本年度のノーベル経済学賞を受賞したのは、ダロン・アセモグル、ジェームズ・A・ロビンソン、サイモン・ジョンソンの3名だった。賞が与えられたのは、「制度がどのように形成され、国家の繁栄に影響を与えるか」に関する研究に対してである。
社会制度と経済繁栄の関連にフォーカスした研究は、民主主義国家と権威主義国家の対立が続く現代の国際社会にとってホットなトピックと言えるだろう。しかし、受賞者の一人であるアセモグルにとって、この研究テーマは最近探究を始めたものではない。長期間の研究が実を結んだ結果、ノーベル賞受賞という栄誉を得たのである。
そんなアセモグル教授の研究内容は多岐にわたり、素人には全貌の把握は難しい。が、ノーベル賞受賞によって日本でも注目度が高まっており、以前邦訳された著作にも改めて脚光が当たっている。そこで、本稿では経済学者として活躍し、アセモグルにインタビューした経験もある大阪大学教授の安田洋祐氏に、この受賞の意味とアセモグルの業績のすさまじさ、そして数あるアセモグルの著作の中で、経済学初心者におすすめを伺った。
──ノーベル経済学賞を受賞したことでダロン・アセモグルが日本でも話題です。どのような研究と実績が評価されているのでしょうか。
安田:まず前提として、そもそも今回の研究はロビンソン、ジョンソン、アセモグルの3人で行われたもので、アセモグルは共同研究者の一人です。それを踏まえた上でアセモグルの研究の特徴に関して言えば、まず「普段やっている研究の幅が非常に広い」という点があります。経済学のほぼ全ての分野について研究を行っており、そういった点から「現役最強の経済学者」と言われています。
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──最強ですか。
安田:経済学者のジャンルを大きく分けると、自然科学でいう基礎研究に該当する理論系の研究をやっている研究者と、データを使った実証研究をやっている研究者に分かれます。アセモグルがすごいのは、この両方にまたがって研究を行っている点です。専門化・細分化が進んだ現在の経済学の中で、理論と実証の両方でトップクラスの研究を大量に行っているというのは、極めて珍しい存在です。
──確かにそれは「最強」と呼ばれても不思議ではないですね。具体的にどういったジャンルで研究を行っているんでしょうか?
安田: 今回ノーベル賞を受賞したのは、政治経済学分野での貢献が評価されたからです。しかし、たとえばマクロ経済学の一分野である経済成長理論でもアセモグルは大きな仕事をたくさん行っています。他にも、人々の社会的ネットワークがどのように形成され、経済に影響を与えるかを研究するネットワーク経済学という分野でも大量に論文を書いています。
──それぞれの分野に専門の研究者がいる中で、多ジャンルにまたがって論文を大量生産しているわけですね。
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安田:研究実績をどのように測るかという点については色々なやり方があります。研究者の世界でよく行われるのは、「Google Scholar」というGoogleが提供している学術論文検索サービス上で、論文の被引用数を見るやり方です。これはどれだけその論文が参照されたかを示す重要な数字ですが、アセモグルの場合は25万件に迫ろうとしてます。現役研究者もリタイアした研究者も含めて、ここまで多い経済学者はほぼいません。受賞前から、「アセモグル教授がノーベル賞を取るのは確定しているけど、どの分野での研究に対して賞が与えられるかが問題」という状態でした。
──本当にすごい人なんですね。
安田:アセモグルの凄さは論文の被引用数だけではなく、研究機関内のポジションにも現れています。アセモグルは経済学の世界的なトップスクールであるMITの教授ですが、その中でも各学部に多くて一人しかいない、「インスティテュート・プロフェッサー」というポジションについています。これは学部内で一番偉い先生、みたいな位置なんですがMITの経済学部には何人もノーベル賞受賞者がいるんです。そんな中で、彼らを差し置いてアセモグルが、世界のMITを代表するインスティテュート・プロフェッサーになっていた。もう別格です。アスリートでいうと大谷翔平みたいな感じでしょうか。あと、ほとんどネタみたいな「アセモグル伝説」みたいな話もけっこうあります。
──たとえばどんな伝説でしょうか。
安田:私が知っていて、なおかつ裏が取れている話では、彼が腱鞘炎になった時のエピソードがあります。アセモグルは、あまりにも大量の論文を書くために、タイピングしすぎて腱鞘炎になってしまったそうなんです。アセモグルの奥様は研究者なので、タイプができないうちは自分が話したことを奥様にタイピングしてもらってまでも書いていたそうです。
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──口述筆記! 色々と不自由そうですね。
安田:その通りで、論文を書くペースも少しは落ちるだろう……と周りからは思われていたのですが、なんと執筆のペースがむしろ上がった。これによって「実はアセモグルは口述筆記の方がハイペースで論文が作れる」ということがわかり、その後の論文発表ペースもさらに上がったんです。
──まるでマンガの世界(笑)。
安田:なので、最近では自分でタイプせず、話した内容を自動でテキスト化してくれる機能を使って、口述筆記で論文を書いていると本人が言っていました。論文も大量に書くし、それ以外に本も書いたりメールを打ったりで、普通の人に比べてタイプする量が尋常じゃなく多いので、口述筆記の方が負担が少ないようです。ただ、実際に口述筆記はやってみるとわかりますが、これはかなり難しい。口で喋りながら文章の最終形まできっちりイメージして考えるのは大変です。結局、テキスト化した後の修正で時間がかかってしまい、諦めてしまう人が多いと思うんですが、アセモグルは論文の完成形を最初からイメージして、その通りに話せるんでしょうね。
──もう、特殊能力としか思えないです。では、今回のノーベル賞受賞に関しては、そんなアセモグルのどのような点が評価されたのでしょうか?
