鹿取義隆は「壊れてもいい」とシーズン63試合に登板 「カトられる」という流行語を生んだ

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2024年09月20日 07:10  webスポルティーバ

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セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
鹿取義隆が語る球界屈指のリリーバーとなった軌跡(前編)

 1978年、巨人入団1年目の角盈男は60試合に登板し、先発は6試合だった。その6試合のうちの1試合を、明治大4年生の鹿取義隆が見ていた。東京六大学のリーグ戦でエースの高橋三千丈とともに活躍した鹿取だが、プロ入りは考えていなかったという。では後年、ともに巨人リリーフ陣を支える角の投球を、当時はどう見ていたのか。鹿取に聞く。

【"江川事件"で急転直下の巨人入り】

「僕は角とは同学年なんだけど、『すごいな、速いボール投げるな』っていう印象だった。でも、その時はプロに行く気持ちはまったくなかったし、何も意識することなく、ただ憧れて見ていただけ。リリーフもやっていたけど、角は先発ピッチャーというのが自分のなかのイメージだったね」

 もともと鹿取は社会人野球に進むことを希望し、日本鋼管への入社が内定していた。ゆえに78年のドラフトではどこからも指名されなかったが、直後に人生が変わる。"江川事件"でドラフトをボイコットした巨人が鹿取を獲りに来て、一転、プロ入りを決めたのだった。

 鹿取は明治大3年時、4年時と日米大学野球の日本代表メンバーに選出。4年時の大学野球選手権では決勝で専修大を完封しており、この時の投球も、プロのスカウトの評価を高めていた。それだけに巨人は鹿取を高く評価し、ドラフト外ながら、中日に1位指名された明大エースの高橋と同等の契約条件を提示。球団からは即戦力を期待されていた。

「でも、1月の合同自主トレに入った瞬間に、この投手陣のなかに割り込むのは厳しいと思ったからね。その時点でもう主力ピッチャーのボールが違う。スピンが利いて、キレがあるなと。だから即戦力というより、オレは一軍に残れるのかなというのが最初の印象ですよ」

 それでも、2月のキャンプ直前、鹿取と同じ右サイドスローの小林繁が、江川卓とのトレードで阪神に移籍。同タイプの投手は同学年の田村勲だけになった。さらに、主力投手にケガ人が出て、キャンプ4日目には二軍から一軍へ。新人の鹿取にとって追い風が吹き、一軍の投手陣で生き残れる可能性が高まった。

「結局、一軍にはいたんだけど、立場的にポジションがどこか、何も言われない、何も決まってないわけ。先発の枠はもう決まっているから、ただ単にリリーフピッチャーになるというだけ。それも当然、抑えじゃなくて、中継ぎ、イコール敗戦処理のようなイメージ。で、抑えはエース級のピッチャーが兼ねていたから、これは過酷だなと思っていました」

 巨人では65年に宮田征典が急台頭したあと、抑え専任的な投手は出現しなかった。現に78年は新浦壽夫が15勝15セーブを挙げて最優秀救援投手賞に輝いたが、先発でも9試合に登板、トータルで189回を投げており、最優秀防御率のタイトルも獲得している。ただ、鹿取が入団した79年はチームに2ケタのセーブを挙げた投手はゼロ。抑えは固定されていなかった。

「だから僕みたいなリリーフは、まず負けているゲームで抑える。次、同点のゲームのワンポイント。次、同点のゲームの1イニング。そうやって一つひとつ結果を出せば、だんだん役割が変わっていく。もちろんダメだったらまた最初に戻るんだけど、打たれないで最後まで投げたら、『セーブついたな』とか、『勝ち星ついた』となる。でも、それは結果的についただけであって」

【江夏豊は最高のお手本だった】

 鹿取は1年目に38試合、すべてリリーフで登板して3勝2セーブを挙げているが、まさに結果的についた数字だったのだ。だが、それでも現状に甘んじることなど一切なかった鹿取は、リリーフ投手の最高峰に注目していた。広島で抑えを務めていた江夏豊である。

「たまたま結果が残った自分と比べて、江夏さんは抑えで結果を出していてすごいなと思っていた。全然、違うなと。広島戦で江夏さんがマウンドに上がれば、どうやって投げるんだろう、こうやって投げるのかと注目していたからね。それはまったく別モノの世界で、他球団ながら最高のお手本だったし、角にしても、江夏さんがいたからリリーフでやっていけたんじゃないかって思います」

