『ホットロード』主題歌の尾崎豊はアリかナシか? 不良文化と音楽の関わりを再考

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2014年10月13日 18:51  リアルサウンド

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映画『TOKYO TRIBE』公式サイトより

 音楽ライターの磯部涼氏と編集者の中矢俊一郎氏が、音楽シーンの“今”について語らう新連載「時事オト通信」第2回の中編。前編【ヒップホップとヤンキーはどう交差してきたか? 映画『TOKYO TRIBE』と不良文化史】では、今夏に公開された映画『TOKYO TRIBE』を軸に、90年代のヒップホップ文化やチーマー文化について掘り下げた。中編では、引き続き『TOKYO TRIBE』に見られる不良文化について考察を深めるとともに、同時期に公開された『ホットロード』についても議論を展開。両映画の音楽との関わりについても、話題が広がった。(編集部)


■磯部「映画『TOKYO TRIBE』は、ヤンキー的なバッド・センスに満ち溢れていた」


磯部:映画『TOKYO TRIBE』で面白かったのは、下世話で過剰な、齋藤環が言うところのヤンキー的なバッド・センスに満ち溢れていたところ。原作者の井上三太は90年代のいわゆる裏原系に連なるようなグッド・センスのひとだと思うけど、園子温は映画化にあたってそれを反転させてしまったという。そして、そのことは、原作が日本のヒップホップと距離があったのに対して、映画版は最近のラップ・ミュージックのノリをちゃんと描けてるってことも意味している。前回、「『TOKYO TRIBE』は今っぽくない。モデルにしているのが80年代末から90年代頭にかけてのチーム文化全盛期だから」って言ったけど、映画版の方は“ヤンキー的なバッド・センスに満ち溢れている”って点では今っぽくもあるんだよね。何故なら、今、ラップを始めとしてまた様々な方面でヤンキーなセンスが復活している。


中矢:確かに。今のヤンキーというと、たとえばオラオラ系みたいなスタイルが挙げられると思いますけど、80年代からの流れを磯部さんの視点で整理してもらってもいいですか?


磯部:順を追って説明すると、やはり前回に紹介した書籍『YOUNG BLOOD〜渋谷不良(カリスマ)少年20年史』(少年画報社、09年)でZEEBRAが語っていたように、そもそも、チーム文化は80年代半ば、都内の私立中高生がアメリカのサブ・カルチャーに倣った最新の輸入文化として始まっており、以前のヤンキー文化のバッド・センスとは断絶している。でも、80年代末になるとそのスタイルがメディアに取り上げられたことで、郊外の不良が流入し、次第に初期の洗練された雰囲気はなくなっていく。だからこそ、ZEEBRAはいち早く離脱し、初期チーム文化と同じような最新の輸入文化だったハードコア・日本語ラップのシーンの成立に力を注ぐ。


 そして、90年代半ばになるとチーム文化は、杉並区や世田谷区でヤンキー≒暴走族の伝統を受け継いでいたオーセンティックな不良である関東連合と対立を深めていく。さっきも言った通り、当時のチーム文化では、初期の洗練された雰囲気はなくなっていたものの、ZEEBRAが「チームのカルチャーとファッションは切り離せない。そこが、前の世代までの(暴走)族なんかと違うところ」(『YOUNG BLOOD』より)と語ったような特徴は健在で、関東連合の元リーダー・工藤明夫の回想録『いびつな絆〜関東連合の真実』(宝島社、2013年)には、それを、まさにバッド・センスな自分達のスタイルと比較した以下のような記述もある。


 「私たちにとって、このチーマーというジャンルは非常に気に入らない存在だった。杉並区の不良少年にとって、不良少年の世界で食物連鎖の頂点にいるのは暴走族、すなわち関東連合という意識が強かったのだ。ナンパな服装をして、ファッション誌に出たり、たむろしている場所に女の子を連れているような彼らのことは、不良少年として認めることができなかったのだ。
 彼らに比べて、関東連合の服装は特攻服かスラックスに暴力団風のブルゾンやセーター。髪型はニグロパンチかスキンヘッド、あるいは“ブラックエンペラー”あたりなら、チームの看板である逆マンジを模(かたど)った“卍刈り”というニグロパンチの髪の毛を卍型に残す髪型にする者もいた」
(『いびつな絆』より)


