
空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第11回
(連載10:K-1準優勝 23歳のピーター・アーツは「めちゃくちゃ強かった」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第11回は、K-1ブームが巻き起こった裏で感じていた変化と違和感を語った。
【K-1崩壊への序曲】
佐竹は1994年4月30日に行なわれた代々木体育館での「第2回K-1グランプリ」で決勝戦まで進み、ピーター・アーツに敗れはしたが準優勝となった。
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日本人スターの佐竹が先頭に立って引っ張ったことはもちろん、ヘビー級の空手家やキックボクサーがぶつかり合うKO続出のファイトに加え、アーツ、アーネスト・ホースト、アンディ・フグ、マイク・ベルナルドなど、大会を重ねるごとにスターが出現。会場では多くのトップアーティストが観戦するなど、「K-1」は格闘技の枠を越え、さらに大きなムーブメントになっていった。
そんなブームと華やかさに沸く一方で、佐竹は違和感を抱いていた。
「準優勝したあとも練習を欠かさず、『もう1回、あの決勝戦へ行ってやろう』という闘志は沸々と湧いていました。ただ、肝心の"ステージ"が変化してきたんです」
それは、大会を運営するK-1事務局の内部だという。佐竹は、自らがK-1へと辿り着いた経緯をこう振り返る。
「これは説明が長くなりますが......当時の格闘技界は、諸国に武将がいる戦国時代のようなものでした。戦国時代では、尾張から織田信長が出てきて天下を統一に近づいていくわけですが、そんな大きな流れを格闘技界に当てはめると、最も力があった"武将"は大山倍達先生の極真会館。群雄割拠の格闘技界を統一したのは、K-1を創った正道会館でした。
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僕はそれまでに、就職を蹴って空手家として生き抜く決意をして、(ドン・中矢・)ニールセンと戦い、リングスに参戦し、そしてK-1へたどり着いた。おそらく今後、これほど混沌としてドラマ性があった時代は、格闘技界において二度と訪れないと思います。なぜなら、すべてが新しく誕生した物語ばかりだから。
格闘技はお金にならない、試合だけでは食べていけないという時代に、僕は『なんとかこの状況を変えなければならない』という部分でも戦いました。リングを離れたところではテレビに出演したり、雑誌でコラムを連載したりと、芸能活動でも汗を流したわけです」
空手、さらには格闘技界で道なき道を切り拓いた自負があった。事実、リング内外で存在感を発揮した佐竹の強さとスター性がなければ、K-1の成功はなかっただろう。しかし、ブームになると"ステージ"は変わっていった。
「人気が出てくると、当初の理想と現実のバランスが崩れて"拝金主義"になっていきました。(大会を主催、放送する)フジテレビが入ってきて、これまでとは違う路線で進めていった。ショービジネスとして、お金を稼ぐことはもちろん必要なことだったと思います。だけど、拝金主義だけになっていくと、あとは下降線をたどることになる。それは、どの世界でもそうでしょう。振り返れば、第2回のK-1グランプリがあった1994年は、そういう兆しが出始めた時でした」
【徐々に佐竹は「邪魔者」扱いに】
佐竹は続けて、こう説いた。
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「お金がほしい、強くなりたい、異性にモテたい......いろんな欲があります。ただ、欲というのは持てば満たせるものではありません。そこに行動力が伴わなければいけない。あのころのK-1は、欲を満たすための行動を選択する力を養っていなかったのかもしれません」
そうした違和感を抱くなかで佐竹は、K-1を隆盛に導いた最大の功労者であるにもかかわらず、居場所がなくなっていくことを感じていたという。
「事務局のなかでも、『もう人気選手は佐竹だけじゃない』という考えに変わっていくわけです。そうなると、自分は邪魔者扱い的な立場になっていった。当時、日本人のヘビー級の選手は僕しかいないから、大会を開催するためには僕がいることがマストなんですけど、他にも観客を集められる選手を作って売り込んでいこう、という転換の時期でした」
時代を開拓した佐竹に対し、「邪魔者」という言葉を使った人物はいたのだろうか。
「直接言われたことはありませんが、影で言っていた。そういう声はすぐに耳に入ってくるんです。ある時には、事務局に置いていたチャンピオンベルトを隠されたこともありましたよ。会場でも、『佐竹、弱いぞ!』という野次を飛ばすサクラなんじゃないかと思うような人が観客席にいたり......他にもいろんなことがあって、僕は邪魔になってきているんだと実感しました」
当時の自身が置かれた状況を、再び戦国時代を例にして次のように振り返った。
「僕は、戦国時代の日本が統一されて江戸幕府ができる前の、群雄割拠の時代を駆け抜けないといけないひとりの"武将"でした。ただ、そういう人間は幕府ができると"使い捨て"になるんです。幕府ができるまでは多くの武将がいましたが、幕府を開くと侍はいらなくなりますよね。そこで必要になるのは、商人です。
K-1もそうでした。幕府ができたあと、周囲から新しい人がどんどん入ってきた。組織作りが得意そうな体で、お金を稼ごうとするコンサルタント的な人もいましたね。そういう人って、根本的にうさんくさいんですよ(笑)」
【大会名で使った「リベンジ」が流行】
K-1グランプリ準優勝の裏で、佐竹は徐々に孤立していったが、その後もリングには上がり続けた。準優勝した大会から約5カ月後の9月18日、横浜アリーナで行なわれた「K-1 REVENGE」のメインイベントでは、アメリカのデニス"ハリケーン"レーンを2ラウンドTKOで破り、WKA(世界キックボクシング協会)世界スーパーヘビー級王座を獲得した。
英語で「復讐」を意味する「REVENGE」と銘打ったこの大会では、過去に敗れた選手が雪辱を期して再戦に挑む試合が目玉となった、1994年のK-1グランプリ1回戦でアメリカの格闘家パトリック・スミスに敗れたアンディ・フグも再戦を行ない、1ラウンド56秒でKO勝利を飾っている。
以来、「リベンジ」は流行語になり、スポーツ界、芸能界など幅広い分野で使われるようになった。
人気が加速したK-1で、舞台裏では「邪魔者」扱いされていると感じていた佐竹だが、表舞台では変わらずにK-1を引っ張っていく。試合スケジュールも過酷だった。レーン戦からわずか2週間後の10月2日、大阪府立体育会館での「KARATE WORLD CUP94」で英国のギャリー・サンドランと闘い2ラウンドTKOで勝利する。
さらに2カ月後の12月10日、名古屋レインボーホールでの「K-1 LEGEND〜乱〜」に参戦し、オーストラリアの空手家サム・グレコと対戦する。
このグレコとの一戦で、佐竹の体に異変が生じることになる。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。