フジテレビ問題から考える。これからの報道と受け取り手の理想の関係とは?

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2025年02月07日 16:10  CINRA.NET

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Text by 原里実

先月引退を表明した元タレントの中居正広氏をめぐる問題。第三者委員会による調査の結果が待たれるなかで、事態はいまだ収束していません。

フジテレビが1月27日に行なった記者会見にも参加していたノンフィクションライターの石戸諭さんは、一連の問題が始まってから「結果的に問われているのは、マスメディア業界のあり方だ」と感じているといいます。

今回の問題におけるフジテレビの責任から、会見における記者のふるまい、そして事の発端となる報道を行なった『週刊文春』の「訂正」問題も踏まえ、これからのジャーナリズムのあるべき姿、そして報道の受け取り手が持つべき態度について、石戸さんに聞きました。

今回の問題に関連し、フジテレビは二度の会見を行なっています。1月17日には港浩一社長(当時)が会見しましたが、出席できるメディアを記者クラブ加盟社のみに限定するなど閉鎖的な対応が批判を受け、「やり直し」として実施されたのが1月27日の会見です。

しかし、会見に10時間超を費やしてもなお、フジテレビにスポンサーが戻ることはありませんでした。今回の問題におけるフジテレビの説明責任は、どのような点にあるのでしょうか。

石戸:現時点で争いがない事実関係を整理すると、第一に、当事者となった女性と中居正広氏の間に起きた重大な人権侵害にあたる可能性がある事案をフジテレビは初期から把握していた。第二に中居氏は責任を認めて女性に慰謝料を支払ったうえで、当人同士の間で示談が成立していることです。

ここで問題は中居氏が、フジテレビが日曜ゴールデンタイムに冠番組のMCを依頼していた人物であるということです。取引関係にあった中居氏と女性の間に起こった事案を知りながら、なぜ少数の役員のみで秘匿し、中居氏のレギュラー番組の継続を決めて、しかも単発番組の発注もしていたのか。

この対応が果たして適切だったのかは、特に問われなければいけないと思います。そして事案に対して、どこまでA氏なる幹部社員(※)が関与したのか。記者会見の時点で言えることもあったはずですが、丁寧な説明には失敗しました。今後の詳細は第三者委員会の調査に委ねられますが、経営陣が辞任したので問題なしということにはならないでしょう。

yu_photo / Shutterstock

フジテレビは会見のなかで、港浩一社長と嘉納修治会長の辞任を発表しています。ただ、フジテレビ取締役相談役のほか、フジサンケイグループ代表、フジ・メディア・ホールディングス取締役相談役も務め、長年同グループで影響力を保持する日枝久氏はいまだ役職にとどまっています。

一方、記者会見では、追及する側として参加している記者の言動も問題となりました。これは「結果的にマスメディア業界の信用を落とした」というのが石戸さんの考えです。現場では何が起こっていたのでしょうか。

石戸:発端となったのは、遠藤龍之介副会長が中居氏と女性との間に「意思の一致か不一致」という認識の違いがあると発言したことです。

遠藤氏が発言の撤回を表明する(※)と、一部の記者があきらかに熱を込めて密室で起きたことの詳細な事実認定を求め始めました。憶測としか思えない踏み込んだ表現をしていた記者もいました。

最終的には石田健氏(ウェブメディア『The HEADLINE』編集長)と私が「二次加害の可能性」を指摘し、彼らからも明確に反論がないまま収束しましたが、第三者である記者が会見の場で、当事者が明かさないと合意しているような内容まで「明かせ」と求めるのは明らかに行き過ぎた行為です。

「人権を守れ」と叫んでいる記者たちが、二次加害に当たりかねない、それを誘発しかねないことを、さも当然であるかのような態度で主張する。多くの視聴者の印象としては、「何か大事なことを隠蔽していそうなフジテレビの回答にも問題は多いが、大声で叫んでいる記者らも信用できそうにない」ということに尽きるのではないでしょうか。