 そして、工藤によると、関東連合のチーマー狩りによって、「間もなくチーマーは下火になっていく」(同上)。かと言って、不良少年たちの間でチーム文化の代わりに、また単純にヤンキー文化が主流になったわけではない。「もっとも(引用者注:自分たちの)服装については、渋谷に出てくるようになって少しづつ変わっていった」「あるストリートファッション・ブランドの展示会には、いまでも関東連合のメンバーが大勢で顔を出し、大量の服を注文していく。関東連合が好んで着るブランドは、いつの間にか少しづつワイルドなテイストに変化していった気がする。そのブランドはそのまま街の不良少年たちが好んで着るブランドになった」(同上)と書いているように、関東連合もまたチーム文化を取り入れ、そうやって現代化したバッド・センスが不良少年の間で流行っていく。ここで、工藤が言う“ワイルドなテイスト”はいわゆるオラオラ系のことかなって思うんだけど。


 一方、チーム文化から離脱したZEEBRAも、戦略的にヤンキーなセンスを取り入れていく。USのラップ・ミュージックを直訳しているだけでは地方の不良少年たちには届かないと思ったんだろうね。例えば、第1回でも言ったように、「Greatful Days」(DRAGON ASH feat.ACO, ZEEBRA、99年)の「俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴は大体友達」というラインでは、“ニガ”なノリが“ヤンキー”なノリに、見事に意訳されている。つまり、チーム文化とヤンキー文化が合流して新しいバッド・センスになり、それが今の不良少年の主流になっていると。


中矢:やはり、「Grateful Days」でヒップホップの認知度が飛躍的に上がったように思います。個人的な皮膚感覚に頼った話になりますが、当時、名古屋の高校に通っていた私のまわりでは、Hi-STANDARDのようなメロコアを聴いていたルーディな高校生が急にBボーイになったりしたので(笑)。それまで、愛知県常滑市をレペゼンするTOKONA-Xが〈さんピンCAMP〉に出たりしたこともあったけど、その存在を知るクラスメイトはほぼおらず、日本語ラップは“東京の文化”という印象だった。


磯部:「Grateful Days」のせいで、ZEEBRAは「悪そうな奴はだいたい友達って誰のことだ? 俺はお前なんかと友達じゃないぞ!」(『いびつな絆』より)なんて絡まれることになるわけだけど、彼はあの曲で“「悪そうな奴はだいたい友達」だ”と自慢しているだけではなくて、“「悪そうな奴はだいたい友達」になれる”って、日本中の不良少年に語りかけたんだと思うんだよね。そして、ANARCHYや、BAD HOPのYZERRはそのメッセージを少年院の中のテレビでキャッチして、退院後、本格的にラップに打ち込んだ。それは素晴らしいことだよ。


中矢:『TOKYO TRIBE』に出演しているラッパーは、あの曲以降に頭角を現した人たちばかりですよね。漢、D.O、ANARCHY、SIMON、Y's、YOUNG HASTLE、KOHH……。そして、彼らはスワッグを体現しているラッパーたちでもある。ただ、映画のストーリーとしては、鈴木亮平が演じるメラとか、竹内力が演じるブッバとか、ぶっ飛んでいる本当にスワッグなキャラクターは観ていて楽しいんだけど、そのなかで比較的常識があるようなYOUNG DAISが演じる主人公・出口海が最終的にプロップスを集めて異なるトライブを束ねます。それは、第1回の対談で磯部さんが言っていた「全体を支えた上での杭」という日本的なスワッグのありかたとも通じるんじゃないかと。


 あと、今は『TOKYO TRIBE』の“TRIBE”という単語からどうしてもEXILEを連想しちゃうんですけど、映画の公式サイトに「HIP HOPの魂がたくさんのフィルターを通して表現されていてワクワクしました。そして僕もHIP HOPな映画を創りたくなりました…」とHIROがコメントを寄せているんですよね。LDH制作のヒップホップ・ムービーがどんなもになるのかちょっと気になりますが……とにかく今回の『TOKYO TRIBE』は地方のヤンキーにも受け入れられる余地があるのかもしれませんね。一方、『ホットロード』には三代目J Soul Brothersの登坂広臣が出演しているわけですが。


