トルシエは袂を分かった名波浩をなぜ日本代表に再招集したのか「私は名前で選手を選ばない」

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2024年01月12日 17:21  webスポルティーバ

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フィリップ・トルシエの哲学
連載 第4回
2000年アジアカップ優勝の舞台裏(2)

◆(1)トルシエジャパンが絶大な成果を出した「ラボラトリー」とは?>>

 ベトナム代表監督として、まもなく開幕するアジアカップ(カタール)に臨むフィリップ・トルシエは、2023年12月28日に45人の選手を国内合宿に招集した。半分が23歳以上の選手たち、残る半分が23歳以下の選手たちである。

 この45人が同じ戦術プロセスを踏襲し、同じ動き、同じ戦い方を身につけるまで反復練習を繰り返す。いわゆるラボラトリー(実験室または研究室)である。1週間ほどの合宿期間であっても、できる限り多くの選手たちと実践的な戦略を維持していくには、「最も効果的な方法である」とトルシエは言う。

 その後、選手を26人に絞り込み、1月5日にトルシエとベトナム代表はカタールに向けて旅立ったのだった。

「40人〜50人の大きなグループを作るのは、日本で実践した方法でもある。(2000年には)そこからふたつのグループ(シドニー五輪代表とアジアカップ代表)を構築したが、ふたつはまったく異なるグループではなく、ラボラトリーのなかで同じプロセスを踏襲したグループだ。そのベースがあれば、それぞれの大会への対応もずっと容易になる」

 現にふたつのグループは難なく融合し、2000年のアジアカップ(レバノン)で好結果を残した。

 当初、トルシエはシドニー五輪で日本が準決勝に進んだ場合、つまり決勝または3位決定戦を含めて全6試合を戦うことになった時は、シドニー五輪のメンバーからアジアカップに連れていくのは、2、3人にとどめるつもりだった。しかし日本は準々決勝で敗退し、期待された1968年メキシコ五輪以来、32年ぶりのメダル獲得はならなかった。

 ただ、前倒しで五輪を終えたおかげで、シドニー五輪組から森岡隆三、松田直樹、中澤佑二、三浦淳宏、明神智和、中村俊輔、稲本潤一、柳沢敦、高原直泰の9人をアジアカップに連れていくことができた。中田英寿の辞退はあったものの、日本はほぼベストメンバーでアジアカップに臨めることとなった。

「もしシドニーでメダルを獲っていたら――もちろん、それは十分に可能だったが――アジアカップの優勝は難しかっただろう」(トルシエ)

 アジアカップのもうひとつのポイント、それは名波浩の代表再招集だった。

 日本が南米サッカー連盟(CONMEBOL)に招待されて参加した1999年のコパ・アメリカは、トルシエが「フランスW杯組を主力にした日本代表の最後の大会」と位置づけた大会だった。その時から彼の頭のなかには、1999年ワールドユース後にU−20代表の五輪代表への統合、さらにその後の、五輪代表のA代表への統合というプロセスが描かれていた。

 技術的に優れた若い世代を主軸にして2002年W杯に臨む――若い彼らにこそ、日本サッカーの未来がある――というのが、トルシエの信念でもあった。

 はるばるパラグアイまで出向いたコパ・アメリカの結果は惨憺たるものだった。直前のキリンカップで引き分けたペルーに初戦で2−3と敗れると、続くパラグアイ戦は0−4と大敗。3戦目の相手、ボリビアにようやく1−1と引き分けたが、グループリーグ最下位で大会を終えた。

 ラボラトリーでの十分な準備ができずに臨んだ大会で、日本のパフォーマンスも低調だった。

 そのコパ・アメリカでゲームメーカーの役割を与えられたのが、名波だった。チームはもちろん、名波自身もトルシエのスタイルを身につけていないなか、名波はチームプレーよりも、個の力による状況打開を試みたが、孤軍奮闘も空回りばかりで結果には結びつかなかった。

 大会後、トルシエは名波を「一生リーダーになれないタイプ」と批判。両者は大きなしこりを残して袂を分かった。

 だがトルシエは、その年の末にベネチア(イタリア)の名波のもとを訪れて代表復帰を要請した。

 若いグループをひとつのチームにするには、三浦知良や中山雅史のようなベテランの経験が役に立つ。しかし、彼らは常にピッチに立てるわけではない。ピッチの上でチームをまとめていくには、ゲームメーカーとしてピッチ全体に気を配れる名波の力が必要だったのだ。

 ただし、名波は所属のベネチアでレギュラーポジションを確保しておらず、ほぼ4カ月の間、実戦から遠ざかっていた。ではなぜ、トルシエは彼を呼んだのか。

「ラボラトリーの過程のなかでポテンシャルが確認されたからであり、常時プレーしていなくとも、彼なら他の選手たちに優れたクオリティを示すことができると思ったからだ。

 たとえばここベトナムでも、私のもとでA代表ではプレーしていながら、所属するクラブではレギュラーでない選手もいる。2部のクラブからも選手を招集しているし、3部の選手すらも招集した。

 選考基準は、選手がJリーグやVリーグ(ベトナムリーグ)1部に所属しているかどうかではない。真の基準はラボラトリーだ。ラボだけが私の求める答えを与えてくれる。

 名波の場合も同様だ。彼はベネチアで試合には出ていなかったが、トレーニングは積んでいた。試合に出ていない選手は、必ずしも低調だから機会を与えられないわけではない。別の理由で出られないケースもある。ベネチアのイタリア人監督(ルチアーノ・スパレッティ)は、イタリア人選手やアフリカ人選手を起用したかったから、名波を外したのかもしれない。

 私は、彼のそうした状況をよく知っていた。招集を決めた時、彼が自身の豊富な経験と優れた資質をチームにもたらしてくれることもわかっていた」

 コパ・アメリカとは異なり、トルシエが起用した名波のポジションはボランチだった。そして、中田英不在のトップ下には、セレッソ大阪で西澤明訓とともに2トップを務めていた森島寛晃を置いた。

「私は名前で選手を選ばない。過去の実績でも選ばない。その時の現実が常に選考の基準だ。

 また、重要なのは相手との力関係であり、その状況に応じて選手を選ぶ。(当時)『60人のグループが日本代表だ』と私が述べ続けたのは、戦術的な課題を克服できる選手が60人いるということで、実際に当時の日本には、状況に対処できる選手がそれだけいた。

 今日もそうだが、人々が注目するのはスタメンに名を連ねた11人の選手たちだ。しかし監督は、選手登録された26人(2000年当時は22人)のなかから選手を選べることを忘れてはならない。そのメカニズムが働いたから、森島は中田英の代わりにプレーした。

 名波は稲本同様に、ボランチとしてプレーすることが可能だった。チームには複数のポジションでプレー可能な選手が常に存在する」

 加えてトルシエには、「チームにスターはいらない。チームこそがスターである」という持論があった。2000年アジアカップは、まさにそれを実証した大会だった。

「中田英はスターだが、アジアカップは不参加だった。スターがいないうえに、中村や小野伸二、稲本など、若く才能にあふれた選手たちがいた。選手は皆、コレクティブにチームに貢献し、試合をスタートする選手が誰であれ、目的はチームの勝利だった。

 日本代表のクオリティは、私の哲学とフラット3をベースに据えたコレクティブな質の高さだった。選手はコレクティブなプロセスによく適応し、練習を重ねた。勝利を得たのはそれだけの仕事をしたからであり、独自のベースを構築できたからだ。チームに偉大な選手はいなかったが、チーム自体は偉大なチームだった」

(文中敬称略/つづく)

フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U−20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U−23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。

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