【甲子園の記憶】元仙台育英の準優勝メンバー「あづま寿司」店主が語る35年前の夏 エース・大越基、拾い集めた土、帝京との死闘...

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2024年08月21日 06:30  webスポルティーバ

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 目の前に置かれた『定位置 セカンド 甲子園』と置かれたガラス容器は、インスタントコーヒーの空き瓶くらいの大きさで、その中に細かい土が入っている。

「自分の定位置あたりの土です。大越は閉会式のあとに監督に断って、マウンドの土を堂々と集めていましたけど、自分はそこまでの選手じゃなかったので......(笑)。あの夏、守備につくごとに少しずつポケットに入れて拾い集めていました」

 村上重寿さんは、「試合中にそんなことをやっていたら怒られますけど、もう時効ですよね」と笑う。現在は、宮城県仙台市青葉区一番町にある『あづま寿司』の主人(あるじ)である。

【35年前の夏の甲子園】

「あの夏」とは1989年、平成元年のことである。エース・大越基(元ダイエー)を擁した仙台育英(宮城)は、快進撃を続けた。センバツでは,元木大介(元巨人)のいた上宮(大阪)に敗れてベスト8だったが、圧倒的な強さで宮城を制した夏は、その上宮に準々決勝で雪辱し、準決勝は延長10回、尽誠学園(香川)に競り勝つ。そして帝京(東東京)との決勝に勝てば、東北勢悲願の全国制覇に手が届く。その仙台育英で、セカンドを守っていたのが村上さんだ。

 中学時代は黒松(現・宮城黒松利府)シニアでキャプテンを務め、全国大会も経験した。その中学時代にテレビの特集番組で見た板前に憧れ、高校卒業後は東京・築地で板前修業。当時、仙台育英の監督を務めていた竹田利秋氏が、ツテをたどって探してくれた先だ。30歳まで下積みを続け、『あづま寿司』を開店したのは2003年2月1日。村上さんは言う。

「竹田先生は『野球を続ける同級生の大学、社会人の進路より、おまえの店を探すのが一番大変だった』と。感謝しています」

 暖簾(のれん)をくぐると、仙台育英のユニフォーム、各校のペナントやパネル、タオルなど高校野球を中心に、関連グッズがにぎやかに壁を飾る。甲子園のDVDも、年代を問わずズラリ。それを眺め、新鮮な海の幸と美酒を楽しみながら、野球談義に花を咲かせる。

 だからお店はいつも球界関係者、野球ファンでいっぱいだ。私にこの店の存在を教えてくれたのも、NPBの公式記録員である。2022年夏、仙台育英を率いてついに東北勢初の優勝を果たした須江航監督も、常連のひとりだ。

「22年の決勝の日は、各社の取材陣が殺到して......私は仕込みの最中でしたが、これまで先輩たちが築いてきたものを結集した全国制覇には涙、涙でした」

 店内には須江監督はじめ、当時のメンバーがサインを寄せ書きした色紙も飾られている。

【センバツ後は控え組に】

 中学時代は腕に覚えのあった村上さんだったが、甲子園常連の仙台育英はさすがにレベルが違った。それでも必死に練習し、1年生からベンチ入りを果たす。もともとは外野を守っていたが、2年秋の新チームからは二塁に転向した。

「なにしろ大越が投げるので、内野はひねくれた打球が多くて大変でしたね。外野に比べてやることが多いし、竹田先生は厳しいし......。たとえば、練習試合でたまたまホームランを打っても『オマエに求めているのはホームランじゃない!』と、逆に怒るような人ですから」

 3年春のセンバツで上宮に敗れた翌日は、突然、控え組に回された。だが、それで腐らずにはい上がったからこそ、『定位置 セカンド 甲子園』の土を持ち帰ることができたのだ。

 1989年夏、宮城大会の村上さんは主に6番を打ち、20打数9安打と大活躍。苦しんだ守備でもノーエラーだった。「自分なんかノーマークですから」と謙遜するが、甲子園でも準決勝まで毎試合ヒットを放ち、好調は続いた。そして、帝京との決勝。

 大越と吉岡雄二(元巨人など)の投手戦は、スコアレスで延長にもつれ込んだ。かつて大越は、こんなことを語っていた。

「9回裏の攻撃で二死三塁のチャンスがあり、多少なりともサヨナラがチラつくじゃないですか。体がきつくて、もう投げたくないと思っているからなおさらです。ところが、僕の前の打者が凡退。僕はネクストにいたんですが、もうガックリきて......気持ちを切り替えられないまま、延長のマウンドに向かったんです」

 そしてなぜか、「ストレートを投げておけば大丈夫」のはずの先頭打者に変化球を投じ、ポテンヒットを許してしまう。これを皮切りに2点を奪われる。延長での2点はあまりにも大きい。

 その裏、仙台育英も二死から藤原伸行が二塁打を放ち粘る。次の打順は村上さん......のはずが、竹田監督は甲子園ではまだ打席に立っていない吉田尚一を代打に起用した。だが、その吉田は三振。帝京が初優勝を果たすことになる。

 聞きたかったのは、その場面だ。本当は、村上さんは自分が打ちたかったのでは?

「いや、吉田というのは試合には出ていませんけど、バッティングはピカイチだったんです。あの代打は納得ですね」

 後日談。長じて村上さんは、この場面について竹田氏に話したことがあるそうだ。

「あの大会、自分は毎試合ヒットを打っていたんですよ。帝京戦でも1本放ちました」

 これに対して竹田氏は「そうか? 失敗だったかな」と笑ったとか。あそこで、村上さんが打席に立っていたら......もしかすると35年前の夏に、優勝旗は白河の関を越えていたかもしれない。

 仙台に出かけたら、ぜひ一度『あづま寿司』に足を運んでみては? 野球好きには絶対、オススメです。

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