■中矢「『ホットロード』エンディングの後、不幸な運命の連鎖を想像した」


磯部:『TOKYO TRIBE』も『ホットロード』も興業成績は順調みたいだけど、自分が観に行った回にしてもどちらも若い観客が多くて、上映後、話に花が咲いている感じが良かった。『TOKYO TRIBE』は男の子が女の子を連れて来てる感じで、「シンヂュクHANDSのボスをやってた漢はほんとに新宿で活動してるラッパーでさぁ……」とかウンチクを語ってたり。一方、『ホットロード』は女の子が男の子を連れて来てる感じで、女の子はボロ泣きしてるのに、男の子はわざと退屈そうに「しょんべんしてくるわ」とか言って何度も席を立ったり(笑)。


中矢:女子高生コンクリート詰め殺人事件(88〜89年)で知られる足立区綾瀬に在住している私は、最寄りの亀有にあるシネコンで真っ昼間に『ホットロード』を観たんですけど、まだ授業中のはずの女子高生のグループが観ながら泣いていたりしましたね。あるいは、その女子高生たちの親の世代に当たり、原作である紡木たくの同名マンガ(86〜87年)にかつてハマったと思われる40代くらいの女性が一人で観ていたり……。そういった、いわゆるマイルドヤンキーな環境で観たこともあって、家庭環境が複雑とはいえ、木村佳乃みたいな母親とあんな小洒落たマンションで暮らす能年玲奈のような女の子が暴走族にコミットすることは現実的にあり得るのだろうか……とやや疑問に感じてしまって。


磯部:いや、金持ちの子がグレるのは基本でしょう。初期のチーム文化にしても、比較的裕福で最新の情報にアクセス出来る子たちが中心だったわけで。ただ、映画版『ホットロード』の和希の母親はヒステリックだけど、原作はもうちょっと不思議ちゃんな感じで、和希に対する態度も言ってみれば放任主義なんだよね。親子がまるで友達みたいな関係である一方で、娘は母親が構ってくれないことに不満もあって、当て付けのように夜遊びをするという。そして、その関係が映画ではネグレクトに置き換えられている。それはそれで現代的だと思ったけどね。


 まぁ、僕は『ホットロード』に関しては『TOKYO TRIBE』と違って原作の大ファンなんで、映画化にあたっての違和感は幾らでも挙げられるんだけど……まず、良かった点を言っておくと、実写を観て、紡木たく作品に漂う清潔感というか、その雰囲気を醸し出している彼女の絵のホワイトアウト感は、なるほど、湘南地区特有の、太陽と、それが反射する海面という、上下2方向から来る光を表現したものだったのかというのは、改めて気付いたことだったね。


中矢:確かに、空と海を映したシーンは象徴的に使われていましたね。


磯部:そして、早々と良くなかった点を言うと(笑)、映画では和希は暴走族の世界に、まるで、春山に強引に引っぱり込まれていくかのように描かれているんだけど、僕が原作でいちばん好きな台詞が、和希が集会に行き始めた頃の「耳を つんざくよーな この音が好き」っていうモノローグなんだよね。要するに、和希は暴走族にフェティッシュな魅力を感じて、自発的にその世界に入っていく。


 もちろん、彼女のバックグラウンドも影響はしていて、初対面の春山が和希に言う「おまえんち/家テー環境わりいだろ?」っていう台詞は原作でも映画でも重要だけど、その後、原作では和希がバイクに乗った少年たちを羨ましそうに眺めている姿が何度も登場するんだよね。彼女にとっては、バイクは家庭だったり学校だったり、窮屈な環境から脱出させてくれる装置に見えた。でも、14歳の女子中学生っていう身体的、あるいは、社会的な制約からそれに乗ることは出来ないっていう。そして、和希は春山に、自分の「自由になりたい」という想いを仮託していく。


 それが、映画では、和希は自分勝手な春山に引っ張り回されているかのように描かれているから、DV的な関係に巻き込まれる女の子の典型的なタイプに見えちゃうんだよね。エンディングのモノローグを聞きながら、「このカップル、絶対別れるだろ」と思っちゃうという……。


