佐竹雅昭がK-1を「やめよう」と思った武蔵とのラストマッチ 負けても人生は「勝ちに持っていくことができる」

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2025年05月22日 10:50  webスポルティーバ

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空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第20回

(第19回:武蔵との試合で「ピンとこなかった」理由 「自分とは格闘家として辿ってきた道が違う」>>)

 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

 59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動する佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の最終回となる第20回は、武蔵とのK-1ラストマッチとその後について語った。

【試合当日に聞かされたジャッジ変更】

 1998年5月24日に初めて武蔵と対戦して引き分けた佐竹。再戦の機会は、1999年10月のK-1グランプリ開幕戦で訪れた。

 しかし、5ラウンドの試合をさばく3人のジャッジが通常の公式審判員ではなく、アーネスト・ホーストが所属する「ボスジム」のヨハン・ボス会長、アンディ・サワーらを輩出した「目白ジム」のヤン・プラス会長、マイク・ベルナルドが所属する「スティーブジム」のスティーブ・カラコダ会長が務めるという、異例の構成となった。

「そのジャッジ構成を聞いたのは試合当日でした。いきなりジャッジが変わるなんてあり得ないし、彼らはトレーナー。大会前から、不穏な空気というか、"佐竹は邪魔者"みたいな視線を感じていましたから、『何かあるのかもしれない』という悪い予感はありましたね」

 試合は1ラウンド、佐竹が右ストレートでダウンを奪う。2ラウンドは武蔵の左ミドルが効果的に入ったが、3ラウンドは佐竹が圧力をかけて攻めて武蔵がクリンチでそれを止める展開に。4ラウンドも同じような膠着状態が続き、最終5ラウンドも両者ともに決め手を欠いたままで終了のゴングが鳴った。

 かなりタフな試合だったが、ジャッジは3人とも48−46で武蔵を支持した。佐竹はダウンを奪った1ラウンド以外、すべて武蔵にポイントを取られたことになる。

 負けを宣告された瞬間、リング上で佐竹は「このままK-1をやめよう」と決断した。

「彼の攻撃はまったく効かなかったし、ダメージもありませんでしたから試合が終わっても元気でした。僕がダウンしそうになるとか、もっと追い込んでくれたら『強くなったな』『バトンタッチするよ』と潔く負けを認めたと思います。『闘って面白かった』って認めさせてくれたなら......。でも、全部が中途半端で僕が目指す"空手バカ一代"じゃなかったんですよ」

【K-1の舞台から去ったあとも貫く"空手道"】

 佐竹はさらに続けた。

「大会前から不穏な空気も感じていましたから、判定が出た時に『ああ、こういうことか』って思いました。もともと、『自分の空手人生はK-1で終わりじゃない』と思ってましたし、『さっさとやめたほうがいい。ここにいるとロクなことはない』と決意したんです」

 しかし控室に戻ると、志を共にした後輩たちが判定に憤り、涙を流していた。その姿を見て、ひとつのけじめをつけることを決めた。

「何も言わずに大阪ドームを去ろうと思っていたんですが、後輩が『こんな判定はおかしい』って悔し泣きしていたんです。彼らのためにも僕も何か言わなきゃいけないと思って、石井館長の部屋へ行って『どういうことですか?』と質問しました。答えは『どうでもいい』。それを聞いて、完全にやめる決意が固まりました」

 その武蔵戦から1カ月後の11月4日、佐竹は会見を開いて正式にK-1からの離脱を表明した。その後は、総合格闘技イベント「PRIDE」を中心に、さまざまな格闘技イベントに参戦。2002年12月31日に行なわれた「INOKI BOM―BA―YE 2002」の吉田秀彦戦を最後に、格闘技を引退した。

 佐竹が空手家として刻んだ歴史は、1990年代に栄華を誇ったK-1の歴史であり、現在の格闘技イベントの礎でもある。道なき道を切り拓いた空手家・佐竹雅昭は、59歳となった今、K-1時代をこう回顧した。

「すべて(ドン・中矢・)ニールセン戦から始まったことを考えると、その試合が1990年でしたから、1999年まで約10年。年齢でいえば25歳から34歳までですが、その期間は言葉で言い表わせないものがあります。

 確かに、物語は作ったと思います。自分で言うのも変ですが、きっと映画化しても面白いくらい波乱万丈でした。少年時代に大山倍達先生に憧れ、『牛を殺したい』と思った。そう本気で考え、芯がブレなかったから生きてこられた道でした。だから無謀な試合にも挑戦できたんだと思います」

 現在は、講演活動などを通じて"空手道"を伝えている。

「あの頃の経験が、今のエネルギーになっています。実は、現役をやめた後が人生で一番面白かったんですよ。現役時代はエネルギーを使いまくっていたんですけど、そうして消耗することで、逆に貯められたものがあった。消耗することで蓄積できたエネルギー。矛盾しているようですが、経験によって得られたエネルギーですね」

 最後に、読者へメッセージを送った。

「人生においては、負けを認めることも大切です。負けることは恥ずかしくない。そこから勝ちに持っていくことができる。それを忘れないでほしいです」

(おわり)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

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