画像:映画『そして、バトンは渡された』公式Instagramより◆“たかが不倫”でここまでの大騒動になってしまう「芸能界特有の事情」
永野芽郁と田中圭の不倫騒動が波紋を広げています。<相思相愛すぎだよね>や<もう織姫と彦星の気持ち。>などのLINEのやり取りが流出し、彼らをCMに起用している企業が広告を取り下げる事態に発展しています。
これまでにも不貞行為の発覚から失脚する光景は、幾度となく繰り返されてきました。その都度、キーとなっているのがスポンサーの対応です。当人や所属事務所が否定しても、企業が退き始めることで、取り返しのつかない事態であることが判明する。
けれども、たかが不倫でここまでの大騒動になってしまうのは、芸能界特有の事情があるのではないでしょうか。
ここからは、永野芽郁と田中圭の行動の是非を離れて、日本のショービジネスの構造的な問題点について考えたいと思います。
◆「俳優」としてのアイデンティティはどこに?
まず、永野芽郁も田中圭も肩書きは「俳優」です。では、彼らの代表作を挙げることができる人はどれくらいいるでしょうか? 残念ながら、熱心なファン以外にはほとんど知られていないのが現状です。
一方、彼らをCMで見る機会はとても多い。となると、芝居での役柄よりも、CMキャラクターとしての好感度や印象こそが、彼らの「俳優」としてのアイデンティティとなります。
つまり、いまの日本で売れっ子の「俳優」とは、企業のアンバサダーにふさわしいポジティブな性格を持っているとのイメージを与えられる人達のことを言うのです。
ここに言葉のズレが生じます。「俳優」とは名ばかりで、実際には素の人間としての好感度や清廉潔白さばかりが求められる。もっとも、起用する企業からすれば、それは正当な要求です。イメージの悪い人が商品やサービスをPRしたところで、購買意欲はわかないからです。
CM出演本数が多いことが俳優やタレントにとって名誉であることが日本では常識となっています。永野芽郁も今年4月末まで13社のCMに出演していました。その数こそが、「俳優」永野芽郁の信用度を表していたわけです。
◆アメリカでは、CM出演はステータスではない
けれども、俳優業の収支を計算する際に、あまりにもコマーシャルに出演することの比重が大きくなっていることは考えものです。
欧米では基本的にCMへの出演をよしとしない文化があります。CMとは手っ取り早くお金を稼げる手段であり、それに出ることは“落ち目”だとか“お金に困っている”とのイメージダウンにつながるという見方があるのです。近年では状況が変わってきて、ハリウッドスターが自国のCMに出演するケースも増えましたが、それでもそれがステータスであるかのように本数を競うことはありません。
ここからも、日本の「俳優」を取り巻く状況が異常だとわかるのではないでしょうか。本来、役者がする必要のないことで、優劣が決まっている。すると、映画やドラマは、そうした「素の人間としての好感度」を際立たせるためのPVのような作りになっていきます。情報番組のエンタメコーナーで紹介される映画などは、ほとんどその類です。
◆永野芽郁が映し出す“皮肉な現実”
今回の一件で、永野芽郁に“裏切られた”という声を多く聞きます。それが、いち個人としての永野芽郁に向けられる感想であるとすれば、勝手に清純派だと思い込んだほうが悪い。
しかしながら、CMキャラクターの仕事を得るために、表向きだけでも清く正しくと必死に演じなければならない芸能界の構造を思うと、それは見事な役者魂だったと言えるのではないでしょうか。
永野芽郁は、そんな皮肉な現実を映し出しているのです。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4