中矢:エンディングの後、和希は春山の子を早々に身ごもるものの、春山のDVに耐えきれずに別れ、生まれてきた子どもは和希と同じ運命をたどり……というのは勝手な想像ですが、春山が和希に冷たくしたりする一方で時折甘えた表情を見せたりするのは完全にDV男の行動パターンだと思ってしまいました。ただ、そういう男にばかり引っかかる女の子も一定数いるかと。


磯部:確かにそれもリアルなのかもしれないし、紡木たくは『ホットロード』の6年後の作品であり、休筆する前の最後の連載である『かなしみのまち』(93年〜94年)で、まさにネグレクトをテーマにしている。その頃には和希も母親になっているかもしれないし、親子の問題は連鎖していくのかもしれない。思わず、そんなことを考えてしまうような重い作品だったんだけど、映画はともあれ、原作版『ホットロード』のエンディングの、障害を抱えた春山と、それを支える和希にかけられる、「がんばってね 和希/あたしたちの 道は/がんばってね/ずっと つづいてる」っていう、未来の和希からの、あるいは和希と似た境遇の女性たちからの応援の声は、2人の未来は決して安泰ではないことを示唆していたと思うな。要するに、「このカップル、絶対別れるだろ」みたいな斜に構えた視点は織り込み済みなんじゃないかと。


 そういえば、映画が終わって灯りが付いた瞬間、後ろの女子高生2人が「春山、超オラオラだったね……」って呟いてたのが印象に残った(笑)。映画版の『ホットロード』は時代考証も割とちゃんとやっていて、江ノ島の展望台も02年に立て替えられる前のものがCG合成されているんだけど、当時の暴走族を、現代の女子高生は“オラオラ”っていう今の言葉で普通に受け入れるんだなって。Twitterで“ホットロード”って検索すると、若い女の子たちが映画を観たあと写メとかプリクラとかを撮って「泣いた…」みたいな感想を書いてるツイートがいっぱい出てくるんだよね。当たり前だけど、ネタじゃなくて、普通に観られてる。ほら、ちょっと前まではヤンキーってパロディの対象だったじゃない。『ホットロード』を引用してる氣志團がまさにそうだけど、“あえてヤンキーをやりますよ”みたいな断りが必要だった。それが、今はまた完全に“アリ”になってるんだなと。そこには『TOKYO TRIBE』との共通点も感じたな。


 それと、連載の趣旨でもあるので『ホットロード』と音楽の関係についても触れておくと、原作では音楽にまつわるシーンはほとんど出て来ないよね? 映画では和希をナンパしたチャラい大学生たちの車の中でブラコンがかかってるシーンがあるけど。だから、さっき引用した「耳を つんざくよーな この音が好き」っていうモノローグの通り、『ホットロード』では、バイクの音がいちばん魅力的な“音楽”として描かれている。そして、それを「ポピュラー・ミュージックに置き換えると何になるか?」と映画化にあたって考えた時に、選曲されたのが尾崎豊の「OH MY LITTLE GIRL」だったっていうのは、僕はなかなかいいチョイスだと思う。


■磯部「主題歌に尾崎豊を選んだというのは、それだけで批評的だし的確」


中矢:ただ、エンディングでしか流れなかったですよね。監督の三木孝行は『ソラニン』(2010年)を撮っている人で、あの作品では劇中のバンドが奏でる曲をASIAN KUNG-FU GENERATIONが提供していました。映画としての評価はさて置きますが、そこには、浅野いにおの原作も含めたいわゆる厨二病的な表現とそれらを支持する若者たちの存在意義を確かめられる、音楽的な仕掛けがあったように思うんです。だから、今回の『ホットロード』で「OH MY LITTLE GIRL」を主題歌にすることに異論はないものの、「なぜヤンキーは尾崎豊に惹かれるのか」がもう少しわかるような、あの曲のより効果的な使い方があったんじゃないかと。


磯部:実際、尾崎豊の曲を使ったことに関しては賛否両論あるよね。「当時の暴走族は尾崎なんて聴いてない」とか「『ホットロード』に影響を受けて藤井郁弥が詞を書いたチェッカーズ“Jim & Janeの伝説”の方が良かった」とか。ただ、尾崎自身、紡木たくのファンだったんだよね。『机をステージに』が本棚にあったっていうし。同作で重要な曲として登場するのは、RCサクセションの“スローバラード”だけど。


