
プロ野球の知られざる裏側を丹念に掘り起こした高橋安幸氏のノンフィクション『暗躍の球史 根本陸夫が動いた時代』(集英社)が、このたび第35回(2024年度)「ミズノスポーツライター賞」の優秀賞に選出された。球団の思惑、裏取引、報道されなかった事件の数々──。今回、本書のなかから、元日本ハムの監督であり、2023年の第5回WBCで侍ジャパンを世界一に導いた栗山英樹氏と根本陸夫氏の知られざるエピソードを一部抜粋して紹介したい。
【根本陸夫からの「西武に来い」】
「根本陸夫になりませんか?」
2011年オフ、栗山英樹は球団からそう打診され、のちに日本ハム監督に就任した。聞いた瞬間は混乱したそうだが、「根本さんのように現場を見てからフロントに入る形はどうですか?」という球団の説明自体は理解できた。いかにも、根本は西武時代、ダイエー(現・ソフトバンク)時代、それぞれ3年、2年と監督を務めたあと、フロント入りしている。
1970年代末から90年代にかけて日本球界で暗躍し、実質GM(ゼネラルマネージャー)として辣腕を発揮した。大型トレードで世間をあっと言わせ、有望な新人獲得をめぐる権謀術数が「マジック」とも称された。低迷していたライオンズ、ホークスに変革を起こし、それぞれの黄金時代につなげた功績で知られる。
栗山にとって、その根本は憧れの人だった。日本ハム球団がそのことを知って名前を出してきたのかどうか、そこまではわからないという。ただ、たった一度の面会が第二の人生の基盤をつくったのはたしかだった。
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91年の春先のことである。埼玉・所沢の西武球団事務所の一室。取締役編成部長の根本に向き合った途端、栗山は直立不動になった。
前年限りで現役を引退、ヤクルトを退団した栗山はマスコミの仕事に就いたばかり。その関係で西武球場を訪ねた際、根本との対面が実現した。当時の状況を栗山に聞く。
「もともとは僕が辞めるってなった時、根本さんが『西武に来い』と言っていると聞いたんです。まったく面識がなかったので驚いたんですが、僕の恩人が共通の知人だったようで、その方を介して。
ただ正直に言うと、そのとき一瞬、西武が獲ってくれるのかもしれないと期待したんです。野球選手としては、じつはその思いが強かった。でも、そうじゃなくて指導者のようだと聞いて『ああ、オレは選手としてもうダメなんだ......』と思ったんですね」
そう語る栗山は、当時まだ30歳だった。創価高、東京学芸大を経て、84年にヤクルトに入団。プロテストを受けてのドラフト外だったが、俊足巧打の両打ち外野手として86年に頭角を現す。自身初めて規定打席に達した89年にはゴールデン・グラブ賞を受賞した。
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だがその翌年オフに引退を決意したのは、ケガと病気が重なった影響だった。それだけに、新天地での現役続行への思いが頭の片隅に残っていた。だから西武でプレーする道もない以上、翻意することもなく、やむを得ず断りを入れた。
とはいえ、ほかでもない根本からの誘いを断ったのだから、声をかけてもらったことへの感謝の気持ちを直に伝えたい。そう考えた栗山は、西武関係者を通じて対面を頼み込んでいた。
「初めてお会いして、まず、野球界の人っていう感じじゃないオーラがありました。いい意味で違う世界の大親分のような、ヤクザっぽい風情があって、思わず背筋が伸びましたね」
【自らの後継者として栗山英樹を指名】
根本は、すでに栗山が断りを入れたことを何も知らないかのように口を開いた。
「どうなんだ?」
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「すいません。一回、いろんなことを勉強したいので、ひとつの球団に入るよりも、広く野球を勉強するためにはメディアに入ったほうがいいと思っているんです。本当にすいません」
「いやいやいや、何も謝ることはないよ。キミをオレの下につけて、オレみたいなことをやってもらおうかなと思ってたんだよな」
当時の根本の肩書きは編成部長でも、実質的にはGMだった。その「下につけて」ということはGM補佐のようなポストだったのか。このことは根本自身、公言はしていないが、ダイエー監督時代、担当記者にこう明かしていた。
