会が2025年度までの目標として掲げた55%を現状でも大きく下回っています。
万博がいまいち盛り上がらない理由はいろいろと語られていますが、大きく3種類に分けられると考えます。ひとつは会場建設費の増大、工期の遅れや安全性への懸念、さらにはカジノ誘致の“呼び水”との疑惑など、国や行政に対する怒りや不信感。もうひとつは開催直前でも展示の詳細がわかりづらく、そもそも期待のしようがない状況。そして、東京オリンピックから尾を引く「現代において莫大な予算を投じてナショナルイベントを開く意義があるのか」という時代や社会の変化に起因する問いが解消されていないこと。
確かに問題が多い万博ですが、開催はもはや決定事項。そこで何かしらポジティブな要素を見出すことができないか、大衆社会論とメディア論の知見を用いて考えてみたいと思います。
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1970年万博にも批判はあった
1970年の大阪万博はレガシーと賞賛され、成功だったとする評価が一般的です。
1970年万博は意義として「戦後復興した日本の繁栄を世界に発信する」というのがあったとされます。当時は高度経済成長期。働けば働くほど豊かになれる確かな実感があり、未来は豊かなものだと多くの人が信じていたし、先端技術は豊かさの象徴と捉えられていた。ゆえに老若男女が万博に熱狂できたというストーリーがよく語られます。
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しかし当たり前といえば当たり前ですが、1970年万博にも開催前から批判があったのです。
当時発行されていた「SUNDAY EXPO(サンデーエキスポ)」という万博専門の新聞を読んでみると、現在の万博に向けられたものと似通った批判が存在したことがわかります。開幕1年半前の紙面には「ベタ遅れ会場建設」という見出しで、工期の遅れとパビリオンの出展契約が進んでいないことが批判されています。
また、会場となった千里丘陵の大規模な開発に対し、環境破壊を懸念する市民団体からの抗議もありました。さらに、当時最大の政治的争点だった日米安保の問題から、万博を開催することで「人々の注目をそらすのが目的だったのではないか」という疑惑も語られました。政治的意図をイベントの祝祭性でカムフラージュするというストーリーは、現在のカジノ誘致を巡るそれと同質のものでしょう。
ただ2025年と1970年の大きな違いとして、55年前は多彩な反対運動が注目を集めたことが挙げられます。美術評論家・針生一郎に主導された通称「反博運動」では、反体制と目されていた前衛芸術家たちが万博の出展側として招聘される状況に対して、芸術の批評性が損なわれるという趣旨の批判が展開されました。また、芸術家・加藤好弘による「万博破壊共闘派」というグループは、全裸で片手を挙げて直立不動するパフォーマンスを全国で行い、万博の理念的土台である進歩主義への疑義を表明しています。
ここで興味深いのは、1970年万博に反対する人々にはある種の能動的な姿勢が見出せることです。万博を批判はするけれど、それはむしろ大いに関心を注いでいたことの証と言える。そしてこうした反対運動が起きたことが文化的対話の呼び水となり、未来や社会の在り方を構想するうえで貴重な機会として機能したことは「万博の意義」を考えるうえで無視できない論点だと思われます。
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要するに、1970年の万博をめぐっては、反対運動もまた一種の“参加”であり、芸術家や市民がそれぞれの立場から表現・批判・提案を行うことで、万博が“公共的対話のプラットフォーム”として機能していたわけです。それは、たとえイベントに賛同しなくても、社会における自分の立ち位置を思索し、発信する機会だったと言えそうです。
それと比べると現在の万博批判は無関心、あるいは冷笑が前景化しています。国や行政に対する怒りがSNS空間に流布していますが、多くが「トイレに2億円もかけるのはけしからん」といった各論ベースのもの。より広く深い射程を持った批判や対話はほとんど見かけません。この違いはどこから来るのでしょうか。
万博のライバルはショート動画である
大前提は、万博というナショナルイベントを「一方的に押し付けられる」という感覚があることでしょう。しかし税金を財源としている以上、私たちはすでに“参加費”を払ってしまっているようなものなのだから、どうにかしてこのイベントから得られるものを模索した方が建設的であるはずです。
ひとつの切り口として、万博を「コンテンツ」として考えてみます。こうすると、なぜ私たちが万博に盛り上がれないのか、そして国や日本国際博覧会協会(JAPAN EXPO 2025協会)が万博をPRする際に何をすべきだったのかが見えてきます。
2025年と1970年を比較した際、人々がコンテンツを受容する形態、換言すればメディア環境の特性における最大の違いは、コンテンツ消費の「マルチタスク化」です。PCディスプレイでYouTube動画を流しつつ、LINEでテキストメッセージのやり取りをしながら、通話アプリで会話をしている、こうした光景は珍しくありません。
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こうしたマルチタスク化がもたらす影響として、哲学者の谷川嘉浩は「それぞれのコンテンツやコミュニケーションへの参加度合いは薄いものになっていくため、前提知識がなくても楽しめるように設計され、短時間で満足が得られるよう最適化されている」と述べています。
つまり、現代の私たちは正解が不明瞭で、コミットすることに労力がかかる所作を好まない。「万博の意義」や「未来の形」といったトピックは極めて抽象度が高いですし、会場まで足を運んで展示を見て考える、あるいは議論するという行為は非常に手間がかかる。ゆえに少なくない人々から敬遠されるし、関心を引くのも難しいのです。
アテンションエコノミーの弊害と万博への無関心を並列で語るのは乱暴だと感じる人もいるかもしれません。しかし、今回の万博はテーマのひとつに「社会課題の解決」を掲げており、アテンションエコノミーは私たちが直面する喫緊の問題のひとつです。ならば、「万博という旧時代のコンテンツが、現代のショート動画や短文コミュニケーションから人々のアテンションをいかに奪い返すか」という対立軸を打ち出すことは、問題提起として非常に価値あることだと思われます。
コンテンツ消費の「マルチタスク化」は人々を受動的にした、とも言われます。この「受動的」という姿勢は、ある意味で万博の主催側に言えることです。万博の売り文句として「ナショナルイベントだから」「スター研究者プロデュースの展示があるから」「世界161カ国が集まるのだから」といったものが挙げられますが、これはまさに前世紀的な「権威を示せば人が集まる」という発想に基づいた所作。待っていれば来るだろう、という受動的な姿勢です。一方で市井の人々も、「万博の意義は?」「どんなものが見られるのか?」と問い、わかりやすい説明を求めている。開催側も来場者側も受け身の姿勢であることが、現在の空虚さの根本的な原因であると思えてなりません。
ここで強調したいのは、万博の成功/失敗ついて筆者は関知していないことです。この時代に莫大な予算をかけて万博を開くのならば、この国の人々全員が当事者として熟議をする機会を創出することにこそ、その意義があるのではないかと述べたいのです。
(文=小神野真弘/大学教員、ジャーナリスト)