 そういえば、11月に、僕が監修を、中矢が編集を務めた『新しい音楽とことば〜13人の音楽家が語る作詞術と歌詞論』(SPACE SHOWER BOOKS)っていう書籍が出るんだけど、そこでインタヴューさせてもらった湘南乃風の若旦那も、不良だった高一の時に尾崎豊を聴き始めて、今でもカラオケで歌うって言ってた。そして、そんな彼は尾崎の魅力を以下のように語っている。


――尾崎豊の引っかかる部分というのは何だったんですか?
若旦那 それは完全に詞ですね。まあ、メロディもすごく美しかったけど……、なんだろう、尾崎豊をカラオケで歌ってると、尾崎豊になれちゃう自分がいて。
――尾崎の詞の一人称に自分を重ねっていたと。
若旦那 自分から尾崎の世界観に入り込んでいくというか……。俺は不良だったから、強さにメチャクチャこだわってたガキだったんです。でも、どこかで弱い自分を探してたんだと思うんですよね。たぶん、尾崎豊に自分を投影することで、「自分の弱さって何なんだ?」とか、仲間には見せられない部分と向き合えたんじゃないかな。で、俺はいろんな歌詞を「ここは共感できる」とか「ここは共感できない」とか聴き分けたりするんだけど、「この尾崎は好き」「この尾崎は嫌だ」みたいな感じで聴いてましたね。
――普段、見ないフリしているような自分の弱さに、尾崎豊を聴いたり歌ったりしているときは向き合えたと。
若旦那 そうそう。普段はジャイアンみたいな感じで生きてきたから。でも、やっぱり喧嘩とか暴力とかの中には恐怖があるじゃないですか。あと、社会に出ていく恐怖。社会的地位とカネにものすごく翻弄された高校生だったので、「自分はこれから何者になるんだろう?」と。それは尾崎豊も悩んでたことだから、オレも一緒に苦しんでるような感覚だった。
(『新しい音楽とことば』より)


 若旦那は尾崎豊を聴くことで、強がっていた自分の弱さと向き合えたと。そして、紡木たくも、まさに当時のヤンキーというか社会から外れて生きている若い子たちの弱さに寄り添うような作家だったよね。だから、『ホットロード』の映画化にあたって、主題歌に尾崎豊を選んだというのは、それだけで批評的だし的確だと思うんだよな。


中矢:尾崎豊は92年に亡くなってからもファンを抱えていると思いますけど、愚直に社会への反抗を表した彼の歌詞は、スノッブな人たちやコアな音楽リスナーの間では“恥ずかしいもの”や“前時代のもの”として相手にされず、長らく正当に評価されなかった印象があります。


磯部:僕が00年代前半に尾崎豊についての原稿を書いた時も、「尾崎が如何に時代的に“アウト”か」っていうようなテーマだったな。当時のバンドにしても、ガガガ・SPがその名も「尾崎豊」(01年)って曲で「お前の歌はバカバカしいんだよ/自由が欲しいとバカバカしいんだよ/ライヴで骨折した所で/自由なんて来やしない/盗んだバイクで走る前に/割ったガラスを弁償しろよ」なんて歌ったりしてる。ネットでも厨二病の代表みたいに扱われてたし、氣志團の引用も“アウト”だからこそ効果的だったんだろうしね。ただ、それがいつの間にかまた“イン”になったような感じがあるんだよね。個人的には、79年生まれのシンガーソングライターで、00年代後半から人気が出始めた前野健太から、ネタとかじゃなく、真剣に尾崎の良さを説かれて、改めてその才能に気付いたんだけど。


 例えば、セカンドの『回帰線』(85年)に入ってる「ダンスホール」とか今聴いても、というか今聴いてこそハッとするようなところがある。同曲は、ディスコで夜遊びをする不良少女の哀愁を歌った、まさに『ホットロード』的な名曲で、よくカヴァーもされてるけど、あれって、現在のクラブ規制に繋がる84年の風営法大改正のきっかけのひとつにもなったと言われる、いわゆるディスコ殺人事件っていう、家出少女が繁華街でナンパされた末に殺された実際の事件がモデルなんだよね。そう考えると、曲の中の、フロアで踊る少女を見つめている視点は犯人のものなんじゃないかってゾッとするでしょう。


