嵐・二宮和也、小倉智昭さんは「お父さんでした」 目にいっぱい涙を溜めて在りし日を偲ぶ

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2025年03月17日 18:01  ORICON NEWS

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フリーアナウンサー・小倉智昭さんのお別れ会に出席した二宮和也
 昨年12月に77歳で亡くなったフリーアナウンサー・小倉智昭さんのお別れ会が17日、東京・表参道のBLUE NOTE TOKYOで行われた。

【写真】デビュー時に…小倉智昭さんとの思い出を語った二宮和也

 献花を終え、嵐の二宮和也が取材に応対した。「ご本人は楽しい場が好きな人だったので涙というよりは、みんなで思い出を話しながら笑って送れたのかなと思います」と話す。2006年から2010年まで放送された『嵐の宿題くん』(日本テレビ系)などで共演した。ただ、出会いは嵐がハワイで行ったデビューの時だそう。「ハワイで中継をつないでお話させていただいたのが出会い。出会いはグループ結成の99年です。バラエティを一緒にやって初めて小倉さんの偉大さを感じた。『いつ寝ているんだろう』というスケジュールで動いていて。それも1年だけじゃなくて何年も続いているし、続けていくルーティンと聞いて驚いたというか…。若者の我々が『眠い』なんて言っちゃいけないなと思ったことがありました」と懐かしんだ。

 人柄も語る。「小倉さんは、その日に番組に遊びに来てくださる人たちのドラマだったり、映画だったりはもちろん見てるし、自分が気になってるものもそうですし、これから訪れる方々の作品見てるんですけども、それとは別枠で嵐のDVDだったり、音楽だったり、うちのメンバーが出てるドラマや映画は時間を割いて見てくれていた。やっぱり僕らにとって本当に大きかったですし、僕らが頼りない時には『じゃあ俺が一緒に番組出てやるよ』と番組にも出て『こいつはこういうやつなんだ』みたいなことをプレゼンしてくれた」と口にする。「本当にお父さんのようなというか…。もうお父さんでした。『こいつのこと頼むね』と番組に僕らのことを根付かせていくこともしていただいたりとか…。お父さんでした」と感謝した。

 今思い出される小倉さんの話も。「自分のやりたいように、自分が楽しいこと、楽しめることをやるべきだ、と教えていただいた。いくつになっても学ぶ姿勢というのは背中で教えられた。僕らが初めてバラエティやる時も一緒になってくれた。僕ら的にはすごく支えになってたけど、小倉さんから言わせると『俺もこれはやったことないから』と。『とくダネにお前たちがレギュラーで入るんだったら助けられるけど、お前たちと一緒にレギュラーやるなら俺も同じだから』と。自分の中で線をちゃんと引いて『俺もお前らと一緒だから。だから楽しもうよ』というスタンスは、自分が大人になってくるにつれて忘れちゃいけないスタンス。先輩だけど自分が分からないものであれば、みんなと学んでいくという姿勢は、本当に教えられました」と語った。

 病に伏した後も連絡は欠かさなかった。「いろいろ連絡を取らせていただいていた。経過は随時聞いてはいましたし、感じてはいた。もちろん悲しかったし、来るときは来てしまったなという思いはあったんです。一方で、これで、いよいよほんとに自分の好きなことだけをできる時間が小倉さんにできたのかなって。もちろん悲しいですけども、そういう風に思うことができました。今もう3ヶ月以上経って、やっぱりまだ悲しいですし、ずっと最後にご飯を食べた時の小倉さんの思い出はずっとありますけど、楽しいことやっててもらいたいなと思う。僕らがまたバカなことやっていたら『バカだな、こいつら』と上からのぞいて笑ってもらえるように、我々も頑張んなきゃいけないのかなっていうのは思うところです」と話すと目にあふれんばかりの涙を溜めながら話した。最後に会ったのは、その1年半ほど前の食事会だったという。「ギリギリまで心配されてたんでしょうね…。もうずっと心配かけっぱなしだったんだと思います。だから、最後まで『顔見せろ』という話になったりとか、『飯行くぞ』となったりとか…。僕としては小倉さんとご飯食べられる、ただただ楽しい時間だったんですけど…。もしかしたら本人はそうだったかもしれない。だから、もう心配かけることなく、いい大人なんで、これからも頑張んなきゃな、と。それが1つ増えた」と吐露。最後は天国の小倉さんに「楽しんでもらいたいと思う。今の芸能界が、どう見えてるかわからないし、見えていたらどう言うのかもわからないけども、小倉さんに怒られないように頑張って働きます」と誓っていた。

 小倉さんは1947年5月25日生まれ、秋田県出身。獨協大学外国語学部卒業後、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に入社し、その後、フリーアナウンサーに転向。99年4月に始まったフジテレビ朝の情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』では22年にわたりMCを務め、フジテレビの朝の顔として親しまれた。2016年に膀胱がんを公表し、18年に膀胱全摘手術を受けた。21年10月には膀胱がんが肺に転移したことを公表していた。

 お別れ会が行われたブルーノート東京は、小倉さんが足繁くかよった思い出の場所。祭壇には、アコギ5本、エレキギター2本、エレキベース1本など小倉さんの愛用品が並べられ、大好きだった西武ライオンズのユニフォーム、西武時代の松坂大輔のユニフォームや、レアル・マドリードのユニフォームや、これまで取材に訪れたオリンピックの取材パス、聖火ランナーを務めた際のトーチなどか飾られていた。

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