父を思い医者を目指し、好きを求め車業界へ しかし国の経済発展を願いIT業界に飛び込んだ

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2024年07月16日 08:11  @IT

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フットサルの仲間たち

 国境を越えて活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回はシステムエンジニアのHamel Fitri(ハマル・フィトリ)さんにお話を伺った。家族の病気をきっかけに医者を目指していたフィトリさんが、エンジニアを志望するようになった理由とは。


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 聞き手は、AppleやDisneyなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。


●友達と川や森で遊んだり釣りしたりする毎日


阿部川 “Go”久広(以降、阿部川) Hamel Fitri(ハマル・フィトリ)さんですね。どうお呼びすればいいですか。


Hamel Fitri(ハマル・フィトリ、以下、フィトリさん) フィトリと呼んでください。


阿部川 分かりましたフィトリさん。ご出身はマレーシアですね。


フィトリさん はい。マレーシア上部、タイの近くのクランタン州で生まれ育ちました。川や森など、自然が多い地域です。私は長男で母が心配性だったので、高校を卒業するまで実家にいました。


阿部川 自然が多いということは、子ども時代は外で遊んでいることが多かったのでしょうね。


フィトリさん そうですね。学校の帰りに友達と川や森に行って遊んだり、釣りをしたりするアクティブな子どもでした。勉強は学校でしかしていませんでした(笑)。


阿部川 いや、それで十分ですよ。学校で勉強して、学校が終わると自然の中で遊ぶ、そんなお子さんだったんですね、スポーツはやりましたか。


フィトリさん サッカーが得意でした。ストライカーだったのですよ。空いている場所があれば、どこでもやりました。ボールがあればどこでもできますし、6人もいれば十分試合になりますからね。他にはバドミントンも得意です。マレーシアはバドミントンがとても強くて、みんなバドミントンをやっています。


阿部川 学校行って、サッカーをやって、自然の中で遊んで。お家に帰ってからは食べて寝るだけですかね。良い子ども時代です。得意な科目はありましたか?


フィトリさん 数学と生物学が、いつもクラスでトップでした。なぜかは分からないんですけど、自然と分かりやすい科目でした。どちらかといえば数学が好きなのではなく「問題の解決」が好きだったのだと思います。


阿部川 「問題があって、その問題に対して答えを探す」ということが好きなのですね。


何が問題なのかを明確にして解決策を提示し、実行する。まさしくエンジニアに必要な能力ですね。


阿部川 ちなみに最初にPCに触ったのは学校ですか。


フィトリさん 確か8歳くらい。学校のITの授業で、「ペイント」を使って家を作ったことを覚えています。


阿部川 いいですね。そのころからエンジニアになろうと思っていましたか。


フィトリさん いいえ。エンジニアではなく医者になりたいと思っていました。父が心臓の病気で亡くなったので、小さなころから医者になりたいという気持ちが強くて。だから、高校生になったら生物学が1番好きな科目になりました。ただ、高校を卒業する前に、進路を変えなければならなくなりました。もともと「血」があまり得意じゃなくて。高校の生物学のクラスの実習でカエルを解剖したときにどうしても血が無理で、このままではダメだと考えるようになりました。


阿部川 医者を諦めるとして、なぜエンジニアを志望したのですか。


フィトリさん 先生と進路について相談し、いろいろな話を聞きました。自分が何をしたいのか考えたとき、やはり私は自分の国が大好きで、自分の国に経済貢献したいという気持ちが強いことに気付きました。その観点で調べたら、エンジアになることでマレーシアの経済に貢献できることが分かったのです。


●縁がつながって入学を決めたクアラルンプール大学


阿部川 エンジニアになればマレーシアに貢献できると。「だったらクアラルンプール大学に行こう」となったわけですか。


フィトリさん クアラルンプール大学を選んだのも運命的なものだったんです。私はもともと車、特に電気自動車に興味がありました。そこで車のエンジニアになろうと考えていました。


 また日本にも興味があって、いつか来日したいとも考えていました。そんな中でいろいろ調べていると、マレーシアの元首相マハティール氏が掲げた「ルックイーストポリシー」(日本や韓国の成功の“コツ”を学び、マレーシアの発展につなげようという取り組み)を知りました。その取り組みの中には日本への留学支援制度があり、クアラルンプール大学もそれに協力しています。


 私は車が好きで、エンジニアになりたかった。そしてクアラルンプール大学のプログラムに参加すれば日本に行く可能性がある。というような流れでクアラルンプール大学に決めたのです。


阿部川 いろいろなことがつながったわけですね。でも、クアラルンプール大学に合格するのは大変だったのではないですか。


フィトリさん そうですね。クアラルンプール大学には、MJHEP(Malaysia Japan Higher Education Program)というプログラムがあります。3年間はマレーシアの大学で勉強して、残りの2年は日本の大学で勉強するというものです。それにも何となく合格しました。


阿部川 いやいや、何となくでは合格できないですよ。最初の3年はマレーシアで勉強したのですね。クアラルンプールに出てきたのはこの時が初めてですか?