■中矢「若旦那はあえて『マイルドヤンキーみたいな層に目がけて曲をつくってきた』戦略家タイプ」


中矢:なるほど。ちなみに、先程、若旦那や前野健太の話が出ましたけど、尾崎豊は日本のラップ・ミュージックに影響を与えていないんですかね? 同じような青臭い音楽という意味では、D.Oがザ・ブルーハーツの曲をサンプリングしたりしましたけど(発売中止になった09年の『Just Ballin’ Now』収録「イラナイモノガオオスギル」で「爆弾が落っこちる時」をサンプリング)。


磯部:ブルーハーツも、彼ら自身はヤンキー的な人間ではないのに、やけにヤンキーに好かれる音楽だよね。ヤンキーマンガというジャンルにおける代表的な作品である森田まさのりの『ろくでなしBLUES』(集英社、88年〜97年)にメンバーを模したキャラが登場したり……。そういえば、中矢が住んでるのが綾瀬ってことで思い出したけど、女子高生コンクリート詰め殺人事件についてのノンフィクション『少年の街』(教育史料出版会、92年)で、作者の藤井誠二が獄中の容疑者グループのひとりにインタヴュー出来たのは、藤井が『僕の話を聞いてくれ』(リトル・モア、89年)っていうブルーハーツに関するエッセイ集に寄稿した文章に、その容疑者が共感したからだったな。ゴンゾージャーナリスト・石丸元章の『スピード』(飛鳥新社、96年)にも、元祖ギャル男のピロムこと植竹拓の『渋谷(ピロム)と呼ばれた男』(鉄人社、13年)にも、クラブでブルーハーツがかかって暴動状態になるっていうシーンがあった。


 それと、不良に好かれる音楽と言えば、ラッパーの般若は長渕剛からの影響を常々語ってるよね。長渕の『しあわせになろうよ’04』って曲は00年代の「We Are The World」というか、MVはスタジオに若手のミュージシャンたちがやって来るところから始まるんだけど、みんな、パイセンに呼び出された感がハンパない(笑)。でも、般若はノリノリっていう。ちなみに、同曲にはZEEBRAも参加していて、般若が鉄砲玉みたいなラップをしているのに対して、彼は若頭というか、パイセンをばっちり立てるヴァースをキックしている。それにしても、ZEEBRAは長渕についてはどう思っているんだろう? 『ZEEBRA自伝』(ぴあ、08年)には、前の奥さんが尾崎豊の元カノだったってエピソードが出てくるけど、長渕に関しては桜島のオールナイト・ライヴにゲストとして呼ばれた際の感想として、「ハンパじゃなかった。/人口が5000人のところに、7万5000人。/まだまだそんなところでできない自分たちが悔しいよねって話になった」「単純に、オレもいつかあれを超えたいと思ったよね。/長渕さんの歳になって、同じようなことをやったら、集めたい。/代々木公園に7万5000人」と特に興行主としての側面に着目してるから、音楽的に……というよりは、さっき話に出たように、戦略的にヤンキーなセンスを取り入れていく上で参考にしたところはあったのかもしれない。


 ちなみに、若旦那は尾崎豊の後、何とさだまさしにハマるんだよね。ソロ・アルバム『あなたの笑顔は世界で一番美しい』(11年)では、「雨やどり」のカヴァーもしてるけど、彼は尾崎とさだの違いについて以下のように語っていた。