ノンフィクションライター・石戸諭さん

こうした問題が起こってしまった背景として石戸さんが指摘するのは、記者会見の「ショー化」についてです。

石戸:たとえばの話ですが、追及した記者が当事者と女性サイドの弁護士、そして中居氏と彼の弁護士を丁寧に取材したうえで、説得を重ねて双方から公表の同意、つまり示談の解除を取り付けて示談書や当日の経緯を入手しているのなら、私の批判はまったくあたらないものになります。しかし、彼らが情報源としていたものの多くは、自らが入手した一次情報ですらありませんでした。

あたりまえの話ですが、私も会見にあたって関係者の取材はしています。そうした足元の取材もないまま、あれだけ多くの記者が会見に押しかける事態は、これまでの常識にはありませんでした。しかも、自分が質問している姿をスマートフォンで自撮りしたり、同行したスタッフに撮らせたりする人々がここまで多くなるとは……。従来の常識の崩壊を感じました。

石戸:そもそも、不祥事を起こした企業が開催する記者会見にルールや義務はありません。開催するか否か、どのようなかたちで会見を運営するかは、企業の裁量に委ねられます。一時期話題になったような、指名しない記者をあらかじめ決める「NGリスト」をつくることも、禁止されてはいません。企業の対応の是非を最終的に判断するのは、読者や視聴者、フジテレビの場合でいえばスポンサーの役割です。

その前提を踏まえると、会見の運営形式やそこでの回答内容について、「企業側の態度を明らかにし、その是非を読者や視聴者、スポンサーに問う」という姿勢での追及自体は成り立つものの、「その場で正させることが記者側の権利である」という姿勢での踏み込みは、過度なものかもしれません。

石戸:ながらく取材現場における記者会見の価値は低いものでした。大切なのは、不祥事を起こした企業の幹部やキーパーソンといかに1対1の機会をつくるか、他社が接触できない内部の情報源をいかにつくるか。自分が手にした決定的な情報を、会見というオープンな場でわざわざぶつけるなんてことはしないのが、かつての記者の常識でした。

ところが、最近は参加する記者の意識に大きく変化を感じます。

話題の会見にテレビ等々の生中継が入り、ネットメディアでも流す時代になったことで、一部の記者たちは厳しい追及をして何かと戦っているかのような絵づくりのほうを大事にしているように見受けられます。特に自撮り記者を見ていると、記者会見で目立つことが、あたかもジャーナリズムの実践だという意識が生まれているように感じることもあります。

多少譲って、記者会見がひとつのコンテンツとなり視聴率やPVにつながる以上、目立とうとするインセンティブが生まれることまでは致し方ありません。多少なりとも収益にもなるのでしょう。しかし、その結果が問題の本質をずらしてしまうようなヤジの類では、結果的にマスコミ不信を広げるだけです。

Microgen / Shutterstock

また、今回の問題の発端となった報道を行なった『週刊文春』についても、記事内容の一部を訂正していたことが問題視されています。この点について、石戸さんはどのように見ているのでしょうか。

石戸:2010年代から2020年代前半にかけて、新聞やテレビに向けられた「不信」を吸収し、信頼度を獲得してきたのが『文春』でした。社会に広がっていったのは、「しがらみだらけの新聞には報じられないことを、『文春』だけが報じられる」というイメージです。

つまり2010年代以降は『文春』の時代だったのです。「文春砲」なる言葉が市民権を得て、彼らが望んでいたかはわかりませんが「権威」となっていきました。

ところが、その『文春』に対する信頼も今回で揺らいでいます。

『文春』は当初、事案が起きた当日、フジテレビ幹部社員であるA氏が誘い出して女性と中居氏と宴席を設けたにもかかわらず、ドタキャンし中居氏と女性が二人きりになる状況をつくり出したと書いていました。しかし、のちの記事では、誘ったのは中居氏だったと訂正しました。元大阪市長で弁護士の橋下徹氏からの指摘をうけて、訂正を公にしたといいます。

多くのメディア関係者は『文春』の初報から第二報以降で書き方が変わっていることは気づいていましたが、少なくとも私は訂正の影響をかなり軽く考えていました。率直に言えば、一つの訂正を機に「廃刊」を求める声まで上がることになるとは想像できていませんでした。