フィトリさん はい、クアラルンプールに来たのは初めてです。大都会でびっくりしました。実家の村は木や川が多いのですが、クアラルンプールは建物ばかりで、雰囲気が全然違います。


阿部川 クアラルンプールは大都会ですものね。大学時代は一人暮らしだったのですか?


フィトリさん いいえ、学生寮に住んでいたので友達がいっぱいいました。フットサルやバドミントンなどのスポーツもよくやりました。


阿部川 友達と一緒に住んでいたら寂しくないですね。勉強とスポーツざんまいといったところでしょうか。ところで、大学の勉強はどうでしたか。


フィトリさん 日本語も勉強しなければならなかったのですが、それが全科目の中で一番つらかったですね(笑)。私が勉強した科目は全て日本語で授業が行われて、先生も日本人です。


阿部川 それは大変だ。日本語が分からなかったら全然分からないわけですね。


フィトリさん そうなんです。だから必死で勉強しました、漢字とか文法とか。


阿部川 そのかいあって、今は日本語完璧じゃないですか。頑張ったおかげですね。


●志望先を車業界からIT業界に“シフトチェンジ”


阿部川 2018年に東海大学に留学します。東海大学はクアラルンプール大学との連携校だったのですね?


フィトリさん はい、そうです。クアラルンプール大学で日本大学プログラムに参加している学生が約30人、他の大学も含めるとマレーシア全体で130人ぐらいいます。来日後に日本で配属される大学が決まります。私はイスラム教なので、ムスリム(イスラム教徒の通称、女性は「ムスリマ」と呼ばれる)が多いと聞いていた東海大学を希望し、希望が通った形です。東海大学の工学部電気工学電子工学科に3年生として編入し、2年間勉強しました。


同じマレーシア出身のこの方も東海大学に進学されていました。マレーシアの若者にとって東海大学への留学は目指すべきものの一つなのかもしれませんね。


阿部川 東海大学、つまり日本でも寮暮らしだったのですか。


フィトリさん いえ。このとき始めて一人暮らしをしました。それまでは家族や友達と一緒に住んでいたので、ちょっと、いや、かなり大変でしたね……。


阿部川 日本語を勉強したとはいえ、日本に来るのは初めてですし、しかもたった1人ですからね。じゃあ勉強するしかないですよね(笑)。


フィトリさん その通りです。毎日、大学に行って勉強して帰って寝る。その繰り返しでした。


阿部川 卒業論文は何を書いたのですか? やはり車に関することですか。


フィトリさん そうですね、電気自動車のモーター(ハイブリッドモーター)を研究しました。


阿部川 日本には有名な車の会社がたくさんありますからね。日本で車のことを勉強するのは面白かったですか。


フィトリさん はい。マレーシアでも日本の車、TOYOTA(トヨタ自動車)とかNISSAN(日産自動車)とかHONDA(本田技研工業)の車はよく走っていますから。だから最初は日本の車の会社で働いて、そこで勉強した技術をマレーシアに持ち帰って貢献したいと思っていたのですが、ちょっと理由があってIT業界に進むことにしたんです。


阿部川 どんな理由ですか。


フィトリさん 就職活動で、いろいろな会社のエンジニアたちと話したり、先輩たちの話を聞いたりしました。そんな中で、そのときIT業界と自動車業界を比べるとIT業界の方が、自分の成長も国の成長も保証できる業界だと思いました。そこで、よく調べて、考えて、ソフトウェアエンジニアになろうと決めました。


阿部川 なるほど。そして、日本の会社でソフトウェアエンジニアとして就職しようと決めたのですね。


フィトリさん そうです。ただ、ITにシフトチェンジしたのが就職活動の途中だったので、それまでコーディングを勉強する機会は大学の情報処理の授業くらいでした。でも興味があったので、自分でも勉強していたんです。その勉強したことが将来の役に立つことになりました。


母国語ではない言語での講義はついていくのも大変でしょうに、その上でプログラミングの勉強までしているなんてすごいですね。御本人は「興味本位、遊びの範囲」などとおっしゃっていましたが、しっかりと将来の基盤となる勉強になりましたね。


阿部川 勉強しておくものですね。就職活動では何社ぐらい応募したのですか?


フィトリさん 就職活動はコロナ禍でしたので、オンライン面談でした。50社以上応募しました。


阿部川 50社! オンラインでの面接を50社ぐらいも。すごいですね。コロナ禍だとそれしかやりようがないですもんね。


フィトリさん はい。それしか道がなかったので。今、働いているアドバンストビジネスサービス(以降、ABS)は最後の方に面接したんですけれど、50社以上の面接の経験があるので、自分がスケールアップ(成長)したことを感じていました。日本語もうまくできるようになって、ABSの面接ではいろいろな話ができました。コミュニケーションも上手になって、聞きたいこと、話したいことも全部伝えられるようになって、会社からの説明もよく理解できました。


 多くの友達と活発な少年時代を過ごし、「この国をもっと豊かにしたい」と考えた少年は、日本への興味を深めていくことになる。苦労して日本語を学び、さまざまな出会いを経て、フィトリさんは日本でエンジニアとしての歩みを始める。後編はフィトリさんが実感した「日本で働く上で必要なもの」について聞く。


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