――尾崎豊からさだまさしという流れは、ちょっと意外な感じもしますが。
若旦那 さださんとの出会いは一九歳ですね。「関白失脚」(九四年)という歌があって。
――「関白宣言」(七九年)の続編ですよね。
若旦那 これはさださん本人にも言ったんだけど、俺が一〇代の頃、自分の親を「ああいうふうになりたくねぇ」ってすごく反面教師にしながら生きていた中で、「関白失脚」を聴いたら親のことがちょっと好きになれたというか、「大人っていろいろあるんだな」って思えたんですよ。その前に聴いてたブルーハーツと尾崎豊とかって、「満員電車に揺られながら夕刊フジを読んでるようなオヤジなんかには絶対なりたくねぇぜ」みたいな歌でしょう。それって、まさにウチの親父のことだったから、オレも「あんなふうにはなりなくねぇ」って言ってたわけだけど……。
――たとえば、尾崎豊は「卒業」(八五年)で「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」と歌いましたが、そのガラスを片づける人もいるわけですからね。
若旦那 そうそう。さだまさしの歌は、片付けてる人側の歌なんですよね。
――庶民の視点ですよね。
若旦那 うん、そこに対してオレは泣いちゃったんですよね。ドバッと感情が溢れ出てきて。で、一時期ひたすらさだまさしを聴いてました。
(『新しい音楽とことば』より)


 つまり、尾崎豊は子供のまま死んでしまったけど、若旦那はさだまさしを聴くことで大人になったんだと。ちなみに、「不良でさだまさしを聴くって、他にも例があるんですかね?」って訊いたら、「運転免許を更新するときの違反者講習で(さだまさしの)“償い”(八二年)を聴かされるじゃないですか。あの歌って結構エグいんですよね。人を轢き殺しちゃったのを懺悔する歌だから。あれにヤラれてる人はいると思うなぁ」「しかも、初心者講習じゃなくて、免停になった人が受ける二日間講習とかで聴かされるんですよね。だから、よりコアな人たちが……」(『新しい音楽とことば』より)って言ってたのも興味深かったな。盗んだバイクで走り出して事故を起こして、違反者講習でさだまさしと出会うという(笑)。


中矢:若旦那は湘南乃風のメンバーでは唯一、東京出身で、私立の中学・高校に通っていたような人なんですよね。美大に行って、最近は七尾旅人やジュークに興味を示すようなセンスもある。一方で、青春時代はいろいろ悪さをしていたとも本人は公言していて、同年代の不良仲間には、例えばかつてMSCが在籍していた〈Libra Records〉の社長もいる。彼から、『TOKYO TRIBE』にも出ていた漢を紹介してもらって、「ジャパニーズ独自のラップをやったのは川上(引用者注:漢のこと)」(『新しい音楽とことば』より)というぐらい評価しているけど、今、〈Libra〉の社長と漢が揉めていることに関しては悲しんでいましたよね。あと、湘南乃風は「まさにマイルドヤンキーみたいな層に目がけて曲をつくってきたようなところはあります」(『新しい音楽とことば』より)とはっきり言ったり、戦略家タイプという印象でした。


磯部:そうそう。彼らの大ヒット曲である「純恋歌」(06年)も、よくネットで歌詞をネタにしているひとがいるけど、あれも、“DQN”とか“マイルドヤンキー”とかラベリングされている層にとってリアルなラブ・ソングとは何か? っていうことを考え抜いてつくった曲なんだよね。あと、彼はいまエイベックス内で自分のレーベル〈Tank Top Records〉を運営していたりもする。まぁ、若旦那の話は、詳しくは11月に出る『新しい音楽とことば』を読んでもらうとして、EXILEやZEEBRAがいるような音楽業界にしても、あるいは、ネット業界にしても、アダルト業界にしても、80年代から90年代にかけて不良だったひとが起業して活躍するというケースは凄く多いから、不良とビジネスというテーマについてもこれからもっと考えていきたいよね。


(構成=リアルサウンド編集部)


■磯部 涼(いそべ・りょう)
音楽ライター。78年生まれ。編著に風営法とクラブの問題を扱った『踊ってはいけない国、日本』『踊ってはいけない国で、踊り続けるために』(共に河出書房新社)がある。4月25日に九龍ジョーとの共著『遊びつかれた朝に――10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』(Pヴァイン)を刊行。


■中矢俊一郎(なかや・しゅんいちろう)
1982年、名古屋生まれ。「スタジオ・ボイス」編集部を経て、現在はフリーの編集者/ライターとして「TRANSIT」「サイゾー」などの媒体で暗躍。音楽のみならず、ポップ・カルチャー、ユース・カルチャー全般を取材対象としています。編著『HOSONO百景』(細野晴臣著/河出書房新社)が発売中。余談ですが、ミツメというバンドに実弟がいます。



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