【追悼秘話】ノッポさん「ずっと賃貸でいい」に隠された本音、年上女房への亭主関白な素顔

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2023年05月15日 16:00  週刊女性PRIME

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ノッポさん(享年88) (C)共同通信社

 ノッポさんが8か月前に亡くなっていた。ひと言もしゃべらない番組のキャラクター同様、何も言わずに旅立った。

「心不全で死去したのは、'22年9月10日とのこと。“半年は伏せてほしい”という本人の希望があったそうで、誕生日の5月10日に公表されました。所属事務所の代表でマネージャーだった女性以外には隠されていたそうです」(スポーツ紙記者)

昨年6月にもテレビでタップダンスを

 『週刊女性』も'22年3月にインタビューしている。生い立ちや番組の裏側を語ってくれた。

「ノッポさんが国民的な人気者になったのは、NHK教育テレビの『できるかな』に出演してから。もともとはタップダンスをやっていてミュージカルに出演していましたが、子ども向け番組でブレイク。大きな着ぐるみで相棒の『ゴン太くん』と一緒に、声を発さずにジェスチャーで会話をしながら工作する姿に、子どもたちは夢中になりました」(テレビ局関係者)

 ゴン太くんの生みの親であり、『できるかな』を放送開始から支えていた造形作家の枝常弘さんに話を聞いた。

「僕がノッポさんと出会ったのは、'64年から'66年に教育テレビで放送されていた『おじさんお話してよ』。放送内容に合わせて変装をして、パントマイムをしていました」

 枝常さんは、その番組で小道具を担当していた。

「'66年に始まった『なにしてあそぼう』にノッポさんが出ていて、新しい番組を始めることになり、'70年に『できるかな』がスタートしました。でも、ノッポさんは降ろされて、違う若手5人組が出ていた。それに対して幼稚園の先生などから“やっぱりノッポさんがいい”という声がたくさんあって、'71年から再びノッポさんが出るようになったんです」(枝常さん、以下同)

 無声キャラのもとになったのはチャップリンだが、ノッポさんはハリウッドのミュージカル映画俳優のフレッド・アステアが好きで、タップを踏みながらのパントマイムをやりたかったのだという。

「ノッポさんが最後に出た番組は、昨年6月のNHK『ひるまえほっと』。そこでも、どうしてもタップを披露したかったようです。5月に会ったとき、立って演技をするのはムリでしたから、座ったままでいいでしょって言ったけど、本人はどうしても立ってやるって。実際、本番ではちゃんと披露しました」

 『できるかな』は生放送のように一発撮りで、撮り直しはほとんどナシ。多くの工作をしてきたが、本人は不器用だと自覚もしていた。

「セロハンテープを刃の部分で上手に切ることが、どうしてもできなかった。だからテープを使うときは、事前に10センチメートルくらいの長さに切っておく。でも、ゴン太くんが動き回るから、全部くっついちゃって。それでも“なんとか完成させなければ”って、汗まみれになってやっていたのがよかった。器用な人が簡単に作り上げちゃうと、子どもにとっては面白くないですから」

声をかけると自宅の中から手を振って

 ゴン太くんとのドタバタしたやりとりも人気だった。

「ノッポさんが、ゴン太くんの顔の“エラ”部分を引っ張って、イタズラして怒らせるんです。ゴン太くんの着ぐるみは、頭にある帽子の部分から外が見えるようになっているけど、エラのあたりは死角になっていて見えない。台本なんか関係なかったですよ」

 ゴン太くんの着ぐるみは'74年以来、作り直すことなく、番組終了まで使用された。

「'90年に番組が終わって、ゴン太くんは廃棄されそうになりましたが、私が自宅に持ち帰りました。だけど大きいから、家の中にあると邪魔で。私が当時、助教授をしていた『白梅学園』に置いてもらい、そこを定年で辞めた後は、埼玉県内の幼稚園に移しました」

 ゴン太くんは、そこで今も子どもたちに親しまれている。

 ノッポさんの死が発表された翌日、幼稚園を訪ねてみると、そこには白い花束を持って喪に服し、涙をポロリとこぼすゴン太くんが─。

 ノッポさんが住んでいたのは、東京の下町。プライベートは謎に包まれていたが、地元でも有名人なのは変わらず。かつて、ノッポさんが住んでいたアパートの大家さんに話を聞いた。

「ノッポさんが引っ越してきたのは'75年。アパートのテナントに入っていた薬局を奥さんが引き継いだため、その2階にふたりで住むことになりました。薬局はお年寄りのたまり場になっていましたよ。28年間、住んでもらったけど、築60年近くになって取り壊すことにしました」

 引っ越し先も近所で、この街を気に入っていた。もちろん、街の人たちからも愛され、

「当時の小学生にとっては、誰でも知っているスターですから。2階に向かって“ノッポさーん”と叫ぶと、中から手を振ってくれましたよ。ある子どもが、自宅前で帽子をかぶっていないノッポさんに“ホントにノッポさんなの?”って聞いたら、家の中に帽子を取りに戻って、軽快なステップでクルッと回って“ノッポさんでしょ”って見せていたことも」(近所の女性)

 子どものことを「小さな人」と呼び、常に“対等な人間”として接していた。

「とにかく子どもが好きでね。ウチの子どもにも“番組で使ったヤツだよ”って工作物を持ってきてくれました。あれだけ子どもが好きだったけど、ノッポさんと奥さんには子どもがいなかった。この辺りを転々と引っ越して“僕はずっと賃貸でいいと思っている”と言っていましたが、子どもがいなかったから家を買わなかったのかなって。きっと子どもは欲しかったはずです」(近所の男性)

“姉さん女房”だけには甘えて

 プライベートでも『ノッポさん』を貫いていたが、唯一ワガママを言えたのが奥さんだった。

「私は奥さんと仲がよかったから、よく話しました。ノッポさんのことを“ウチでは気難しいのよ”と言ってました。朝起きるのが遅くて、10時くらいに朝食兼昼食を食べるとき、みそ汁がないと機嫌が悪くなる。それも豆腐、ワカメ、油揚げの3つが入っていないとダメ。1つでもそろっていなかったら“なんで用意してないんだ!”って文句タラタラだったそう(笑)」(近所に住む別の女性)

 結果、奥さんは足りない食材を買いに行くハメに。

「“ホント嫌になっちゃう”って(笑)。家の外だとノッポさんでいなければいけなかったから、2つ年上の姉さん女房にだけ甘えていたんでしょうね。ふたりでいる時間だけが、ノッポさんから解放されたんでしょう。戦前生まれで、意外と亭主関白でしたよ。だけど、とてもバランスが取れたいい夫婦でしたね」(前出・近所の女性)

 最後に住んだ家には、今もノッポさんの本名が記された表札がかかっていた。

「キャッチボールをしてくれました! 去年の春が最後かな。いなくなって寂しいです」(近所の小学生)

 子どもも大人も、ノッポさんの家にやって来た。

「みんな、ノッポさんに悩みごとを聞いてもらっていたみたい。中には、彼が行きつけだった『モスバーガー』のアルバイト店員もいました」(前出・近所の男性)

 ノッポさんは、誰にでも“できるかな”と優しく問いかけて、“さてさて、ホホゥ”と見守ってくれていた。

 

このニュースに関するつぶやき

  • 「豆腐と油揚げの味噌汁」が小学校の最初の調理実習のメニューだった。ノッポさんも小学生時代に作った思い出の味噌汁だったのでしょうか。
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