それがなぜかと言えば、これまでにも『文春』の誤報はあったから。その一例として、いまでも日本考古学協会のホームページに掲載されている「大分県聖嶽洞窟遺跡の旧石器捏造疑惑」(2001年〜2004年)という一大事件が挙げられます。

石戸:これは、別府大学の賀川光夫名誉教授(当時)が『文春』から根拠なき調査の捏造疑惑をかけられ、結果的に抗議のため自死をするという経過を辿った事件です。

賀川氏は当時の『文春』編集長宛に抗議文を送りましたが、返信がなかった。また、賀川氏以外の研究者による学術的に正当な検証作業も行なわれましたが、彼らから見るとその内容が一切無視された続報が出ました。

『文春』にとって都合の良い「ファクト」が選ばれた続報が掲載されたということです。遺族が文藝春秋社を相手に起こした名誉毀損訴訟は最高裁まで3年の時間がかかりましたが、遺族側の勝訴で確定しています。

しかし、「これだから『文春』は信じられない、と主張したいわけではない」と石戸さんは言います。

石戸:週刊誌の良さは踏み込むがゆえのダイナミズムに宿るものですが、同時にアクセルを踏み込みすぎてしまうリスクもあります。

新聞にも致命的な誤報や訂正はあり、その都度大きな反省を求められてきました。現場レベルでも誤報を避ける慎重さは増していましたが、それが特に2010年代以降は『文春』に比べて踏み込み不足であるという批判も受けてきました。

Danyil Nikolaienko / Shutterstock

これからのジャーナリズムに大切なものは何か? それは、「慎重になりすぎる」「踏み込みすぎる」といった0か100かに陥らない「バランス感覚」。石戸さんは、アメリカ発のジャーナリスト向けの教科書『ジャーナリストの条件』にある、こんな言葉を紹介してくれました。

石戸:「ジャーナリストの目標は、市民としての問題を社会みんなで考えるようにすることだ。政治活動家や宣伝家の目標は、信じさせること——決まった政策や政治的結論を支持するよう、人々を得心させたり操作したりしようとすることだ」というものです。

私が言えることは、正義感や義憤に駆られ、「考える材料を提供する」という目的を明らかに逸脱した発言はどうにも危うさをはらむということです。たとえ、ジャーナリストの言葉が読者の大切にしている価値観と共鳴していたとしても、視野を狭くする危険性から逃れることはできないのです。

私たち報じる側から見ると「この問題を取材した私はこう考えますが、あなたはどう考えますか?」という、正解を押し付けない謙虚な姿勢が必要だということに尽きます。それを貫いた先にこそ、現代社会におけるマスメディアへの信頼は生まれるものではないでしょうか。ある問題の行方を決めるのはあくまで読者です。それに正解も不正解もありません。

TippaPatt / Shutterstock

石戸さんの言葉には、私たちもメディア業界にたずさわる身として、襟を正さなければならないとあらためて感じます。最後に、このような「正解を押し付けない」報道に対し、受け取り手はどのような態度でいることが望ましいのか聞きました。

石戸:ニュースを受け取る皆さんは自分の考えが間違っていたと思ったら、都度、考え直せばいいのです。ある意味では仕事や日々の生活と同じです。前提が変われば、考えも自ずと変わるものでしょう。自分が当事者になるようなニュースはそう多くはありませんが、どこか日常生活の延長にあるものです。

関心を持つことは大切ですが、関心を持ちすぎる必要はないと思います。適度な距離感でまずはいったん保留して、考えることも大切です。

今回の問題においては、特にSNSで憶測による発信や誹謗中傷が飛び交っています。現在はSNSでの発信やリポストなどを通じて、一人ひとりが「メディア」になれる時代です。だからこそ、憶測や思い込みを排して情報と向き合う冷静さ、そしてそれを踏まえたうえで、自分が一人の社会の構成員としてどんな社会にしていきたいかを考える姿勢が求められていると感じます。

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  • バブル世代が暴走してるだけ。政治とか報道もそう。数年待つだけ。
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