「ヤクルトを辞めた栗山くんがいるだろう。彼をなあ、西武のとき、球団に誘ったんだ。彼はしっかり勉強もしとるしなあ。でも残念だったなあ」(日刊スポーツ/プロ野球番記者コラム/2018年)
記者によれば、根本はめったに人を誘った話はしなかったそうだが、なぜかこのときは違った。その話しぶりから、栗山に編成部門を統括する職務を任せ、自らの後継者として育てたかったとの思いが伝わってきたという。では、当時の栗山自身にはどう伝わっていたのか。
「オレみたいなことをやるっていうのは、根本さんがそれまでやってきたような裏仕事を含めて、人を動かす、ということだったんだろうなと思います。今にして考えてみれば、そんなにありがたいことはなかったんですけど、根本さんから『キミがそういうふうに決めたんだったら』と言われて、マスコミの仕事をするに当たっての心得をお話しいただきました」
今も栗山の頭のなかには、その助言がはっきりと残っている。根本は言った。
「偉そうに『オレはプロで野球やっていたんだ』というプライドはいっさい捨てなさい。ベテランの記者もプロなんだ。だからメディアの人たちの言うことはちゃんと聞きなさい」
【プロ野球の歴史を勉強しろ】
マスコミの世界でも、ゼロからスタートしてプロになれ──。そう説いた根本が、もうひとつ強調したのは「歴史」だった。
「これから野球界が進む道というのは、過去の流れがわからないと、どの方向に進めばいいのかわからない。だから歴史をちゃんと勉強して、迷ったら歴史に学びなさい。たとえば、もともとプロ野球というのは、巨人があって、巨人のためにできたものなんだ。そういう流れがわかっていれば、野球がこれから何をしなければいけないかということが見えてくる。
いかにプロ野球が進んできたのか、巷で言われていることではなく、本当はどういう経緯でそうなっていったのか。必ずこれからの球界の方向性に関係があるはず。しっかり勉強しなければいけないぞ」
実際には、さらに多種多様な話をしていったなかで、栗山には特にその「歴史」の話が印象に残っているという。
「あらためて『人に会って話を聞かないと......』と思いました。書き物では書ける範囲しか書けない、放送はもっと出せない、ってなりますよね。そういうところで本当は何が起こっていたのか、ちゃんと学びなさいと。逆に考えると、根本さんだけがわかっている本当のことがあって、それで裏仕事ができて、人を動かし、ものを動かせたのかなって、今になると思いますね」
では栗山自身、最初に根本陸夫という名前を意識し、その「裏仕事」を知るに至ったのはいつだったのか。
「本当に意識したのは、公康の時ですかね。『(社会人野球の)熊谷組に行く』と言っていた名古屋電気(現・愛工大名電)の工藤公康を西武がドラフトで指名して、結局、入団に至った。その時から現実的に『すごい人がいるんだ』と思い始めたんです。伊東勤とか秋山幸二の時はよくわからなかったんですが、この時も『何がどう動いて西武に入団したんだろう』とは思っていました」
81年、栗山が大学2年生の時のドラフト。熊谷組への入社が内定し、全12球団に"指名お断り"の通達を出していた工藤を、西武は6位で指名した。この時、監督からフロント入りしたばかりだった根本は、「裏約束は絶対にない。誠心誠意、話し合ってみる」と公言し、工藤側との交渉に入った。
この工藤の獲得は、当時の西武球団スカウト部長、浦田直治(元・西鉄)がいないとできなかった。伊東と秋山の獲得も、浦田が真っ先に動いたことで実現した。「根本の右腕」と呼ばれた浦田も、栗山にとっては注目に値する存在のようだ。
「浦田さんを動かせば動くようになっていた、ということがすごいですよね。あとは周りの人たちも、浦田さんに根本さんを見ていたんでしょうね。一緒に根本さんがいるかのように。それ、いちばん強いですよ。何倍もの仕事ができるので。あらためて憧れます。自分自身は表に出ない、前面に出ようとしないで、フィクサーとして暗躍したという生き方に。もともと憧れていて、こういう人はカッコいいなと思っていたのが根本さんでしたから」
根本は1999年、72歳で逝去したが、栗山の頭にその存在は残り続けた。日本ハム監督時代は天からの声に背中を押されるときもあり、WBC日本代表監督に就任してからは、まさに根本の「裏仕事」を実感することになるのだった。