安田:受賞理由はノーベル賞選考委員会もオープンにしていまして、一言で言えば「社会的な制度がどのように形成され、どのように経済的繁栄に影響を与えるかに関する研究を推進したこと」が理由となっています。
──それは具体的にはどのような研究でしょうか?
安田:社会制度には、民主主義体制だけではなく、独裁国家や権威主義的な体制もありますよね。そういった、人々の資産や権利を政治的権力を持っている独裁者や政党が搾取・収奪してしまうような政治体制の国と、基本的な権利を人々に認めて法律を整備し、権力者が好き勝手をやるのではなく法治国家として包摂的な制度を築き上げた国とでは、経済発展にどのような違いがあるかを大量の事例から分析した研究です。
──権威主義国家と民主主義国家の対立が深まる現在の国際情勢からすると、とても今日的なトピックですね。
安田:そうですね。ただ、アセモグルたちがこの研究を始めたのは、20年以上前からなんです。当時の彼らが「人口比ベースで見ると権威主義国家が拡大傾向にある」という現在の状況を念頭において研究を進めたわけではないのですが、結果的に非常に重要な問題を取り扱ったことになりました。こういった点は、ノーベル経済学賞の特徴でもあります。
──と、言いますと。
安田:たとえば自然科学関係の各賞は、最新の研究や業績に対して与えられることがあります。今回でいえば物理学賞と化学賞はAIに関する研究に対して与えられましたが、これは最近の先駆的な研究に対してノーベル賞が与えられた例だと思います。しかし、経済学賞に関しては、もっともらしさや有用性が明らかになるまで、自然科学系の研究よりも時間がかかることが多いんです。短くとも20年程度の「時の試練」に耐える必要があるので、ノーベル経済学賞は受賞者の年齢が高めです。平均年齢は70歳近いはずです。
──なるほど。正確かどうかがすぐにわからないのが、経済学の研究の特徴なんですね。では、アセモグルの著作をこれから読んでみたい、という読者に対しては、どの本がおすすめでしょうか?
安田:日本語に翻訳されているものはどれも読みやすくておすすめです。時系列で言えば、最初に翻訳されたのが『国家はなぜ衰退するのか:権力・繁栄・貧困の起源』(早川書房)という本なんですが、この本の内容は今回のノーベル賞受賞ともっともオーバーラップしていると思いますので、まずこちらをおすすめしたいです。文庫化されていて、上下巻合わせても2000円ほどで読めます。内容がとても充実している本ですね。
──他にも、経済学の知識がなくても読めるアセモグルの本はありますか?
安田:今回の受賞理由とつながる研究をわかりやすく紹介しているものだと、『自由の命運 : 国家、社会、そして狭い回廊』(早川書房)という本もおすすめです。こちらも各界から絶賛されている名著です。あと、昨年日本語訳が出た『技術革新と不平等の1000年史』(早川書房)という本もあります。この本では、最新のAIなどが私たちの暮らしにどのような影響を与えるのかを検証しつつ、このまま野放図に技術開発が進むと、政治的影響力の強いエリート層にとって非常に有利な形で新技術が使われてしまうかもしれない、という警鐘を鳴らしています。新技術が我々の暮らしをどう変化させるのか、それによって生まれる格差はどう社会に影響を与えるのか、という点に関心のある人にはおすすめしたいです。
──いずれも、歴史書としても読めそうな内容ですね。
安田:その通りで、経済を軸にした歴史書としても読めます。一般向けにアセモグルが書く啓蒙書や入門書はとても読みやすくて、彼の説明のうまさが際立って感じられると思います。そのテクニックを活かして、経済学に関するストレートな入門書も書いていますね。
──それはどのような本なのでしょうか?
安田:こちらはアセモグルだけではなく、デヴィッド・レイブソンとジョン・リストという学者たちとの共著で、『アセモグル/レイブソン/リスト 入門経済学』(東洋経済新報社)というタイトルです。堅そうなタイトルですが、内容はとても読みやすい。最新の学術的発展にもきちんと触れつつ、現実的問題への応用もフォローしています。実例も豊富に盛り込まれていますので「経済学について知りたいけど、何か一冊いい本はないか」という人には強くおすすめしたいです。このシリーズでは『ミクロ経済学』『マクロ経済学』というタイトルの2冊も発売されていますが、とりあえず経済学のイロハを知りたいのなら『入門経済学』を読んでいただきたいです。
──経済は我々の生活からは切り離せませんし、自分も買って読んでみたくなりました。
安田:アセモグルの本は、扱っているトピックがダイナミックです。何千年という人類史において、収奪的な国家や制度がなぜ破綻して衰退し、包摂的な制度が経済発展や格差の減少に対して優れたシステムとして機能したのか。どれもナラティブだけでなく、データを用いて仮説の裏づけをきちんとしながら、精緻に著されているのです。
──そういった研究が評価されて、ノーベル賞受賞に至ったわけですね。
安田:そうですね。そこから示唆されるのは、近年存在感を増している権威主義的国家は搾取的・収奪的なシステムで動いており、いわばそのシステムは繁栄を約束しないということなんです。実際、人種的・生物学的に全く同じ民族が住んでいるはずの北朝鮮と韓国を比べてみれば、わかりやすいですよね。権威主義的な北朝鮮と、より包摂的な韓国とでは、GDPで見ると50倍近い差がついてしまっている。シンガポールや中国は「権威主義的ながら経済の舵取りをうまくやっている」という形でやってきましたが、それがどこまでサステナブルかはわかりません。さまざまな問題を多数抱えている現代の国際情勢がある以上、やはりアセモグルの研究は現在の世相を理解する上で重要なものだと思います。
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