太平洋戦争で亡くなった父親を振り返る呉屋美恵さん=5月8日、沖縄県中城村 「最後に父を見たのは6歳の時。もう一度、父の姿を見たい」。呉屋美恵さん(86)=沖縄県中城村=は、太平洋戦争で特攻隊員として出撃し、帰らぬ人となった父厚徳さんへの思いを募らせている。
厚徳さんは竹を編んで籠を作る職人で、子どもたちのために竹でブランコを作ってくれたこともあった。「本当に優しかった。よく遊んでもらったし、一度も怒るところを見たことがない」と呉屋さんは振り返る。
厚徳さんは戦争末期の1945年2月ごろに徴兵され、同年4月ごろ、特攻隊として出撃するために一度帰宅した。子どもたちの頭をなでながら「元気でね。自分はもう帰ってこない」と別れを告げ、戦地に向かった。6歳だった呉屋さんは、今でも鮮明にその時の厚徳さんの姿が脳裏に焼き付いている。
その後、戦死したとの知らせが届いたが、どこでどのように死亡したのか経緯は分からず、遺骨すらなかった。写真は残っておらず、墓には遺骨代わりに石を埋葬した。
「他人の親子が楽しそうに話しているのを見ると、父を思い出す」。呉屋さんは年を重ねるごとに、遺骨収集は難しいだろうが「もう一度顔が見たい。せめて写真だけでも手に入れば」との思いを募らせるようになったという。
人工知能(AI)を使って写真から動画を作ることができるとテレビで知り「写真があれば、動く父を見られるかもしれない」。呉屋さんがそう口にしたのを聞いた次男の清徳さん(63)は、母の父親に対する思いの強さを知った。「母はもう90歳になる。元気なうちに見せてあげたい」。清徳さんは今夏、特攻隊の出撃地だった鹿児島県に探しに行くという。
呉屋さんは「写真が見つかるかもしれないと聞いた。とても楽しみ」と期待を込める。ただその一方で、なによりも平和の大切さを訴える。「私のように父に会えない子どもをつくらないためにも、戦争は起こしてはいけない」。