松村邦洋「砂漠で遭難したときは死ぬかと」伝説の番組『電波少年』での過酷企画とモノマネの原点を明かす

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2023年11月01日 09:10  週刊女性PRIME

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松村邦洋(撮影:山田智絵)

 今シーズン18年ぶりにリーグ優勝を果たした阪神。優勝を記念して、お笑いタレントの松村邦洋は、自身のYouTubeチャンネルで“歴代の優勝監督になりすまして六甲おろしを熱唱する動画”を披露。生粋のファンとして祝福した。

 そんな松村は今年で芸能生活35周年。片岡鶴太郎にスカウトされたデビュー当時の話から、『進め!電波少年』や『オールナイトフジ』に出演したかつての芸能界のエピソード、そして35周年を迎えた今、胸のうちを聞いた。

モノマネ芸人の原点は学生時代

 モノマネのレパートリーは150以上あると言われる松村。芸能人だけでなく野球選手や政治家など、多岐にわたるモノマネが印象的だが、そのルーツは小学生の頃から芽生えていたという。

「芸能人とか野球選手とかジャンルでくくっていたわけではなくて、小さい頃からテレビで面白いと思った人をマネするのが好きだったんですよ。純粋な好奇心です。小学生の時は、大河ドラマ『花神』に出演していた中村梅之助さんとか、お笑いグループの『ザ・ハンダース』とか。

 中学生の頃からは、『金八先生』の武田鉄矢さんとか、欽ちゃんバンドの小西博之さんとか。喋り方もそうなんですけど、身振りとか踊りとかもマネしていたので、純粋に気になっていたんでしょうね。僕もどちらかというと、その人に似せたいというよりも『その人自身になりたい』という欲が強かったです。

 ちなみに野球だと、最初は甲子園の解説者のマネをしてたんです。当時、池西増夫さんという解説者がいましてね。鼻声のような高い声が耳に残ってたんです。なんというか演歌のようなコブシが軽く効いていて面白かったんですよ」

 幼少期から自然とモノマネをしていたという松村。それから高校に進み、次第にモノマネで芸能界に進みたいと志すようになる。

「高校生の頃は、軟式野球部だったので、めちゃくちゃ声を出すんですよ。『ばっちこ〜い』とか、『サードこ〜い』とか。サイレンみたいにコブシを聴かせて声出すじゃないですか。それがだんだん楽しくなってきちゃって、声がよく出るようなったんですよね。

 部活以外の時間では、世界史の先生のモノマネをよくやってたんです。その先生は声がでかいのに、イントネーションがおかしくてね。そしたら先生も機嫌が良くなって、『お前が代わりに授業しろ』って言われて、それでみんなの前で披露したらウケるもんだから気持ちよくなってね(笑)

 しかも高2の時、高校で留年しているんですよ。さすがに1年間も同じ先生のマネをずっとやっていると飽きられるものですが、留年したらまだ僕の芸を観てない後輩が入ってくる。そうするとまたウケる。劇場でいえば、昼の部と夜の部のダブルヘッダーで両方とも調子良い感覚です(笑)。いま思えば、その頃から芸人になりたい気持ちが強くなった気がしますね

 そして大学時代に、転機が訪れる。

「電波少年」の破天荒すぎる企画たち

「当時は大学に通いながら、フジテレビ系列の『テレビ西日本』でケーブル捌きのバイトをしつつ、素人のモノマネ番組のオーディションに出ていたんです。その一環で、『発表!日本ものまね大賞』に出演した時、敢闘賞(優勝)を取ったんですね。

 そのあと仕事でたまたま片岡鶴太郎にお会いしたら、ものまね大賞の時に披露してた松村達雄さんのマネが良かったよと褒めて頂いて、東京で話を聞いてもらう機会があったんです。

 当時、フジテレビのスタッフさんからは『期待するな、観光のつもりで行ってこい』と言われながら、ひょうきん族の撮影スタジオにお邪魔して、相談に乗って頂いたんです。そこで思いきってたけしさんのモノマネを披露したりしてね(笑)。なんだかんだで鶴太郎さんが所属する太田プロに入ることになりました。

