80年前に広島と長崎で被爆した経験を語る福井絹代さん=7月24日、青森市 広島に続き長崎でも被爆した二重被爆者がいる。14歳だった福井絹代さん(94)=青森市=は広島で2歳下の弟と被爆し、3日後、親戚を頼り避難した長崎で入市被爆した。「弟を守らなきゃと無我夢中だった。こういう思いは子どもや孫たちにはしてほしくない」と願う。
1944年夏から広島市内で父、弟と3人で暮らし、45年8月6日は爆心地から約1.8キロの自宅にいた。中庭に出ようとした瞬間、「ピカーっと光って2階建ての家の下敷きになった」。当時、父は出征中で、弟が手を引っ張り助け出してくれた。
市内を逃げる際、背中の皮がべろっと剥がれた中学生くらいの子が、つま先立ちで「お母さん」と泣きながら歩いているのが見えた。被爆した日本兵を看病した際は、化膿(かのう)した体に湧いたうじを箸で1匹ずつつまみ、牛乳瓶に入れたという。
そんなさなか、無料で汽車に乗れることを知った。「今動かないと暮らしていけない」。父方の親戚を頼ろうと、出身地の長崎へ行く決断をした。父は出征前、畳の下に現金を置いていってくれたが、ぺしゃんこになった自宅から持ち出す余裕はなかった。
同9日午後。到着した長崎市内では、線路伝いに多くの人や馬が倒れて死んでいた。「とにかく、隙間なく人が倒れていた」。進むには人や馬を踏まなければならない。それが嫌で防波堤に上がったが、堤が途切れると、やむなく死んだ馬の腹に飛び降りた。「ごめんなさい、ごめんなさい」。謝りながら人や馬の上を歩いた。
「広島、長崎と2回も怖い目に遭った」と語る福井さん。入退院を繰り返し、移り住んだ青森では「ピカドンか」とさげすまれた。出身地を隠していた時期もある。身も心も苦しめられた経験を語り、こう訴える。「(原爆は)絶対駄目。私たちがどういう思いで必死に逃げたのかを、どの国も分かってほしい」。

80年前に広島と長崎で被爆した福井絹代さんの弟が被爆体験を描いた絵のコピー=5日、青森市