 江夏が抑えで機能した広島が優勝を決めた79年、巨人は5位と低迷。オフには若手中心の秋季キャンプが静岡・伊東市で行なわれ、投手は江川卓、西本聖、藤城和明、赤嶺賢勇、角盈男とともに鹿取も参加。ランニングをはじめハードな練習を課したことで「地獄の伊東キャンプ」と言われたが、それぞれ選手ごとに課題もあり、鹿取は実戦形式の練習のなかでシンカーを磨いた。

「角がサイドスローに変えたのとは違って、僕のシンカーはそんなに明確な課題ではなかった。一番の課題は体をつくることで、ランニングなんかはもう初めての経験できつかった。本当にしんどかった。でも、これをやらなければ上に行けないんだなと思ってやったんです」

 迎えた80年。鹿取は51登板で4勝3敗3セーブながら、86回を投げて防御率1.78という成績。リリーフの評価基準が勝ち星とセーブだった当時、その2つがなかなかつかない鹿取は登板数を積み重ねつつ、防御率の良化に努めていた。その点では好結果だったのではないか。

「たしかに僕の場合、登板数と防御率を追い求めるしかなかったから、結果はよかったです。でも、チームとしてはよくないわけ。当時は先発完投が野球で一番勝つパターンだったから、そのなかでリリーバーが出ていく試合が多いというのは、今と違ってチーム状態がよくない。実際、その年も3位に終わっているんだよね」

 常勝を義務づけられた巨人に、AクラスでOKという概念はない。78年から3年連続で優勝を逃した監督の長嶋茂雄は解任され、81年から投手出身の藤田元司が就任。先発完投重視の監督だけに、その年、右手小指骨折のケガもあった鹿取の登板数は22試合と激減する。角が抑えで20セーブを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲り、優勝に貢献したのとは対照的だった。

【壊れてもいいと思って投げていた】

 翌82年も21登板に終わったなか、藤田ならではの考えがあったのか、鹿取は5試合に先発。さらにオフには藤田からアンダースロー転向を指令されるも、右腕に過去にない張りとしびれが出て断念。チームが優勝した83年は38登板も、やはり5試合に先発してプロ初で唯一の完投勝利も挙げた。この時期、リリーバーとしては停滞し、起用法も定まっていなかった感がある。

「81年に調子が悪くて、結果が残らなかったからしょうがないと思う。藤田さんとしては『鹿取は今のままではダメ』と見ていたんじゃないかな。別に先発にしたかったわけじゃなくて、何かを変えろという提案だったと思う。だから、フォーム変えるのも、先発するのも、決して遠回りじゃなかった。持っている球種を磨かなきゃいけない、ということを強く感じたからね」

 鹿取にとって雌伏の3年間が過ぎ、84年、助監督だった王貞治が監督に就任。同年は48試合、85年はチーム最多の60試合と登板数が増えると、86年は新外国人右腕のサンチェが抑えとなり、鹿取は角とともにセットアッパーを務めることになった。

「サンチェとはいつもキャッチボールしてたけど、ボールの勢いが違った。ひとりだけ150キロ台。別格だなと。それで角が左の横(サイドスロー)、僕が右の横だから、ちょうどバランスが取れて、うしろの3イニング、何とかなったんじゃないかと思う。ただ、投げる順番は不同でね。最後の9回はしんどいから、みんなで助け合っていかなきゃいけないなと」

 実際、86年のセーブ数はサンチェが19、鹿取が4、角が2だった。それが87年はサンチェが不振に陥り、鹿取が抑えを担うケースが増えて7勝18 セーブ。年間130試合だった当時、リーグ最多の63試合に登板したことから、酷使される状況が「鹿取(カト)られる」と表現され、流行語のようになった。

「あの時は、壊れてもいいと思って投げていた。毎試合、マウンドに上がる時に、これが最後かもしれないなと思っていた。それぐらい疲労度が高かったし、王さんが使ってくれることを意気に感じていたし。加減して投げて結果を残さないよりは、全力でいって『ここで壊れてもしょうがない』と。中途半端に投げるよりも、腕を強く振って『これでもか!』ってくらい、全力でね」

(文中敬称略)

後編につづく>>


鹿取義隆(かとり・よしたか)/1957年3月10日、高知県生まれ。高知商から明治大を経て、78年にドラフト外で巨人に入団。87年にはリーグ最多の63試合に登板し、優勝に貢献。西武に移籍した90年、最優秀救援投手のタイトルを獲得。97年に現役を引退。98年に巨人の二軍投手コーチを経て、99年から一軍コーチに就任、2000年には日本一に導いた。01年にアメリカでのコーチ留学を経て、02年に巨人のヘッドコーチに就任。投手陣を再建し、優勝に貢献した。その後、侍ジャパンのテクニカルディレクター、U−15の代表監督、巨人のGM兼編成本部長などを歴任。現在は解説者として活躍している

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