 その頃フジテレビは黄金時代で、『なぜフジテレビだけが伸びたのか』っていう本が売れたぐらい。モノマネ番組も色々ありましたから。フジでやってた愛川欽也さんの『全日本そっくり大賞』や、『オールナイトフジ』もその頃に出演させてもらいましたね。カメラの前で緊張しちゃって全然駄目な時もありましたけど、デビュー当初からいろんな番組に出させてもらってありがたかったですね」

 デビューしてから数年後、『進め!電波少年』の司会に抜擢される。いわゆる“アポなし”で様々な企画に、体当たりで挑戦するスタンスは話題を集めたが、出演者からしたら大変だったと振り返る。

もうアポなしどころか、当時は企画がめちゃくちゃだった。会議でありもしない企画ばかりあげて盛り上がってるんですけど、正気じゃ実現できないネタばっかなんですよ。村山富市の長い眉毛を切ってあげようとか、ユン・ピョウ(香港のアクション俳優)は本当に強いのか戦ってみようとか、榊原郁恵さんの次男が生まれた時に母乳を飲ませてもらおうとか……(苦笑)

 現場のディレクター同士は結構バチバチしてましたね。みんな『良いもの撮ってやろう』と競っているし、左右のインカムで指示が違う時は胃がキリキリしましたね。片耳ずつから『お前はどっちのディレクターにつくんだ』『なんで俺の言うこと聞かねえんだバカ!』とか聞こえてきてね。

 だからスタッフさんも辞めていく人が多かったですね。『ジュース買ってきます』と言ってそのまま失踪したり、『ちょっとアポ取ってきます』と言って帰ってこなかったり。辞めたスタッフを集めたら、オールスター感謝祭ができるくらいの人数になるんじゃないですか(笑)。

 ちなみにユン・ピョウに襲い掛かろうとした時は、その映像が番組で使えないって、プロデューサーが指示が出てたんですよ。でもその後、演出の方が勝手に独断で放送したりしたエピソードもありましたね。本当に電波のスタッフさんたちは、野武士のような人でしたよ」

高田文夫からの金言

 電波少年時代、特に大変だったのが『電波少年INTERNATIONAL』(海外版スペシャル)だっという。

もう過酷すぎて元の企画を覚えていないんですけど(笑)、砂漠で遭難した時は死ぬかと思いましたね。脱水症状で唇が真っ白のなか、飛行機やヘリコプターが僕の上空を通過したんですよ。あとから振り返ってみれば、状況を確認するための視察だったらしいのですが、その時は置いてかれたと思って『俺、死んだわ』と……。

 最近だと、ドラマのVIVANTで堺雅人さんが砂漠を歩いているシーンがあったんですけど、まああんなもんじゃない(笑)。たまたま電波のディレクターと話す機会があったのですが、彼も『あの時は口が真っ白になってよ、身体のアチコチから砂が出てきて、砂漠なんてスーツじゃ歩けねえしリアルじゃねえよな』って。『いやそこはドラマですから』って返しましたけど(笑)」


 過酷な思いをしながらも、今年で芸能生活35周年を迎えた松村。長く芸能界で活躍する裏には、恩人とも言える放送作家の高田文夫の一言があった。

「高田さんは、ぼくを芸能界に入った当初からお世話してくれた方で、今でも30年近くラジオ(『高田文夫のビバリー昼ズ』)でご一緒させてもらってます。その高田さんが、僕によくこう言うんですよ。『こういう世界は、高さも大事だけど、長さも大事なんだよ』って。売れたり有名になるのも大切だけど、コツコツ続けることも大事だっていうことですね。『高さにこだわって萎縮したり、病気になったりする人も多いから、継続することが一番大事だ』と仰っていて、いろいろなことを教えて頂きました」

 最近では、プライベートでも健康志向になったという。

「ぼくももう56歳ですから。いまはほぼ毎日ウォーキングとか散歩ですね。近所の1周1キロぐらいの公園を2〜3周したり、中野区や杉並区あたりを歩いてロケ地巡りとか神社にお参りに行ったりね。毎日ウォーキングしていると、公園でラジオ体操なんかをやっているメンバーは変わらないですもんね。芸能界だとメンバーの入れ替わりも激しいですけど、ラジオ体操をやっているおばあちゃんとかは10年間顔ぶれが変わっていないですから。自分も息が長く活動していけたらいいですね」

 

このニュースに関するつぶやき

  • 常々思うんだけど、モノマネでそのままフリートークが出来る『技術力』は本当に凄い。
    • イイネ!6
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